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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

母校再訪(その2)

2007年01月28日 | 学生時代
メイン道路の右側にラーメン屋、フタバ図書が見えた。鏡山公園の上り坂にはG田が住んでいたアパートが当時そのままの姿で残っていた。バスは長い下りに入って交番がある交差点を突き進んだ。中央口で下車、料金は280円だった。

1番ゲート

お昼時の北1カフェテリア食堂

1番ゲートから構内に入り中央通りを歩いて北1カフェテリア食堂に向かった。お昼には少し早かったので学生はまばらであった。私は並ライスに味噌汁とおかずを3つトレーにのせて、おばちゃんにお金を払った。

北1カフェテリアの昼食、野菜と魚は外せませんな

並ライス 100円
味噌汁 30円
小松菜和え物 80円
ナス味噌炒め 90円
サバ煮付け 160円

ナスとサバは甘辛い味付けで飯がすすむ。腹を満たした私は隣の中央図書館に移動した。

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母校再訪(その1)

2007年01月27日 | 学生時代
今回は車を使わずにJRとバスを利用して大学まで行くことにした。西高屋辺りはかつては恐ろしいほどの田舎であったが、かなり開けている。

小奇麗になったJR西条駅の周辺

西条駅前の様変わり

西条駅の改札を抜けて私はびっくりした。18年前はただの汚らしいバス乗り場だったのに、どでかい東横インと居酒屋の和民が出来ている。

浦島太郎のように開いた口がふさがらなかった(笑)。3番乗り場から大学行きのバスに乗った。学生の頃は1時間に1本あるかないかだったが、今では20分置きにバスが来る。多くの大学関係者を乗せたバスは直線道路をガンガン進んでいく。

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松茸の生える山

2006年11月07日 | 学生時代
私が東広島市で生活し始めたのは二十歳の時である。当時は田圃や畑だらけで娯楽施設は一切なかった。交差点に信号機がついただけで驚いたものだ。だだっ広いキャンパスはサンダル履きの野郎で溢れ、むさ苦しさがプンプンが漂っていた。夕方からスポーツで汗を流し、夜はマージャンに熱を上げていた。くそ暇な休みの午後はよく釣りをしていたと思う。

ある秋晴れの日曜日、Hと鯰を引っ掛けに寮食堂の近くの池へ行った。その日はボウズであった。帰り支度をしているとHが大声で「お~い、これ松茸じゃないか?」と言う。確かに格好はそれらしい。

「まさか」
「そう言わんとこの匂いをかいでみい」
「どれどれ。ん~、これは間違いない。お前よう見つけたな。はっはっはっ」
「Mの家で料理してもらおうよ」
「うん。それがええわ」

不意打ちをくらったMは一瞬迷惑そうな表情を浮かべたが、かさの開いた太いブツを見てニヤッとした。私達はその晩松茸ご飯をたらふく食った。学食では秋のシーズンにこのメニューを何度か出していたらしい。しかし、私はただの一度もありつけなかったのである。
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時の流れ

2005年11月08日 | 学生時代

東門の左手にあった前進社がきれいに無くなっていた。
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若かりし頃(その10)

2005年06月04日 | 学生時代
〝ろくでなし〟は兵庫のN田高校出というのが信じられないほどの天然ボケであった。彼はマンドリン部に入っていた。その腕前をほめた者を私は知らぬ。

博多っ子の〝ひでえ〟は、〝元締め〟に冷たくあしらわれると『ひっでえ~』と口癖のように言っていた。痩せの大食いとしても知られていた。

広島時代の写真は皆無に近い、あれほど付き合いがあったにもかかわらず、私達は写真を撮らなかった。卒業間際に元締めの部屋で撮った四人一緒の写真が二枚現存するのみである。
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若かりし頃(その9)

2005年06月04日 | 学生時代
英語の時間に私の近くに座っていた〝元締め〟と話をするようになった。そして〝ろくでなし〟と〝ひでえ〟が加わり、四人組のようなものができた。

リーダーは決断力のある大阪出身の元締めであった。彼は何度か自分の下宿で食事会を開き、貧しい私達を招いてくれた。

ただし、雨の日は必ず中止になった。私はその理由がよく分からなかった。後年、彼の口から『わざわざ雨の中、来てもらうのは申し訳ないというのもあった』と事実が語られた。
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若かりし頃(その8)

2005年06月02日 | 学生時代
裏モノ映像コレクターとして有名だった〝裏美〟に対し、〝くわ太〟はCDの所有数でおそらく学部一という噂であった。彼は中核派のアジト(前進社)から近くのひどく狭い部屋で暮らしていた。

彼はいろんなジャンルを収集しており、ロックとジャズにしか興味を示さない私など敵ではなかった。遊びに立ち寄った際は初期のビートルズのCDなどを貸してもらった。

つい先日、彼からゆうパックが届いた。開封すると名前も知らぬオッサンのCDが入っていた。


ペーソスの「霧雨の北沢緑道」を聴いていると自分のことのようにも思え、彼の意図が理解できた。
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若かりし頃(その7)

2005年06月01日 | 学生時代
私達の学部は関西出身の連中が多かった。広島で関西弁をガンガン聞かされるとは思いもしなかったが、そのうちに慣れた。ボケとつっこみの学習を受けたのもこの時期だ。

〝裏美〟という和歌山出身のとぼけた感じの男は赤いTシャツをよく着ており、教室で異様に目立っていた。彼とはその後、麻雀つながりで仲良くなった。
 
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若かりし頃(その6)

2005年05月31日 | 学生時代
一年生の前期の必修科目は下記の通り。(語学、体育実技及び理論、概論を除く)

一般微積分学、基礎物理学、一般化学。どの講義も退屈であったが、落とすわけにはいかないので、出席はしていた。興味を持てたのは選択必修で受講した細胞生物学のみである。

予備校に通っていた連中はセンスのない教官をけなしていた。大学の先生にそれを求めること自体間違いだと私は思っていた。だらしない高校の教師にくらべればはるかにましであった。
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若かりし頃(その5)

2005年05月30日 | 学生時代
入学式の翌日から2日間、新入生のオリエンテーションが行われた。初日は10時から学部長の挨拶で始まったらしいが、全くその記憶はない。みすぼらしい教室で単位の取り方について一年上の先輩からいろいろ教えてもらったのは覚えている。

次の月曜から講義が始まった。楽勝科目というのを取ることにしたが、内容はチンプンカンプンで100分間席に座っているのは苦痛であった。聴講受付期間は4月13日から25日までだった。必須科目以外は気楽に聴いていた。
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若かりし頃(その4)

2005年05月29日 | 学生時代
もう一人の住人〝ヤンキー〟は我が道を行く男であった。格好からして、遊び人風である。『サングラスをかけて大津駅でうんこ座りしていたら、そばに誰も近寄って来なかったわ』と嬉しげに語っていた。おそらくその道の人と思われたに違いない(笑)。

ヤンキーは柔道黒帯のようにパチンコにのめりこんでいながったが、マージャンが好きであった。黒帯は言わずもがなだ。私はこの二人からマージャンの手ほどきをうけ、卓を囲むようになった。

工学部のEというひげもじゃを連れてきて、黒帯の部屋で何度かジャラジャラやった。その音と下品な会話が隣の大家に知れて、こっぴどく叱られた。『今度やったら、下宿を出てもらいますからね』

この時ばかりはさすがのヤンキーも首を縦に振るしかなった。それでも私達はトランプマージャンをその後数回やった。しかし、あの音が出ないと盛り上がらない。私達は雀荘へ入りびたるようになった。
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若かりし頃(その3)

2005年05月28日 | 学生時代
同じ下宿の住人〝柔道黒帯〟は面白い奴だった。『予備校の帰りにパチンコ屋へ入ったものだ』と真顔で私に語るのである。彼は香川県の名門T松高校出身であった。

『T高のいいところは、出来の悪い生徒にも赤点をつけんことや。俺の成績はケツから数えた方が早かった』と教えてくれた。成績順が分かるということ自体、私には驚きであった。

彼とは夜遅くまでいろんな話をした。語るのも好きだが、他人の話を聞くのも上手であった。『勉強なんか、すんな。お前は馬鹿か』という名言を残した人物でもあった(笑)。
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若かりし頃(その2)

2005年05月27日 | 学生時代
下宿での酒盛りで打ち解けた私達は入学式を迎えた。古い資料をめくるとこう書いてある。

「昭和62(1987)年4月8日(水) 広島県立体育館 午前9時15分集合、開式午前10時」

私は真新しい背広を着た。ネクタイのしめ方もマスターできていなかったので、大家さんにやってもらった。 三人はタクシーをひろい、体育館に向かった。入口付近には覆面をしてヘルメットをかぶったおっさん等(中核)が、訳の分からない演説を派手にやっていた。

晴れがましい日にこのような時代遅れの連中がいること自体不愉快で堪らなかった。私達は所定の席に着くため別れた。私の学部は偏差値の低さゆえか最後尾に位置しており、苦笑を禁じ得なかった。
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若かりし頃

2005年05月26日 | 学生時代
悪名高き高校を卒業後、一年半の間、広島市内で生活した。下宿には私を含めて三人いた。私達は理系学部かつ貧乏人ということで、すぐに仲良くなった。現役合格は私だけで、二人はなにかにつけてガキ扱いした。

その下宿で『酒盛りをしよう』と言い出したのは工学部の〝ヤンキー(見た目)〟であった。ビールまではよかったが、彼の買った安いウォッカは大不評であった。酔いが回って『歓楽街へ出かけよう』と今度は総合科学部の〝柔道黒帯〟が提案した。

平和大通りを横断し、初めてネオン街を歩いた時の興奮は忘れられない。客引きに冷やかされて私はおどおどするばかりであった。この様子を見て、浪人組は大笑いしていた。結局、金のない若者は酔いざましに散歩しただけなのだ。写真は現在の薬研堀界隈。

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入学の頃

2005年04月13日 | 学生時代
大学から速達で合格通知が届いたのは昭和62年3月18日だった。入学金と前期授業料(計30万円)を納めたのが3月23日。広島での下宿探しはそのすぐ後だったと思う。正門前でタクシーから降りて赤レンガ造りの大きな建物が目に入った。『ここの学生になったのだ』という満足感で私は少し興奮していた。


学生会館へ行き、いろいろ調べてから、伯父のすすめで大学から少しばかり離れた町の下宿に決めた。四畳半で小さな押入れがついており、流しと便所は共用だった。家賃1万1千円は安いと思った。日当たりが悪く、カビ臭いのが唯一の欠点だった。銭湯は一日おきに通った。
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