今日は、前回周知の通り、小旅行の番外編である。昨日までの四日間を通して、小学校時代と今往来しているルートについて、紹介してきた。今回は、非常に些細な話なのだが、ルート上のとある一つの場所を本編から切り取り、紹介しようと思う。
といっても、今回紹介する場所は、決して有名な場所ではない。観光スポットでなかれば、史跡でもない。三日前に紹介した朝霧歩道橋のように世間の耳目を集めた事件や、現在の有名人に関係のある場所でもない。さらに言えば、私個人としても深い思い出がある場所でも、ない。
それは、二日前に紹介した朝霧から舞子に至る海岸線の途中にある。国道二号と海沿い護岸壁に挟まれた歩道を舞子方面へ進むと、舞子駅から徒歩十分ほど手前に、小さな川に遭遇する。市街から流れるその川は、そこで海にぶつかり、砂浜を分断し、明石海峡に向けて河口を向けている。
件の川には、列記とした名が付されている。しかし、地元の人間ですらそれを知る人は少なく、事実上無名である。当然ながら、一級河川ではない。また、街を通る川故、お世辞にも綺麗とは言い難い。私が小学校の時に比べると随分綺麗にはなったが、添付写真の通り、海の青と皮の茶色が対照的である。そんな無名の川は、誰の目にも留まらず、今日も街の水を海へ運んでいる。
しかしながら、件の川が運ぶ水は、明石海峡には流れない。河口は砂洲で塞がれてしまっており、川の水は、全てそこで堰き止められる。また、件の川自体、流れがほとんど無く、砂州を乗り越えるだけの水流もない。それ故、川であるにも関らず、川の水面は、波一つ立たない。水が溜まるだけの水量はあるが、雨などで川が増水しない限り、川の水は海へ出ない。
今回語るのは、その砂洲、である。あまりにも些細且個人的に過ぎる理由ではあるが、この砂州を語る理由は、昔この川の水が海へ流れていたからである。過去四日間の記事やそれ以前の記事で、小学校時代、朝霧と舞子を頻繁に往来していた話をした。当然ながら、この砂洲も幾度と無く通った。当時、この川の水は、確かに海へ流れ出ていたのである。
それも、河口を流れる水に白い泡が立つほど、常時流れていた。無論、当時も砂州はあった。しかし、まだあまりにも脆弱だった。水面からの高さも低く、中央部は繋がっておらず、常に砂洲の中央から水が海へ流れていた。水面から出た部分も、干潮時ですら常に川の流れと海の波に洗われていて、上を通ると砂から水が沸いて出た。それ故、当時、中央部を飛び越えて対岸の砂浜に渡っていた。
満潮時に至っては、砂州は殆ど完全に水中に没し、最も砂の量が多い河口両岸の砂浜が少し河口よりに突き出ているぐらいになった。当時、うっかり満潮時にこの砂州を訪れると、もはや渡れなかった。それ故、一旦引き返して護岸壁の切れ目から歩道に出て、砂州を迂回せざるを得なかった。また、その日は諦めて、そこで元来た道を引き返した日も、少なくなかった。当時の砂州は、それほど脆いものだった。
これも何度か言及してきたように、小学校を卒業してから京都を離れるまでの十数年間、朝霧から舞子の海岸線を通っていない。十数年ぶりにこの道を通って、最も驚いた場所が、この砂州だった。当時と打って変って、砂州は、堅牢になっていた。中央部はしっかり繋がり、繋ぎ目すら分からなくなっている。砂洲の高さも幅も増し、さながら堤防のような風貌になっている。満潮時に訪れても、砂州は、川の水を少しも漏らさず堰き止めていた。
私がこの道を通らなかった十数年間の間に、砂州は、徐々に自らを築き上げていったのだろう。川と海が運ぶ土砂が長い時を経て退席し、上を通る人が踏み固め、今では満潮時でも人が往来出来るほどになっている。もはや、そこがかつて河口であった事実を知っている人すら、いないのではないだろうか。
月並みではあるが、久しぶりにこの砂州を見た時、十数年という時の重さに想いを馳せざるをえなかった。思わず、随分遠いところへ来てしまったものだ、と心の中で呟いた。時の流れを記した名も無き砂州は、今日も川の水を堰き止めながら、今も尚時を刻み続けている。
といっても、今回紹介する場所は、決して有名な場所ではない。観光スポットでなかれば、史跡でもない。三日前に紹介した朝霧歩道橋のように世間の耳目を集めた事件や、現在の有名人に関係のある場所でもない。さらに言えば、私個人としても深い思い出がある場所でも、ない。
それは、二日前に紹介した朝霧から舞子に至る海岸線の途中にある。国道二号と海沿い護岸壁に挟まれた歩道を舞子方面へ進むと、舞子駅から徒歩十分ほど手前に、小さな川に遭遇する。市街から流れるその川は、そこで海にぶつかり、砂浜を分断し、明石海峡に向けて河口を向けている。
件の川には、列記とした名が付されている。しかし、地元の人間ですらそれを知る人は少なく、事実上無名である。当然ながら、一級河川ではない。また、街を通る川故、お世辞にも綺麗とは言い難い。私が小学校の時に比べると随分綺麗にはなったが、添付写真の通り、海の青と皮の茶色が対照的である。そんな無名の川は、誰の目にも留まらず、今日も街の水を海へ運んでいる。
しかしながら、件の川が運ぶ水は、明石海峡には流れない。河口は砂洲で塞がれてしまっており、川の水は、全てそこで堰き止められる。また、件の川自体、流れがほとんど無く、砂州を乗り越えるだけの水流もない。それ故、川であるにも関らず、川の水面は、波一つ立たない。水が溜まるだけの水量はあるが、雨などで川が増水しない限り、川の水は海へ出ない。
今回語るのは、その砂洲、である。あまりにも些細且個人的に過ぎる理由ではあるが、この砂州を語る理由は、昔この川の水が海へ流れていたからである。過去四日間の記事やそれ以前の記事で、小学校時代、朝霧と舞子を頻繁に往来していた話をした。当然ながら、この砂洲も幾度と無く通った。当時、この川の水は、確かに海へ流れ出ていたのである。
それも、河口を流れる水に白い泡が立つほど、常時流れていた。無論、当時も砂州はあった。しかし、まだあまりにも脆弱だった。水面からの高さも低く、中央部は繋がっておらず、常に砂洲の中央から水が海へ流れていた。水面から出た部分も、干潮時ですら常に川の流れと海の波に洗われていて、上を通ると砂から水が沸いて出た。それ故、当時、中央部を飛び越えて対岸の砂浜に渡っていた。
満潮時に至っては、砂州は殆ど完全に水中に没し、最も砂の量が多い河口両岸の砂浜が少し河口よりに突き出ているぐらいになった。当時、うっかり満潮時にこの砂州を訪れると、もはや渡れなかった。それ故、一旦引き返して護岸壁の切れ目から歩道に出て、砂州を迂回せざるを得なかった。また、その日は諦めて、そこで元来た道を引き返した日も、少なくなかった。当時の砂州は、それほど脆いものだった。
これも何度か言及してきたように、小学校を卒業してから京都を離れるまでの十数年間、朝霧から舞子の海岸線を通っていない。十数年ぶりにこの道を通って、最も驚いた場所が、この砂州だった。当時と打って変って、砂州は、堅牢になっていた。中央部はしっかり繋がり、繋ぎ目すら分からなくなっている。砂洲の高さも幅も増し、さながら堤防のような風貌になっている。満潮時に訪れても、砂州は、川の水を少しも漏らさず堰き止めていた。
私がこの道を通らなかった十数年間の間に、砂州は、徐々に自らを築き上げていったのだろう。川と海が運ぶ土砂が長い時を経て退席し、上を通る人が踏み固め、今では満潮時でも人が往来出来るほどになっている。もはや、そこがかつて河口であった事実を知っている人すら、いないのではないだろうか。
月並みではあるが、久しぶりにこの砂州を見た時、十数年という時の重さに想いを馳せざるをえなかった。思わず、随分遠いところへ来てしまったものだ、と心の中で呟いた。時の流れを記した名も無き砂州は、今日も川の水を堰き止めながら、今も尚時を刻み続けている。