広大な千田キャンパスに木造の汚い学生食堂があった。一般教養の講義が行われる総科の建物から最も近いので昼飯は大抵そこで済ませた。
安いだけが取り柄で味は最低の学食の前にはいつも長蛇の列ができていた。ギュウギュウ詰めで床が抜けそうな食堂でゆっくりはできない。腹の空いた男子学生は囚人の如く物凄い速さで定食を平らげるので回転率はすこぶる良かった。
体調が芳しい時にのみ注文したメニューを懐かしく思い出した。高塩分の黄色いカレーライス。スプーンでいくら探しても肉は出てこない。諦めの境地に辿り着き、最後はあまりの不味さにこめかみを押さえるのが常だった(笑)
卒業以来、私は様々な店で酷いカレーを食べたが、あの味を超えることは一度もなかったのである。
安いだけが取り柄で味は最低の学食の前にはいつも長蛇の列ができていた。ギュウギュウ詰めで床が抜けそうな食堂でゆっくりはできない。腹の空いた男子学生は囚人の如く物凄い速さで定食を平らげるので回転率はすこぶる良かった。
体調が芳しい時にのみ注文したメニューを懐かしく思い出した。高塩分の黄色いカレーライス。スプーンでいくら探しても肉は出てこない。諦めの境地に辿り着き、最後はあまりの不味さにこめかみを押さえるのが常だった(笑)
卒業以来、私は様々な店で酷いカレーを食べたが、あの味を超えることは一度もなかったのである。

昭和末期の西条駅前には小規模の寂れた商店街があった。しかし、広島市内からやって来た若者の欲求を満たすような店があろうはずもなかった。マニアックな書籍やCDは必ず取り寄せになった。自転車をこいで遥か遠くの駅まで出るのも馬鹿馬鹿しい。だから時間はかかっても大学生協を利用して物を買い出した。
あれから20年の月日が流れ、駅前商店街は驚くほど様変わりした。個人経営の店の多くが姿を消し「今流行りの居酒屋」が軒を並べて小奇麗にはなっている。食料品関係で残っている昔からの店は「八百屋」と「ショージ」くらいではないだろうか。

西条駅から鏡山公園方面に延びた直線道路は「ブールバール」と呼ばれ、両脇には高層の建物がたくさん出来ている。大学移転が完了して東広島市西条は確かに発展したが、自然豊かな時代に学生生活を送った者としては、俗悪な面が気になり複雑な心境だ。文化的な街に成長するには本当に長い時間がかかる。


初めて西条キャンパスの下見に行ったのは昭和63(1988)年3月のことだ。友達と駅から大学まで歩くつもりだったが、あまりの遠さに途中で断念してバスに乗った。現在のバス路線とは異なり、回り道をして大学に向かうので距離は5km程度あったと思われる。
大学の周りには飲食店やコンビニや本屋がないのを車窓から見て一同は暗い顔つきになった。広島に戻る前にフジ東広島店に入って遅い昼食を取った。そしてレコードショップ(音響堂?)で中森明菜の新譜「Stock」を土産として買ったことを覚えている。
フジはその後名前をフジグランと改めたが、収益が上がらないために平成19(2007)年9月末をもって閉鎖された。建物は既に取り壊されて更地になっている。土地を購入した広島市中区のアーバンコーポーレーションがマンションを建設するらしい。跡地の対面が中央公園で昔の面影が微かに残っている。

大学の周りには飲食店やコンビニや本屋がないのを車窓から見て一同は暗い顔つきになった。広島に戻る前にフジ東広島店に入って遅い昼食を取った。そしてレコードショップ(音響堂?)で中森明菜の新譜「Stock」を土産として買ったことを覚えている。
フジはその後名前をフジグランと改めたが、収益が上がらないために平成19(2007)年9月末をもって閉鎖された。建物は既に取り壊されて更地になっている。土地を購入した広島市中区のアーバンコーポーレーションがマンションを建設するらしい。跡地の対面が中央公園で昔の面影が微かに残っている。


20年前(昭和63年)の今頃は、大学生として2回目の夏休みを過ごしていた。地元に早々に帰省して家庭教師のバイトをしながら、免許取得のために自動車学校に通っていた。
休み明けの試験で単位が揃った者は専門課程に進むことが決まっており、何となく憂鬱であった。1年半暮らした思い出深い広島の街を去り、未開の東広島市に移住しなけばならないのが堪らなく嫌だったのである。
私は10月上旬に東広島市民となった。西条駅前のバス・タクシー乗り場の汚さは呆れるほどで「酷い田舎に来たもんだな」と思った。当時大きなスーパーといえば近くの「フジ」か「西条プラザ」を指した。
大学に向かうバスは1時間に1本あるかないかで、車を持たない人間にとっては頭痛の種だった。「島流し」に慣れるまで軽く半年を要したが、次第に「待つ」ことや「我慢する」ことの意味を覚えていった。


私の下宿から舟入方面へ行くには橋を二つ渡る必要があった。鷹野橋商店街を抜け、まず明治橋を、そして本川に架かる住吉橋を通過した。

住吉橋西詰めから“元締め”のアパートまでは歩いて数分の距離だった。彼は数ヶ月に一度、貧困に喘ぐ同級生を招いて、温かい食事をふるまってくれた。
誘いを受けると飢えた野犬のような三人(ろくでなし・ひでえ・私)は嬉しげに出掛けたものである。ソーセージ入りの鍋や納豆汁を食べて満腹になった後に必ずすることがあった。
“元締め”はカーテンを少し引っ張って、道路を挟んで斜め向うの雀荘の様子を窺い、私達に「またやっとるわ」と呟いた。某ビルの2階は裏稼業専用の雀荘だった。そこにたむろしているのは人相の悪い日陰者ばかりで、皆真剣に牌を眺めていた。それが賭け麻雀であることは明らかだった。
“元締め”は眉間に皺を寄せて「嫌やな~」と言い、“ろくでなし”と“ひでえ”はニヤニヤ笑った。四人の中で麻雀をするのは最年少の私だけであり、彼の部屋では肩身の狭い思いをしていた(笑)

住吉橋西詰めから“元締め”のアパートまでは歩いて数分の距離だった。彼は数ヶ月に一度、貧困に喘ぐ同級生を招いて、温かい食事をふるまってくれた。
誘いを受けると飢えた野犬のような三人(ろくでなし・ひでえ・私)は嬉しげに出掛けたものである。ソーセージ入りの鍋や納豆汁を食べて満腹になった後に必ずすることがあった。
“元締め”はカーテンを少し引っ張って、道路を挟んで斜め向うの雀荘の様子を窺い、私達に「またやっとるわ」と呟いた。某ビルの2階は裏稼業専用の雀荘だった。そこにたむろしているのは人相の悪い日陰者ばかりで、皆真剣に牌を眺めていた。それが賭け麻雀であることは明らかだった。
“元締め”は眉間に皺を寄せて「嫌やな~」と言い、“ろくでなし”と“ひでえ”はニヤニヤ笑った。四人の中で麻雀をするのは最年少の私だけであり、彼の部屋では肩身の狭い思いをしていた(笑)

正門から大学の表示が消え、今は「東千田公園」という黒い石が埋め込まれている。かつての理学部の周りを馬鹿犬を連れた者達が我が物顔で歩いていた。

私が学んだ校舎は全て取り壊されており、総合科学部のあった場所に高層マンションが造られている。
森戸道路のメタセコイアは葉を茶に染めて寒そうにしていた。


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私が学んだ校舎は全て取り壊されており、総合科学部のあった場所に高層マンションが造られている。
森戸道路のメタセコイアは葉を茶に染めて寒そうにしていた。


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広島中央郵便局の東側にYの下宿はあった。学生食堂で晩飯を済ませた後、同級生がここに集結していた。
細いハシゴ階段を上がり、ホームベースくらいの隙間をイタチのように抜けなければならないのが鬱陶しかった。私達は彼の部屋を忍者屋敷と呼んだ。
大阪出身のYは博学で口が上手かった。落合信彦のノンフィクションをよく読んでいた。牛の絵柄のクッションにもたれてビル・エバンスのCDを聴く姿がはっきりと記憶に残っている。
仲間で500円を出し合って、リザーブとコークとスナック菓子を買って酒盛りをした。暇を持て余す若者は明け方まで議論することもあった。下宿に戻って2時間寝て千田町の大学に出かけて行った。疲れを知らない18歳だった。
その内Yは郵便局で深夜のバイト(16勤)を始めたが、友人は容赦なく押し掛けて来た。眠け眼をこすっては「自分の時間が欲しい」とぼやいていた。彼の部屋の真ん前は大きなテニスコートだった。北東の方角に国泰寺高校(旧制広島第一中学)が見えた。
大家であるヨボヨボの婆さんが死んで、息子はバブル期に土地を売った。下宿は取り壊されて税理士事務所になった。テニスコートのあった場所は駐車場に様変わりしている。

私が旅好きになったのは福岡出身の学友の影響が大きい。大学4年の夏季休業が終わってから私達は道後温泉に向かうことにした。教授にこの旨を告げると露骨に不快の念を示した。そして「何で夏休みに行かないんだ」と非難した。
私は極力短い言葉で答えた。「今行くことに意味があるんですよ」と。しかめっ面の教授は首を横に振っていた。電鉄で終点の宇品まで行って三等切符を買った。三津港行きのフェリーで3時間程度の旅だった。
古びた駅から電車に乗り松山に移動した。子規堂、夏目金之助が赴任した旧制中学跡、松山城、長い商店街、子規記念博物館などを見てまわり、宿では地の魚料理を堪能した。文化レベルの高い街だと私は思った。

椿の湯と本館の両方に入り、温泉文化に触れた。歴史ある本館の畳み部屋でお茶を飲みながら温泉街を見渡しくつろいだ。友人は夜遅くまで大学院入試の勉強を真面目にしていたが、私はビールを飲んで大いびきをかいて寝ていた。
貧乏学生が企画した二泊三日の旅は今でも鮮明な思い出である。写真撮影、地方の食文化に興味を持ち始めたのはこの時だったような気がする。社会人になってからも一緒に旅をして草津、別府を回った。残るは城崎だ(笑)

牛肉自由化前は奨学生が容易に手を出せるものではなかった。自炊で使っていたのは主に鶏と豚三枚肉だった。たまに奮発してオーストラリア産のヒレ肉(牛肉の中では最安だった)を買ってみるのだが、味の薄い、カスみたいな食材だった。
学生食堂においてでさえ、牛肉を見つけることは少なかった。カレーにも焼肉定食にも低質なマトン肉が入っていた。しわい(=筋っぽくて噛み切りにくい)という表現が適当だろう。あの当時は肉が入っているだけ(所謂味ではなく量w)で学生は満足していたのだ。
コンパで焼肉屋を利用することはしばしばあった。立町の「味蔵」(既に店はない)のコースは安くて助かっていたが、病死肉を使っているのでは、という疑惑があった。吉島の友人の下宿で焼肉をするのが、大きな楽しみだった。
私達はユニードで大量の味付けマトンを買い込んでいた。野菜はほとんどとらずにひたすら肉を焼き、餓鬼のように喰らいついた。肉の臭みを消すため過剰な味付けは致し方なかったと思う。
カセットコンロにテフロンのフライパンを置いて、味付け肉を焼いた。どんぶり飯を何度もおかわりして、畳の上に大の字で寝るのだった。友人宅は安肉のかおりが充満して気持ち悪くなるほどだった(笑)
今の常識で考えれば、最低の焼肉であるが、当時は身分相応な贅沢であったのだ。
学生食堂においてでさえ、牛肉を見つけることは少なかった。カレーにも焼肉定食にも低質なマトン肉が入っていた。しわい(=筋っぽくて噛み切りにくい)という表現が適当だろう。あの当時は肉が入っているだけ(所謂味ではなく量w)で学生は満足していたのだ。
コンパで焼肉屋を利用することはしばしばあった。立町の「味蔵」(既に店はない)のコースは安くて助かっていたが、病死肉を使っているのでは、という疑惑があった。吉島の友人の下宿で焼肉をするのが、大きな楽しみだった。
私達はユニードで大量の味付けマトンを買い込んでいた。野菜はほとんどとらずにひたすら肉を焼き、餓鬼のように喰らいついた。肉の臭みを消すため過剰な味付けは致し方なかったと思う。
カセットコンロにテフロンのフライパンを置いて、味付け肉を焼いた。どんぶり飯を何度もおかわりして、畳の上に大の字で寝るのだった。友人宅は安肉のかおりが充満して気持ち悪くなるほどだった(笑)
今の常識で考えれば、最低の焼肉であるが、当時は身分相応な贅沢であったのだ。

東千田キャンパスの理学部1号館が昔の文理科大学本館にあたる。中区にある被爆建物としては最も大きい。つい最近、取り壊さずに保存することが決まった。ガラスは割れ、煉瓦がはがれ落ちて見るも無残な状態だが、綺麗に補修されるようである。
私が学んだ総合科学部の建物は全て無くなっており、今は高層マンションの建設が旧ピッチで行なわれている。クーラーの無い大講義室でつまらない話を聴くのは地獄だったのを思い出す。
燃える教室を抜け出して喫茶部でアイスコーヒーを飲んだり、T商店街のパチンコ屋で涼んだものだ。そのパチンコ屋にはパンチパーマをあてた極道がいた。人相の悪いオヤジから「兄ちゃん、こんな所で遊んどってええんか。親が泣くど。しゃんとせえ」と言われるのはまさに悲喜劇だった。


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私が学んだ総合科学部の建物は全て無くなっており、今は高層マンションの建設が旧ピッチで行なわれている。クーラーの無い大講義室でつまらない話を聴くのは地獄だったのを思い出す。
燃える教室を抜け出して喫茶部でアイスコーヒーを飲んだり、T商店街のパチンコ屋で涼んだものだ。そのパチンコ屋にはパンチパーマをあてた極道がいた。人相の悪いオヤジから「兄ちゃん、こんな所で遊んどってええんか。親が泣くど。しゃんとせえ」と言われるのはまさに悲喜劇だった。


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奨学金を貰っていた私の唯一の外食(学食は除く)がお好み焼きだった。昭和町だけでも三店舗はあった。これらは今でも営業を続けている。廃業せずに済んでいるのは持ち家だからだ。
ある店のおばちゃん(歳は70を越えているだろう)は「子どもが本当に少なくなったけ~ね。昔は休む暇もないほど忙しかったんだけど」と全盛期を振り返っていた。
肉玉そばいか天が510円。「いくらなんでも安すぎるでしょう」と言うと「えっと(=たくさん)儲けんでもええから」と話してくれた。当時の飲食店は「ぼる」という行為を決してしなかった。大学生を愛し、育てようという気概があった。
広島は極道の街というダーティーなイメージがあるが、温かみとバイタリティに溢れていたのもまた事実である。

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ある店のおばちゃん(歳は70を越えているだろう)は「子どもが本当に少なくなったけ~ね。昔は休む暇もないほど忙しかったんだけど」と全盛期を振り返っていた。
肉玉そばいか天が510円。「いくらなんでも安すぎるでしょう」と言うと「えっと(=たくさん)儲けんでもええから」と話してくれた。当時の飲食店は「ぼる」という行為を決してしなかった。大学生を愛し、育てようという気概があった。
広島は極道の街というダーティーなイメージがあるが、温かみとバイタリティに溢れていたのもまた事実である。

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東千田キャンパス周辺には古本屋がたくさんあった。学生会館に隣接していたのが【神鳥書店】で時々立ち読みして時間を潰していた。書店の奥が似非宗教サークルのアジトだった。
忌み嫌われた原理研究会は学内では「ホワイトスクエア」という変名で活動していた。掲示板で休講があるかどうかチェックしていると、こいつらがよく勧誘しに来た。暗そうな面と濁った目を見るだけで反吐が出そうだった。
猫娘に似た不細工な活動家(総合科学部在籍)は「お前、こんな活動しとったら結婚できんど!」とからかわれて悔しそうに「いいもん、集団見合い(結婚)があるから」とわめいていた。それを目撃した私達はただニヤニヤ笑っていた。
現在、千田町界隈で営業を続けている古本屋は【大学堂書店】くらいになってしまった。

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忌み嫌われた原理研究会は学内では「ホワイトスクエア」という変名で活動していた。掲示板で休講があるかどうかチェックしていると、こいつらがよく勧誘しに来た。暗そうな面と濁った目を見るだけで反吐が出そうだった。
猫娘に似た不細工な活動家(総合科学部在籍)は「お前、こんな活動しとったら結婚できんど!」とからかわれて悔しそうに「いいもん、集団見合い(結婚)があるから」とわめいていた。それを目撃した私達はただニヤニヤ笑っていた。
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大学の近くには銭湯が二軒あった。神●書店の斜め対面あたりが【大学湯(画像1階)】だった。カープ洋服店のすぐそばにも銭湯があった。私はここと宝湯に通っていた。洗髪料込みで260円だったと思う。入浴は一日置きだった。

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