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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

広島市中区東千田町界隈の変化(その1)

2007年08月03日 | 学生時代
東千田町の大学に私は一年半通った。昭和62(1987)年4月から昭和63年9月までのことである。日本国内はバブル景気にわいていた。キャンパス周辺の店は学生のおかげで繁盛していた。

約1万人の学生が東広島市に移住してしまって、銭湯や弱小の飲食店はことごとく廃業した。当時の活気を知る者としては悲しいものがある。

千田キャンパス南門の近くに【松浦商店】というお好み焼き屋があった。大学御用達と言ってもよいくらい学生でいつもいっぱいだった。

安くてボリュームがあったので、貧乏学生は大いに助けられた。松浦さんが店を閉めてからも店舗はそのままの状態で残っていたが、この春取り壊されて駐車場になった。

松浦商店跡地

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恩師

2007年07月06日 | 学生時代
中学の担任だったMさんは私にとって恩人である。高校を一つしか受験しない変わり者を心配して「ほんとにいいのか?滑り止めを受験しなくても」と言ってくれた。

「金の無駄ですから。両親もそれでいいとの考えです」
「そうか。お前、大学には進学するんだろう」
「はい。官立の学校を目指します。問題は金をどう捻出するかなんですよ(苦笑)」

そこでしばらく沈黙が続き、教師はこう切り出した。

「育英会の奨学金制度というのがある。お金を借りて大学へ行け。そして必ず返せ。私も奨学金で大学を出て教員になった。資料を取り寄せるからご両親とよくよく相談して結論を出してくれ」
「はぁ、そんな手もあるんですか」

家族会議の結果、書類を提出して夏休みに合同庁舎で面接を受けた。貫禄のある面接官は「君はこれからどうしたいんだ」とストレートを放ってきた。私は顔色一つ変えず「金を借りてでも勉強したいんです」と投げ返した。お偉方は目をつむったまま、ただ頷いていた。

休み明けに担任に呼ばれて「良かったな、奨学金出るぞ」と言われた。彼はまるで自分のことのように喜んでいた。私はごみだめ高校から官立の大学へという典型的なコースを辿った。

イデオロギー闘争に明け暮れる教師に対してはクソミソの評価を与える私だが、この先生との出会いがあったからこそ「いい先生も中にはいるよ」と言えるのだ。

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下見学生街の発展(その3)

2007年07月02日 | 学生時代

"元締め"と"ろくでなし"が暮らしていたコーポの対面に居酒屋が出来ていた。昔喫茶店があった場所だろうか。名前は失念した。飲食店は随分増えている。

居酒屋 華ごころ

店の少ない当時は大宴会を開くのも大事だった。だからわざわざ広島まで飲みに出て行った。そしてボーリングで汗をかき映画を見たりして夜を明かしていた。行きはよいよいだが、帰りは気が重かった。

底冷えのする中チャリンコをこいで駅から大学まで帰るのは辛かった。鏡山公園から駅までの直通道路は完成しておらず、えらい遠回りを余儀なくされていた。

夏の田園風景は好きだったが、緑の消えた畑を見るのは嫌であった。盆地の冬は厳しく、八本松のアジトに移動して、おでんを作りしこたま食ってからI、U、飯蛸、Oらと卓を囲んでいた。

今も残る広大な田園

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下見学生街の発展(その2)

2007年07月01日 | 学生時代

福祉会館対面の喫茶店ぱいぷは営業を続けている。当時近場で日曜日にご飯を食べさせてくれる店はここを含めてほんの数軒であった。

和菜亭 次郎丸

大きな黒い建物は和食の次郎丸。一体何時できたのだろうか。古い庄屋の家を移築したそうだ。更に道路を進むと見覚えのある小さなお好み焼き屋があった。新しい建物の間にかつての飲食店を見つけてほっとした。

お好み焼き ち○の○

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下見学生街の発展(その1)

2007年07月01日 | 学生時代

毒荘の前のダラダラ坂を下っていくと右手にレンタルビデオ屋、ブックオフ、パチンコ大学(11周年目)が建ち並ぶ。突き当たりのT字交差点の右側は開発が特に進んでいる。

どうしようもなく不味かった伝説のラーメン屋は既に消滅し、全家が出来ていた。昔は田園風景が限りなく続いていた地域である。あちこちの欲深い地主が田を潰してコーポを造りすぎたため、今では空き部屋が多いと聞く。

COCO壱とファミリーマート、その先には格安の散髪屋が出来ている

T字交差点からダラダラ坂を望む

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悪友のアジト

2007年06月30日 | 学生時代

私にUを紹介したのは“飯蛸”である。“飯蛸”はUと“I”と非常に仲が良かった。Uの第一印象は「神経質そうな男」だったが、話し出すと気さくで助平な遊び人であることがわかった。

私は18~19歳の時分ありとあらゆる悪い遊びを経験し、成人後は馬鹿らしくなって遊びを控えるようになった。悪の道の楽しさを教えてくれたのが、夜の帝王Uだ。彼のアジトは汚いことで有名だった。広島の下宿は一度も掃除をしておらず、ゴミの部屋と化していた。

空気は埃っぽくてすぐに足の裏が痒くなった。これは“I”からの又聞きになるが、薬缶で湯を沸かしてカップめんに注いでいる時に茶色い皮のようなものが出てきたらしい。大物のUが「多分はじけ豆の皮やろ。大丈夫、大丈夫」と言ったものは、チャバネゴキブリの死骸であった。「とても食えんかったわ」と“I”は渋い表情で語り、笑い出した。

東広島市に移ってからもUは掃除をしなかった。彼の部屋の掃除をしていたのは私達である。気が散って密談も進まないので、渋々掃除機をかけた。風呂の排水溝には下の毛の何十倍もの頭髪が詰まっていたのには目が点になった。

私は異臭の漂うアジトを皮肉って毒荘と名付けた。この部屋で数々の悪事を計画し、実行に移した。私とUが警察にマークされなかったのは、下見界隈がド田舎であったからである。今では毒荘の隣に「派出所」が出来ている。あの時オマワリが近くにいたら、私達は間違いなくブタ箱にぶち込まれていたことだろう。

Uと私には「墓場まで持って行かなければならぬ秘密」がある(笑)。これまで付き合いが続いているのは「仲間を決して売らなかった」からだ。彼は「しょうぞう」という小林明のモノマネが好きだった。

毒荘に隣接する派出所

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市民球場の熱気

2007年06月27日 | 学生時代

貧乏な下宿生の最大の娯楽はプロ野球観戦であった。香川出身の“黒帯”は大の巨人ファンで『広島戦観に行かんか』と頻繁に私を誘った。それで6回ほど前売りを買ったが、半分は雨天中止となり、雨男はどっちか、という話で口喧嘩をしたこともある。

残りの3回は三塁側内野席に陣取った。柄の悪い赤ヘル応援団がガンを飛ばしてくるのを無視して球の行方を目で追った。私達が観た試合はすべて巨人が負けた。広島市民が大喜びで帰る中にむすっとした表情の若者がいた。

“黒帯”は平和大通りの小汚い屋台に入り、私にひどく不味いラーメンを食わせた。そして『ほんまけったクソ悪いの。また行こうや。次は勝つから』と説得にかかるのであった。

無銭観戦をしたことも2度あった。同期が球場でビールの売り子のバイトをしており、試合開始から30分を経過したあたりで裏からこっそり入れてくれるのだ。外野の最低席であったが、異様な熱気は十分楽しめた。そのお礼に試験の山を教えた。私の読みはよく当たっており、悪友の間では信用があった(笑)

悪事をはたらいた同期Mはカンニングペーパーを作って試験を受ける常習犯だった。細胞生物学の試験でヘマをやり、退場させられるのを後から見て『とうとうバチが当たったわ。悪いことはもうできんな~』と思った。

それから市民球場に潜り込むことは止めた。Mは不可評価となり、最悪の留年は免れたかように見えた。しかし、専門に上がる段階で単位が揃わず、広島残留組となってしまったのである。この時ばかりは冷ややかな私も同情した。

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腐れ縁

2007年06月10日 | 学生時代
広島時代、私は四人組の一員であった。アクの強い人間を束ねていたのが、切れ者の“元締め”だ。私と“ろくでなし”はある意味自由電子のような存在だった。真面目に学んでいたのは“ひでえ”、ただ一人であったように思う。

私達が仲良くなったのは学生番号が近かったというのもある。最大の要因は互いに話し易かったということだろう。最も裕福な“元締め”はスマートによく奢ってくれた。貧窮していた私は随分と助けてもらった。

大学卒業後、四人が勢揃いしたことはまだない。この夏に食事を共にする可能性が少しは残っているが、どうも難しそうだ。

“ろくでなし”とは今年の春二度会っている。母校と上野で話をしたところ、人の良さは全然変わっていなかった。彼はお世辞にも学業ができた方ではない。辛辣な“U”は彼の成績を見て「可山優三」とからかっていたくらいだ。

しかし、昔から師匠、親、友達、後輩を大切にする、律儀な男であった。私は密かに畏敬の念を抱いていた。仁・義・礼・智・信といった道徳をちゃんと身につけている人は非常に少ない。

“ろくでなし”というあだ名を使うのはそろそろやめなければならないか(笑)。彼ほど日本人らしさを全身から出す人はいないのだ。

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広島の路面電車

2007年06月03日 | 学生時代

学生時代に路面電車やバスを利用することはあまりなかった。帰省する時に使うくらいだった。私は近くの「比治山橋」ではなく、わざわざ「大学前」から乗車して、時間をかけて広島駅に移動していた。当時の料金は120円だった。

広島駅から東千田町の大学に行くには『宇品行き①』に乗らなければならなかった。同じ下宿にいた総合科学部理系の“柔道黒帯”は入試の際に誤って『宇品行き⑤』に乗ってしまい、肝を冷したという。

異変に気付いた黒帯が車掌に恐る恐る尋ねたところ「君、この電車は大学を通過せんよ」と冷たく言われ、慌てて比治山で下車してタクシーを拾い、試験会場に遅刻して飛び込んだ。「恥ずかしくて情けなかった。でも二浪せんですんだわ(笑)」と彼は回想した。

路面電車が10m間隔で4車続いた光景は珍しい。この画像は「紙屋町西」電停から相生橋付近を撮影したものである。

6月10日は路面電車の日。全国の鉄オタが広島電鉄の車庫に集まってくる。子どもを連れて行き、家族サービスする父親は多い。

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東千田キャンパス

2007年06月02日 | 学生時代

かつての学び舎が東千田公園となって何年になるのだろうか。当時の建物として残っているのが、旧理学部一号館と学生会館の一部(食堂と書籍部)である。被爆建物の文理科大学本館は取り壊さずに、再利用することが決まったと新聞が報じていた。

※高等師範学校などを中国帝国大学に昇格する案が消えたのは、関東大震災によって巨額の復興費が必要になったためとも言われている。

体育館、プール、総合科学部の校舎のあった場所に東建の高層マンションが建設中。広島電鉄の停留所「大学前」が「日赤病院前」と名を変えている。正門から大学の表示が消えても森戸道路の両脇に植えられたメタセコイアの背丈だけは伸び続けている。

大学正門の奥がメタセコイア通りである

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自転車通学

2007年06月02日 | 学生時代

歩いても5分の東千田キャンパス(現在の東千田公園)には自転車で通っていた。横着な私は悪天候でも絶対に歩かなかった。国道2号線横断→カープ洋服店(最初の画像)→中核のアジトを一瞥→東門通過→掲示板でまず休講を確認→総科の教室というのが、お決まりのコースであった。

前進社跡地

東門の左にあった前進社はとっくの昔に取り壊されて、駐車場になっている。覆面にメットの年老いた過激派が見張り塔の三階から睨みをきかせていたのが懐かしい。盟友くわ太氏の下宿は東門から僅か20メートルという近さであった。そこが溜まり場にならなかったのは、あまりにも狭くて暗かったからだろう(笑)

くわ太氏の下宿があった付近

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広島での下宿生活

2007年05月19日 | 学生時代

今年は入学からちょうど20年目にあたる。私がごみだめ高等学校を去り、品のない田舎から脱出したのは1987(昭和62)年3月のことである。千田町界隈は学生で溢れ、暑苦しいまでの活気を肌で感じた。大学の周りには古本屋と銭湯がたくさんあった。

日当たりの悪い家賃1万1千円の下宿から最も近いスーパーが宝町のフジ(現Fuji)。食パン、豚細切れ、鶏もも、半キャベツ、たまご、低脂肪乳などの安い食材ばかり買っていた。自由化前の牛肉などは高くてまったく手が出なかった(笑)。

四畳半のカビ臭い部屋に小さなプロパンを置いていた。フライパンでカスみたいな食材をただ焼くのである。目玉焼きをかたきに半年続けて食べたら見るのもイヤになった。自炊を休む日は学食かホカ弁屋を利用した。ほっかほっか亭では「チキン南蛮弁当」をよく買っていたと思う。

日本育英会の奨学金で食いつないでいた貧乏学生の唯一の外食がお好み焼きであった。チャリンコに乗って街をぶらぶらしていると至るところからオ○フクソースが焦げる何ともいえない香りが漂っていたものだ。

正門横の「かむろ」には時々食べに行った。ここは綺麗さがウリであったが、高いというのが気に食わず、私は「松浦商店」を贔屓にしていた。廃業して久しい松浦の店舗がこの春取り壊されたと友人から聞いた。20年という月日は街の様子を大きく変貌させている。「破壊と建設」が最も進んだのはやはりバブル期であった。

ピンフ書房、かむろの後ではマンションの建設がすすむ

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母校再訪(その5)

2007年01月31日 | 学生時代

スペイン広場の横には西2食堂・コープショップがある。平日、学生はこの階段に座ってのんびり昼食をとっているらしい。昔は草ぼうぼうの荒地だった。

しあんばしを渡ると東図書館の前に出る

中核派のアピール

しあんばしを渡り、ケバケバしい看板の前に立った。千田キャンパスでイヤになるくらい目についた特徴のある文字。しかし、改悪と決めつけるのはいかがなものかと思った。

学び舎の階段を下った先にはプレハブの書籍部があった

大学会館前

かつての学び舎を後にして大学会館前バス停に着いた。時刻表を注視していると、西条駅行きのバスが轟音を立てて入ってきたので、飛び乗った。

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母校再訪(その4)

2007年01月30日 | 学生時代

目的を果たした私は、いつものコースを辿らずに学士会館の方向へ進んだ。この建物と隣接したホールをはじめて眺めた。左手にはぶどう池と工学部の懐かしい風景が広がっていた。

工学部とぶどう池を望む

学びの道

ここから総合科学部を目指して学びの道を歩いた。総合科学部は所謂教養部に相当する。理系学部の学生はここに一年半籍を置き、単位が揃うと専門へ進むことを許された。きわどい線で助かり、胸をなでおろしたほろ苦い過去がよみがえってきた。

現在の総合科学部

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母校再訪(その3)

2007年01月29日 | 学生時代

法・経済学部と図書館の間の広場で工事が行われていた。今年5月上旬オープン予定のカフェ(サタケスクエア)である。学生・教職員が集う「知的にぎわい」の創出を目的としているみたいだ。

中央図書館

図書館に入り、特別展示室に足を向けた。福沢諭吉の『学問のすすめ』の原本を見た。明治5年の再版は文庫本サイズでペラペラ紙に小さな字が印刷してあった。芥川龍之介の草稿もはじめて見た。いろいろ説明してくれた文学部の先生と立ち話をした。

税金が投入されている大学の図書館を一般市民に開放するのは当然であり、義務でもあると彼は語った。助成金を貰っている私学が市民を受け入れないのは時代錯誤も甚だしいとも言った。そして「ゆとり教育」の結果、学力のない生徒であふれていると嘆いた。私は悲しい現実として受け止めた。

図書館2階

パソコンで原爆と近代教育史の文献を検索し、2階に上がった。ここは宝の山だ。本好きにはたまらない。落ち着いた雰囲気の中でゆっくり頁をめくる。私は若い頃、神田神保町に通っていた。古書を立ち読みしてから、三省堂で面白そうな本を買い、【ランチョン】に行くのが常だった。黒ビールを飲みながら読書にふけった土曜の昼下がり。あの時と同様の感動をおぼえた。

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