「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

根津 一   東亜同文書院に脈打つ根津魂1 東亜経営の志を胸に傲将メッケルに対峙したその大和魂

2012-04-07 10:39:24 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第二十八回(『祖国と青年』23年8月号) 

根津 一  東亜同文書院に脈打つ根津魂1

東亜経営の志を胸に傲将メッケルに対峙したその大和魂


 戦前、支那大陸の一角・上海の地に日本人によって設立され、将来の日支(日中)関係を担う日本人青年を輩出する為の教育機関があった。それが東亜同文書院である。

東亜同文書院には、全国四十七府県が、中等学校卒業以上の二名を選抜試験によって択んで県費で派遣していた(他に私費留学制度も在り。県によっては県費で四名派遣した所もある)。この東亜同文書院を運営したのが、明治三十一年(1898)に設立された東亜同文会(会長・近衛篤麿)である。東亜同文会は支那問題を研究すると共に日支の提携を計り、東亜の安定を齎す事を会の趣旨としていた。その為にも、日支提携を将来に亘って担って行く人材を生み出す教育機関が必要だった。明治三十四年(1901年)南京を経て上海に東亜同文書院が設立され、大東亜戦争の終戦まで四十五年間人材を生み続けて行った。

その初代院長であり、大正十二年に引退するまで二十二年に亘って学生を指導し、「根津魂」と言われた書院の気風を生み出した人物こそが根津一である。根津は創立に当って「興學要旨」と「立教綱領」を定めた。根津の志が伺われる文章である。

●「興學要旨」(冒頭のみ)※「清国」は革命後「中国」に書き改む
中外之實學を講じて、清日の英才を教え、一には以て清國富強の基を樹て、一には以て清日輯協(友好協力)の根を固む。期する所は、清國を保全、而て東亞久安の策を定め、宇内永和(世界永遠の平和)の計を立つるに在り

●「立教綱領」(冒頭のみ)
徳教を經と為し、聖賢經傳によりて之を施し、智育を緯と為し、特に清國學生に授くるには日本の言語文章、泰西の百科實用の學を以てし、日本學生には、清英の言語文章及び中外の制度律令、商工務の要を以てす。期する所は、各自に通達強立し、國家有用の士、当世必需の才と成るに在る

東亜同文書院は、入学生を東京に集めて入院式を行い、その後、根津院長自ら率いて上海に向った。根津は引退まで毎年その様にした。その際、根津は次の様に語ったという。

●同文書院は単に学問を教えるだけの学校ではない。学問をやりたい者は大学にゆくべきだ。大学は学問の蘊奥を究めるところであるから、そこで学ぶのが正しい。諸子の中で学問で世に立ちたい者があれば、よろしく高等学校から大学に進むべきで、本日この席において退学を許す。志を中国(支那)にもち、根津に従って一個の人間たらんと欲する者は、この根津とともに上海にゆこう

         支那探査大旅行

 東亜同文書院の教育で他に類を見ないものが「支那探査大旅行」である。明治三十五年、英国の要請を受けた外務省から根津院長に対し、支那西北地方(ウイグル)に於けるロシア勢力の浸透状況についての調査が要請され、根津は第二期卒業生の五人を現地調査に派遣した。彼らの報告書に対し外務省から謝礼金が支払われた為、そのお金を基金として、五期生以後、最終学年時に、卒業論文の為の支那調査旅行が制度化される事となった。学生たちは数名から五・六名のチームを組んで各地へ三ヶ月から半年までの旅行をし、その範囲は中国本土にとどまらず東南アジアにも及んだ。

『東亜同文書院学生 大陸大旅行秘話』には「混乱した軍閥抗争の中国大陸を学生たちは、書院で身につけた儒教的教養と日中親善の信念を支えに、日の丸の旗と、中国官憲から得た『護照』を頼りに、数名のグループごと、定められた旅行計画に従って、船舶、鉄道、民船そして徒歩で三ヶ月にも及ぶ大旅行を続けた。時に戦乱に巻き込まれて旅程を変更したり、土匪に掠奪されたり、なかには苛酷な環境に堪えられず、病気に罹り落後するものもあった。」と記されている。現代で言うフィールドワークを通じて学生達は支那及び東南アジアの実情を体験すると共に、その調査の積み重ねが日本国に於ける貴重な資料となった。

大調査旅行報告書は纏められて、次々に出版され、支那事情を国民に明かにして行った。『清国商業慣習及金融事情』(明治37年 学生執筆)『支那経済全書』(根岸教授 明治40年~41年 全12巻)『支那省別全誌』(馬場教授 大正6年~9年 全18巻)『新修 支那省別全誌』(昭和16年~19年の9巻迄出版・残未完)がある。この大旅行は昭和十八年まで続いた。幸い、死者こそ出なかったが、幾多の困難を乗り越えて継続された。そこに、この大旅行を決断した初代院長根津一の教育者魂が込められている。

        根津一と陽明学

 根津院長は、東亜同文書院の教育の中に、特に「倫理」を設けて、全学年、毎週一時間、院長自ら講義を担った。根津は、倫理感の高い人物を生み出す事が全ての基礎であると考えていた。根津はテキストに、王陽明の序文を掲載した『古本大学』を使って講義を行った。その講義録(三期生川畑豊治筆記)には次の言葉が記されている。

●蓋し倫理の本領たる、人間明徳の根本を説き、明智を発揮するにあり。人間の本性を明かにし、根本の明智を明かにするときは、心地明鏡止水の如く、世事人事科学百般の事物の真相瞭然之れに映ず、世に処して誤らず、難に遭うて迷わず、臨機応変の術智は備わり治国平天下の活動始めて全うすべし。(略)東洋独特の真理道徳にして、孔子釈迦の教養を本として、説かんと欲するなり。

●王陽明は大学を以て心を大人にするの学問なりとなす。これ即ち人士の朝野を問わず、何人と雖もこれを修めて大人たるの徳を成し聖を致すの学問なりと云うに当る。

●現在日本の人物、人を治むるの術、遙かに三千年以前に及ばず。これ一に明徳の明らかならず、其の身修まらざるが為なり。苟も人の長となり人を統御せんとする者、士たり農たり、商たり工たり、将た政治家たるを問わず、先ず身を修め、智徳を磨き以て統御の法を養わざるべからず。今日世上統御の才を備うるもの皆無なり、則ち自ら徳を修めて、先ず此の今世の弊を挽回するの力あるもの、即ち将来の大人物たるものは衆を援けて自ら首たるを得るの人なり。勉めざるべからず。

       メッケルに反旗を翻した硬骨漢
     
 根津一は、万延元年(1860)五月山梨県東山梨郡日川村に根津勝七の次男として誕生した。幼名は伝次郎。十二・三歳の頃、名主の所に行って「一は万物の肇め、總ての物が一に起り一に終る、従つて一は万物に通じて自在である。」と、名前を改めた。幼少の頃から読書に励んだ。明治十年、十八歳の時、西南戦争勃発を聞き、同志十三人と共に東京教導団歩兵科に入った。教導団を首席で卒業し、士官学校に入学。士官学校在校中に「生徒中の気節家を集めて一団(谷中会)となし、深く相交り、生徒一般の気節を振起せんことを任」じた。十八年、陸軍大学入学を命じられる。

だが、ドイツ参謀本部から招聘した教官メッケルの「予にして独逸兵一師団を率ゐ来らしめば、日本軍の如きは縦横に撃破し得べし」との言に対し「斯くの如き傲慢は捨て置き難し、日本将校の恥辱なり」と強い憤りを覚え、その後悉くメッケルと対立する。メッケルの指導に対し、「是れ日本式なり、日本に於ては斯くの如きのみ」と頑なまでに抵抗した。メッケルは怒り、根津を辞めさせるか自分が辞めるかと大学側に迫った為、根津は潔く退学した。

根津の反発には、思想的な裏づけがあった。根津は当時、「将徳論」「哲理論」という二編の論文を記している。「将徳論」の中で、「将」が身につけるべきものに「将徳」と「将材」の二つがあるとして、欧州の軍事から「将材」のみを学び、将徳の涵養を放棄している現状に憂慮を示すと共に、「将徳」を涵養するに当っては、西洋哲学は平易だが浅薄であり、得る所は少ないとした上で、アジアは哲学書に富み、様々な兵法の書、更には論語や禅学の如き「高尚深遠なる哲理の域に入るべし。此の種の哲書に至りては、心理、倫理、政理等、悉く含有せざるものなし。」と、その哲理を「将」たる者が身につけるべき事を述べている。

           東亜経営の志

 根津は、陸軍大学を辞めた理由を次の様に記している。

●右に付き余は少しも後悔せざりき、何となれば余は荒尾氏と高等戦術を研究し終らば、支那に行くべしとの約あり、而して今や高等戦術は皆な研究し終りたればなり。

根津は、士官学校時代に荒尾精と知り合い、共に東亜経営の志を立て、大陸雄飛の計を懐いていた。その契機となったのが、参謀本部に於てロシアの参謀本部次長陸軍中将プレジュワスキー著『支那攻略論』なる露国参謀本部の秘密書を見た事だった。根津は「之を見て益々支那に渡り支那を改善し、之と提携してロシヤに対抗するの必要なるを確信せり。」と記している。

根津はかく確信する。

●西力の東漸、就中露国の圧迫、それ斯くの如し、今に於て之を抵禦するの道を講ぜずんば東亜の大局を如何にせむ、若かず、支那をして覚醒せしめて富強に導き、共に起ちて西力の東漸に当り、以て東亜の久安の策を定め、宇内永和の計を成さんには

 明治二十二年、先に支那へ渡っていた荒尾が帰国、謀議研究の上、「日清貿易研究所」の設置を定める。この頃根津は「欧行者愚と成るの論」を記し、陸軍で問題となる。予備役となって二十三年七月迄に漢口に至り同志を糾合、十一月上海に至り、資金繰り等で日本に渡り、殆んど不在の荒尾精に代り所長代理として、研究所の経営及び教育に当る。財政難の中、良く研究所を保ち、不良学生の退学処分、研究所の成果を集大成した二千頁に及ぶ『清国商業総覧』を執筆刊行した。

二十六年六月、研究所は八十九名の卒業生を出して閉鎖した。根津は蘇州・杭州・北清・満洲・朝鮮を視察して帰国し、京都・南禅寺付近に隠棲した。

●予は研究所の経験に鑑み、自ら其の智徳の足らざるを知り、更に退隠して数年間修養すべしと考へ居り
根津は、峻厳なる指導で有名な滴水禅師に参禅し修行した。

 しかし、時代は朝鮮半島を巡って支那と対立。二十七年五月には大阪に出て、荒尾精・頭山満・佐々友房等と支那問題に対応するの為の運動を開始する。

●支那の横暴甚しと言ふべし、我が国権を蹂躙すること此に至つては最早忍ぶべからず、若かず一戦して之れを破り、両国の意志疎通せる暁は、所謂雨降りて地固まるの譬にて真の親善を期し得べく、然る後相提携して東洋の大局を維持せんには、是れ即ち禍を転じて福と為すなり

同年七月には参謀本部出仕に任じられ、清国の情勢視察に赴く。九月帰国、広島の大本営にて明治天皇の御前会議で三時間余に亘って作戦意見を奏上する栄に浴す。十月には第二軍司令部付として出征、十二月には楊家屯兵站司令官となって、地元民の協力を得て成功している。根津は日清戦争勃発に際し、日清貿易研究所の関係者や卒業生に打電して呼び寄せ、諜報や通訳などの特殊任務を依頼した。その中で、九名の者が、敵に捕縛されるなどして命を失った。

根津は、九烈士を思い起こしては「嗚呼余は実にかの九人を殺せり」と自責の念に苛まれた。二十八年十月、根津は参謀本部を辞して京都に再び隠棲した。日々、九烈士の菩提を弔うと共に、師を招き経書の講義を受ける等修養を積むと共に、支那問題及び対露問題について研究を重ねた。根津は戦時中に三烈士の慰霊碑を金州城外に建立し、戦後は泉岳寺に移して建碑した。更に三十年秋には九烈士の碑を京都若王子神社境内に建立し次の碑文を草している。

●嗚呼王事至茲、請挺身而徯後世矣、噫是諸君
起時之言、思之惟之、夢寐豈能得忘哉

●何をしてこの九烈士に報いたらよかろうか、この根津の電報一本で一言の言葉も返さずに、すつと支那へ発ってくれた。これに対して、どうして九烈士を慰めたらいいか

根津は、九烈士の親戚筋の子弟達を書生として預り育てて行く。

更に根津を打撃が襲う。盟友荒尾精が二十九年十月三十日に台北で客死したのだ。ペストに感染したのである。根津は「此の時に於て此の英傑を奪ふ、天何の意ぞ」と悲しみ、荒尾の分まで志を貫く事を誓った。

その三ヶ月前に根津は藤居栄子と結婚していた。栄子夫人は同志社出の才媛でクリスチャンだった。根津は家内の事を細々と夫人に指図していた。そして三年が過ぎ、根津は夫人に語った。

●この三年間はえらかつたぢやらう、よくやつてくれた、これでもうこの根津の家の台所の方は大安心だ、これから儂が本仕事にかかるのじゃから―有難い

家を斉え終り、愈々治国・平天下に取り組むとの宣言だった。夫人は「あなたには私心といふものがない」と心から敬服していた。以後、根津は家の事は夫人に全託した。

当時、滴水禅師は根津の事を「あゝ立派な人物だ。頭から足のさきまで、満身国を以て充たされてゐる」と評している。

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