比治山公園管理事務所に入り不愛想な男性管理人とほんの少しだけ会話をした。彼が戦前の歴史に詳しくないことはすぐに分かったので質問するのは止めた。舊御便殿(※舊は旧の旧字体である)の写真が飾ってあったので記念に撮影させてもらった。
比治山の話
御便殿広場の宝探し
話を百メートル道路のふりだしにもどして、鶴見橋の西詰めに帰ると、目の前に比治山がある。
ウッソウとした松林につつまれた山の形が、あたかも虎がうずくまっているようなので臥虎山ともいい、広島在住の漢学者はこの山をもっぱら「がこさん」と表現した。昔の名称には「秘地山」ともある。
この比治山が、広島市民の遊覧の土地として比治山公園といわれるようになったのは、明治三十一年八月のことである。この山には、陸軍墓地と御便殿がある。この御便殿は、日清戦役の際、臨時第七回帝国議会の開院式に参列された明治天皇の御便殿に当てられた建物を明治四十二年十月にそっくり移したもので、明治四十三年の紀元節以来、広島名所の一つになった。
その御便殿がデビューしたとき、広島としては初めての「宝探し」が行われた。あの日の朝は、花火(広島弁でヒヤという)の音を合図に、宝探しが始められた。御便殿近くの草むらを探すと、あちこちの小さな木の枝に、みどり色や黄色の長さ一五センチばかり、巾三センチぐらいの布切れが、クルクルと細い針金で巻きつけてある。それを拾って景品場にいくと、この布切れに書いてあった番号によって手ぬぐいなどがもらえたもので、著者もこども心に手ぬぐい一本を探し当てた当時のうれしさがいまもって思い出される。
『がんす横丁 / 薄田太郎(たくみ出版 昭和四十八年)』



広島市に払い下げられ明治後期に比治山北端に移築された舊御便殿の跡は現在広場になっている。広場入口付近に比治山公園案内図が設置されていた。




案内図の背後に建っているのがまんが図書館である。被爆建造物である御大典記念碑、石灯篭の近くで数グループが花見をしていた(計20人程度)



政府が緊急事態宣言を全国に発令する前でまだ市内に悲壮感は漂っていなかった。私は広島旅行を敢行したことで貴重な光景を記録することができた(「STAY HOME!」とほざいていた田分けが今後の検証を経て笑いものにされるのは必至だ)。同調圧力に容易に屈する者ほど実は中身も信念もないのである(友達の数や持ち物を自慢したがる幼稚な年寄りは団塊~ポスト団塊に極めて多い)。またウマシカはよく群れる(未成年の時に孤に耐える力を身につけていないと本当に憐れだ)


天皇陛下御在位60年奉祝記念碑の隣に建つ皇太子殿下御展望之御趾碑をもっとたくさんの国民に見てもらいたい…この地を初めて行啓されたのは明治天皇や大正天皇ではなく皇太子(後の昭和天皇)だったという事実を理解するためにも。
大正十五年五月二十六日 皇太子殿下舊御便殿ニ行啓此ノ所ヨリ市街ヲ御展望アラセラル
昭和十六年七月十二日建之
廣島市長正五位勲四等藤田若水謹書

比治山の話
御便殿広場の宝探し
話を百メートル道路のふりだしにもどして、鶴見橋の西詰めに帰ると、目の前に比治山がある。
ウッソウとした松林につつまれた山の形が、あたかも虎がうずくまっているようなので臥虎山ともいい、広島在住の漢学者はこの山をもっぱら「がこさん」と表現した。昔の名称には「秘地山」ともある。
この比治山が、広島市民の遊覧の土地として比治山公園といわれるようになったのは、明治三十一年八月のことである。この山には、陸軍墓地と御便殿がある。この御便殿は、日清戦役の際、臨時第七回帝国議会の開院式に参列された明治天皇の御便殿に当てられた建物を明治四十二年十月にそっくり移したもので、明治四十三年の紀元節以来、広島名所の一つになった。
その御便殿がデビューしたとき、広島としては初めての「宝探し」が行われた。あの日の朝は、花火(広島弁でヒヤという)の音を合図に、宝探しが始められた。御便殿近くの草むらを探すと、あちこちの小さな木の枝に、みどり色や黄色の長さ一五センチばかり、巾三センチぐらいの布切れが、クルクルと細い針金で巻きつけてある。それを拾って景品場にいくと、この布切れに書いてあった番号によって手ぬぐいなどがもらえたもので、著者もこども心に手ぬぐい一本を探し当てた当時のうれしさがいまもって思い出される。
『がんす横丁 / 薄田太郎(たくみ出版 昭和四十八年)』



広島市に払い下げられ明治後期に比治山北端に移築された舊御便殿の跡は現在広場になっている。広場入口付近に比治山公園案内図が設置されていた。




案内図の背後に建っているのがまんが図書館である。被爆建造物である御大典記念碑、石灯篭の近くで数グループが花見をしていた(計20人程度)



政府が緊急事態宣言を全国に発令する前でまだ市内に悲壮感は漂っていなかった。私は広島旅行を敢行したことで貴重な光景を記録することができた(「STAY HOME!」とほざいていた田分けが今後の検証を経て笑いものにされるのは必至だ)。同調圧力に容易に屈する者ほど実は中身も信念もないのである(友達の数や持ち物を自慢したがる幼稚な年寄りは団塊~ポスト団塊に極めて多い)。またウマシカはよく群れる(未成年の時に孤に耐える力を身につけていないと本当に憐れだ)


天皇陛下御在位60年奉祝記念碑の隣に建つ皇太子殿下御展望之御趾碑をもっとたくさんの国民に見てもらいたい…この地を初めて行啓されたのは明治天皇や大正天皇ではなく皇太子(後の昭和天皇)だったという事実を理解するためにも。
大正十五年五月二十六日 皇太子殿下舊御便殿ニ行啓此ノ所ヨリ市街ヲ御展望アラセラル
昭和十六年七月十二日建之
廣島市長正五位勲四等藤田若水謹書
