今から十一年前の話、である。三学期が始まり、短い冬休みのボケも直りかけていた時期だった。当時中学校一年生だった私は、いつも通り明日の憂鬱な学校生活に嫌気を覚えながら就寝し、いつも通り鬱陶しい学校生活に毒づきながら目覚める日々を送っていた。しかし、その日は、いつもと違う目覚め方をした。
ふと目が覚めた。いつもは寒さと眠さで中々目覚めないにも関らず、その日は、ぱっちり目が覚めた。しかも、時計の針は、まだ午前六時を指していなかった。あの時、遠くの空で何か甲高くも鈍い音がこだましていたのを、今でもはっきり覚えている。そして、起床直後にも関らず、何故か神経が尖っていた。
覚醒からどれだけ時間が経ったかは、はっきり分からない。ただ、数分ではなかったはずである。目覚め、空の音を聞いた、数秒か数十秒の話であったと思う。突然、空の音が変わった。台風が接近した時と同じく、部屋の雨戸が激しく壁に叩きつけられる音が響いた。しかし、それは、台風の時より格段に大きく激しかった。
これもどれだけ時間が経ったのかは、はっきり覚えていない。ただ、早く終わって欲しいと心底思ったほど、長かった。時間が経つに連れ、他の音も聞こえてきた。何か大きいものが倒れる音、何かが立て続けに割れる音、よほど風が強い日でもないと聞けない電信柱の電線がしなる音、ありとあらゆるものが音を立て続けた。
為す術もなく、そもそも何が起きているのかすら分からず、ただ布団をつかみ、ベッドにしがみついていた。否、何が起きているのかは分かっていただろう。ただ、認めたくなかっただけだ。心理学では、この手の思考現象を、現状否認というそうだ。
さておき、掴んでも力なくたわむベッドと布団を掴み続けた。そうしないと、ベッドから弾き飛ばされそうだった。何もしていないのに体がベッドからどんどんずれていったのを、これも今でもはっきり覚えている。ベッドから飛ばされそうになる自分に恐怖を覚え、目に涙すら浮かんだ。
全てが終わった時、再びいつも通りの暁の静寂が戻った。ただ、あの甲高い空の音が、さらに甲高さを増して鳴り響き続けていた以外、は。その静寂も、すぐに破られた。隣の両親の部屋から、誰かが走る音が聞こえた。その音は、私の部屋の前で止まった。
ドアを激しく叩く音とドアノブを乱暴に回し続ける音と共に、親父の声が、聞こえてきた。あの時、親父に何か言い返したように思うが、何を言ったのかは覚えていない。ただ、ドアが全く開かず、親父がドアを蹴破って部屋に入ってきたのは、よく覚えている。
何かを沢山踏んだ記憶がある。部屋も家の中もまだどんよりしていて、よく見えなかった。否、これも、見ていなかったという方が正確だろうか。とにもかくにも、弟と妹を連れ出した母と合流し、玄関へ向かった。何故向かったのかは、覚えていない。誰かが言ったわけではなく、家族は、ただ玄関へ向かった。
再び激しい揺れが、始まった。それも、断続的、に。普段は、階段を降りるのに壁に手をついたりしない。しかし、その時ばかりは、壁を掴みながら階段を降りた。玄関を出て、家族は、真っ先に車に乗った。これも、誰かが言ったわけではなく、何故車に乗ったのかは未だに分からない。
車に乗り込み、エンジンをかけたが、車は出さなかった。エンジンをかけたと同時に、カーラジオが流れてきた。その時間にいつもやっている、朝の番組である。何か場違いなほどのどかなBGMが流れていたのを、覚えている。ラジオが流れ始めた数十秒後、件の番組の聞き覚えのある女性アナウンサーの声が聞こえてきた。
これまた場違いなほどゆったり喋る人だが、その時だけは、声色が完全に違った。震える声で、アナウンサーが喋り始める。断片的にではあるが、その内容も覚えている。「兵庫県の広い一帯に、淡路島北部を震源とするマグニチュード・・・震度六(後に、七に修正。)の地震が発生しました。」。
「震度六」。その三文字を聞いた時、これも何故か分からぬが、「クソ!」と呟いたのを覚えている。時は、1995年1月17日。この日の午前五時四十六分五十二秒、淡路島を震源とする震度七の都市直下型地震が、兵庫県南部一帯と淡路島を襲った。兵庫県南部地震、である。
なお、本ブログでは、以降、一般的な「阪神・淡路大震災」という名称を使用しない。気象庁による正式名称であり、明石市の広報資料で使われている用語法でもある、「兵庫県南部地震」を使う。その理由については、機会を改めて説明しよう。分かる人は分かるはず、である。
さて、時折、人は自分の原点に立ち返る。私も、時折、自分の原点に戻る。将来を再び見据えている今、再び自分の原点を回想し、想いを馳せている。原点は人それぞれであろうが、私の原点は、兵庫県南部地震をおいて他にない。これが、全ての始まり、だった。
あの時、中学校一年生ながらにして、色々考えた。その時考えたことが、自分をここに導いている。具体的な内容は機会を改めるが、原点はいつまでも大事にしていくことに、変わりはない。あの原点を忘れれば、自分は自分でなくなる。それ故、たとえ自分の生涯に幕を下ろす瞬間にあっても、自分の原点は「あの地震」であると言い張るだろう。
ここ数週間、ひたすら原点に立ち返り続ける自室、にて。
ふと目が覚めた。いつもは寒さと眠さで中々目覚めないにも関らず、その日は、ぱっちり目が覚めた。しかも、時計の針は、まだ午前六時を指していなかった。あの時、遠くの空で何か甲高くも鈍い音がこだましていたのを、今でもはっきり覚えている。そして、起床直後にも関らず、何故か神経が尖っていた。
覚醒からどれだけ時間が経ったかは、はっきり分からない。ただ、数分ではなかったはずである。目覚め、空の音を聞いた、数秒か数十秒の話であったと思う。突然、空の音が変わった。台風が接近した時と同じく、部屋の雨戸が激しく壁に叩きつけられる音が響いた。しかし、それは、台風の時より格段に大きく激しかった。
これもどれだけ時間が経ったのかは、はっきり覚えていない。ただ、早く終わって欲しいと心底思ったほど、長かった。時間が経つに連れ、他の音も聞こえてきた。何か大きいものが倒れる音、何かが立て続けに割れる音、よほど風が強い日でもないと聞けない電信柱の電線がしなる音、ありとあらゆるものが音を立て続けた。
為す術もなく、そもそも何が起きているのかすら分からず、ただ布団をつかみ、ベッドにしがみついていた。否、何が起きているのかは分かっていただろう。ただ、認めたくなかっただけだ。心理学では、この手の思考現象を、現状否認というそうだ。
さておき、掴んでも力なくたわむベッドと布団を掴み続けた。そうしないと、ベッドから弾き飛ばされそうだった。何もしていないのに体がベッドからどんどんずれていったのを、これも今でもはっきり覚えている。ベッドから飛ばされそうになる自分に恐怖を覚え、目に涙すら浮かんだ。
全てが終わった時、再びいつも通りの暁の静寂が戻った。ただ、あの甲高い空の音が、さらに甲高さを増して鳴り響き続けていた以外、は。その静寂も、すぐに破られた。隣の両親の部屋から、誰かが走る音が聞こえた。その音は、私の部屋の前で止まった。
ドアを激しく叩く音とドアノブを乱暴に回し続ける音と共に、親父の声が、聞こえてきた。あの時、親父に何か言い返したように思うが、何を言ったのかは覚えていない。ただ、ドアが全く開かず、親父がドアを蹴破って部屋に入ってきたのは、よく覚えている。
何かを沢山踏んだ記憶がある。部屋も家の中もまだどんよりしていて、よく見えなかった。否、これも、見ていなかったという方が正確だろうか。とにもかくにも、弟と妹を連れ出した母と合流し、玄関へ向かった。何故向かったのかは、覚えていない。誰かが言ったわけではなく、家族は、ただ玄関へ向かった。
再び激しい揺れが、始まった。それも、断続的、に。普段は、階段を降りるのに壁に手をついたりしない。しかし、その時ばかりは、壁を掴みながら階段を降りた。玄関を出て、家族は、真っ先に車に乗った。これも、誰かが言ったわけではなく、何故車に乗ったのかは未だに分からない。
車に乗り込み、エンジンをかけたが、車は出さなかった。エンジンをかけたと同時に、カーラジオが流れてきた。その時間にいつもやっている、朝の番組である。何か場違いなほどのどかなBGMが流れていたのを、覚えている。ラジオが流れ始めた数十秒後、件の番組の聞き覚えのある女性アナウンサーの声が聞こえてきた。
これまた場違いなほどゆったり喋る人だが、その時だけは、声色が完全に違った。震える声で、アナウンサーが喋り始める。断片的にではあるが、その内容も覚えている。「兵庫県の広い一帯に、淡路島北部を震源とするマグニチュード・・・震度六(後に、七に修正。)の地震が発生しました。」。
「震度六」。その三文字を聞いた時、これも何故か分からぬが、「クソ!」と呟いたのを覚えている。時は、1995年1月17日。この日の午前五時四十六分五十二秒、淡路島を震源とする震度七の都市直下型地震が、兵庫県南部一帯と淡路島を襲った。兵庫県南部地震、である。
なお、本ブログでは、以降、一般的な「阪神・淡路大震災」という名称を使用しない。気象庁による正式名称であり、明石市の広報資料で使われている用語法でもある、「兵庫県南部地震」を使う。その理由については、機会を改めて説明しよう。分かる人は分かるはず、である。
さて、時折、人は自分の原点に立ち返る。私も、時折、自分の原点に戻る。将来を再び見据えている今、再び自分の原点を回想し、想いを馳せている。原点は人それぞれであろうが、私の原点は、兵庫県南部地震をおいて他にない。これが、全ての始まり、だった。
あの時、中学校一年生ながらにして、色々考えた。その時考えたことが、自分をここに導いている。具体的な内容は機会を改めるが、原点はいつまでも大事にしていくことに、変わりはない。あの原点を忘れれば、自分は自分でなくなる。それ故、たとえ自分の生涯に幕を下ろす瞬間にあっても、自分の原点は「あの地震」であると言い張るだろう。
ここ数週間、ひたすら原点に立ち返り続ける自室、にて。