たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

盛岡の旧町名(本町、油町、花屋町、大工町)

2011-09-15 | ぶらり盛岡

盛岡のまちづくりは,慶長3年(1598)の盛岡城の築城にあわせ,お城を中心に城下町が開かれたことに始まります。明治時代に城郭は取り壊されましたが、まちづくりの中心は常にお城であり、城下町盛岡ならではの魅力が多くの人々の心を引き付けてきました。「地名は土地に刻まれた言葉」ともいわれます。
城下町盛岡においても,その歴史を今に伝える上で旧町名はとても重要な役割を果たすことから,「あすを築く盛岡市民運動実践協議会」が,昭和54(1979)年に「城下盛岡町名由来記」を発行(編集:盛岡市),それらの旧町名については,市内27カ所に各町名の由来を記した説明板を設置し,管理を行っています。(盛岡市)
江戸時代の前期・中期には町名は「町」の字を使用していたが、江戸後期の文化9年(1812)には盛岡城下の町数は「丁」の字を使い、23町から28丁となって発展し、明治時代にいたっています。城下町盛岡では町の中心部を中津川が流れており、中津川の南側を河南地区、北側を河北地区と呼んでおり、現在も、河南中学、河北小学などの名前の学校があります。また、お城の東側には城東小学、西側には城西中学、南側には城南小学、北側には城北小学校の名前の学校があります。
28丁の名前の町は次の通りです。

河南地区の丁(町)
仙北丁、青物丁、川原丁、鉈屋町、石(穀)丁、新石(穀)丁、十三日町、馬町、六日丁、呉服丁、生姜丁、肴丁八幡丁、葺手丁、紺屋丁、 鍛冶丁、紙丁

河北地区の丁(町)
本丁、油丁、大工丁、花屋丁、四ツ家丁、八日丁、三戸丁、長イ丁、材木丁、茅丁、山岸丁

これまで河南地区をあるいて来たので、ここからは河北地区を歩いてみます。





前回の旧町名にあった、紺屋町・鍛冶町を過ぎるとT字路になり、この道が紙町で、T字路を右折すると天満宮の方向、左折すると「上の橋」があり、橋を渡って一部が紙町、続いて本町、八日町、四ツ家町となる。






(18)本町

古くは京都出身の商人や京風構えの町家が多かったともいわれ,京町と呼ばれていたが,文化9年(1812)に本丁となり,明治以後,本町となった。盛岡城の大手先(おおてさき)御門に近い最重要地に置かれた城下の本(もと)となる町の意味が由来。
本町かいわいは,内丸や城中の御用を扱う商人や職人が多かった。また奥州街道が通り,沿岸方面へ通じる野田街道の起点にもなっていたため,大商家も多かった。






案内板のあるこの通りは現在は本町通りと言われており盛岡では一番長い直線の道路になってます。南は国道四号盛岡バイパスから天満宮の脇を通り、上の橋、本町、四ッ家を通り、三戸町・長田町を横切り岩手大学の正門前を通過、国道46号線・盛岡バイパスを横切り、松園団地に入り、松園バスターミナル前、松園交番前を通り、北上川の四十四田ダム湖に達する10kmの距離を直進信号で行けます。



天満宮から見た紙町・本町・八日町通り




(19)油丁

油町は,本町に平行な道に沿う町で、油商人が住んでいたことに由来する。野田街道の城下入口に当たり,塩や海産物を扱う商人や牛馬宿も多かった。






(20)花屋町

花屋町は油町につづく町で油町の北側にあたる。初め寺町と呼ばれていたが,明治以降,花屋町と呼ぶようになった。北山の寺院群に通じる道筋で,法要や墓参に供える花を売る店があったことが由来。






(21)大工町

本町の東側には大工町があり,本町通りと油町・花屋町の通りの間にある。大工・左官・石工・庭師などの職人町であった。上大工町と下大工町の2町に分かれていた。城下最初の質屋もあった。












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啄木の盛岡中学時代の歌

  薧(いらか)射る春のひかりの立ちかへり市(いち)のみ寺に小鳩むれとぶ
 
≪盛岡中学校校友会雑誌第3号 明治35年3月≫ 「白蘋」名で7首 (その7)

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渋民「長渡」の啄木歌碑

2011-09-11 | 啄木歌碑
国道4号線を盛岡から進行し、渋民の街を過ぎ、左折すると渋民公園、右折すると啄木記念館がある信号があります。啄木記念館のすぐ隣は啄木が育った宝徳寺があり、さらに進むと左側に幼稚園があり、道路を挟んで右側の道路を進むと、この啄木歌碑がある。この道は愛宕神社に通じる道です。この歌碑は平成3年10月に建立されている。長渡はこの辺の地名です。









閑古鳥
澁民村の山荘をめぐる林の
あかつきなつかし

石川啄木




この歌は、啄木歌ノート一握の砂以後(明治43年11月末より)にあり、悲しき玩具に掲載されている。








奥州街道一里塚

2011-09-08 | ぶらり盛岡

前述の盛岡旧町名「鍛冶町」に奥州街道「鍛冶町一里塚」がありましたが、今回は「盛岡の一里塚」を訪ねてみました。奥州街道は五街道(ごかいどう)のひとつで、江戸時代の江戸・日本橋を起点とする五つの陸上交通路で、盛岡を経て青森までの道路です。日本橋を基点として、36町を一里(4km)と定め、一里ごとに街道の両側に底面直径5間の大きさに造られ、その上に樹木(針葉樹と広葉樹)の2本を植え、里程標として全国各地に築いた。奥州街道は盛岡に入ると、「見前一里塚」⇒「川久保一里塚」⇒「鍛冶町一里塚」⇒本町・四ッ家町・上田・高松・緑ヶ丘を通り⇒「上田一里塚」⇒「小野松一里塚」⇒「笹平一里塚」⇒「渋民一里塚」⇒「新塚一里塚」と続きます。


見前一里塚


日本橋から137番目の一里塚。1651年に築造された。






今宮神社前の案内板





日本橋から137番目の一里塚で、現在の道路では東京からの距離が526kmなので、526÷4=132なので、奥州街道当時は4km間隔に一里塚があったのでしょう。



川久保一里塚








奥州街道は、仙北街を通り鍛冶町一里塚に行きますが、この場所は仙北町への道路と盛岡バイパスの道路の分岐点になっている。




鍛冶町一里塚


鍛冶町一里塚の場所は、街の中心部になっており、塚はなく、標識のみあった。








上田一里塚


上田一里塚は、西塚のみがアネックス川徳敷地内に現存し、オリジナルの松の木は台風により倒木し、平成17年に現在の松が植えられた。この塚は、以前は旧修道院の塀の中にあったため、あまり見られなかった。現在は、道路整備においても松並木を残し、多くの人に見られるようになった。鍛冶町一里塚からは4.5km離れている。













小野松一里塚


両塚が現存してはいるが、東塚は半壊していたものを道路の拡幅にあわせて盛土復元された。この場所は、個人の敷地内にあり、家の方の話では、西塚には以前「桜」の木が立っていたということでした。上田一里塚からの距離は4.4kmです。



西塚


東塚





小野松観音





笹平一里塚


奥州道中は小野松一里塚から北は,、四十四田ダム湖に水没しており歩くことは出来ない。現行の道路はダム建設時に付け替えられたもので水面よりかなり高いところを通っている。 
笹平一里塚の位置は確定しているようだが、草木が生い茂りたどり着くことが出来なかった。現行の道路では小野松一里塚から5㎞離れたところに標識があり、そこから50mほどの所にまた標識があり、そこから110m離れたところにあるようだ。









渋民一里塚



笹平一里塚からは4.7㎞の所にあり、道路右側の民家の前にある。









新塚一里塚


渋民一里塚を過ぎると、間もなく国道4号線となり、渋民の街を過ぎ、さらに進むと、直進と左折のみの信号があり、左折すると好摩駅です。この信号を直進すると100mほどの右側に新塚一里塚があります。













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啄木の盛岡中学時代の歌

  夕雲に丹摺(にずり)はあせぬ湖(うみ)ちかき草舎くさはら人しずかなり

 
≪盛岡中学校校友会雑誌第3号 明治35年3月≫ 「白蘋」名で7首(その6)

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渋民「宝徳寺駐車場」の歌碑

2011-09-06 | 啄木歌碑
啄木が育った宝徳寺の前方50mほどの所に駐車場があり、そこには平成13年宝徳寺本堂の落成記念として建てられた歌碑がある。
この歌碑は、宝徳寺駐車場に隣接する伊五沢富雄さんが、祖先の伊五沢丑松と啄木供養のため歌碑を建立したとあります。



啄木歌碑ー前方に見えるのが宝徳寺




今日もまた胸に痛みあり。
死ぬならば
ふるさとに行きて死なむと思ふ

啄木


名香の堂を埋むや魂祭り

                洒楽(伊五沢丑松)



この歌は、啄木歌ノート「一握の砂以後」(明治43年11月末より)にある歌で、雑誌「新日本」(明治44年7月号)に発表、「悲しき玩具」に掲載







盛岡の旧町名(紺屋町、鍛冶町、紙町)

2011-09-02 | ぶらり盛岡

江戸時代の前期・中期には町名は「町」の字を使用していたが、江戸後期の文化9年(1812)には盛岡城下の町数は「丁」の字を使い、23町から28丁となって発展し、明治時代にいたっています。城下町盛岡では町の中心部を中津川が流れており、中津川の南側を河南地区、北側を河北地区と呼んでおり、現在も、河南中学、河北小学などの名前の学校があります。28丁の名前のうち河南地区の17の町は次の通りです。

河南地区の丁(町)
仙北丁、青物丁、川原丁、鉈屋町、石(穀)丁、新石(穀)丁、十三日町、馬町、六日丁、呉服丁、生姜丁、肴丁八幡丁、葺手丁、紺屋丁、 鍛冶丁、紙丁


今回は河南地17の町のうち紺屋丁、鍛冶丁、紙丁です。前回の葺手町から愛染横町を通ると奥州街の紺屋町に達します。紺屋町、鍛冶町、紙町と続く3つの町は,江戸時代,盛岡城下を通る奥州街道に沿って発展した町人町で、紙町は上の橋]両詰の町でした。






(15) 紺屋町(こんやちょう)

紺屋町は,中津川を利用した紺屋(染物屋)が集まっていたことに由来。南部紫(むらさき)や南部茜(あかね)によって染められた布地は,盛岡藩の特産物であった。



南部紫染本舗(草紫堂)


奥州街道アンチック市


紺屋町番屋


紺屋町番屋は大正2年に消防番屋として建てられた、木造2階建て、屋根の上には望楼が設えられており、当時はかなり遠くまで望めたのでしょう。この建物は当時と大きく変化がなく、消防施設の変遷を知る貴重な建物として、昭和52年に盛岡市の保存建造物指定をうけている。





茣蓙九


茣蓙九は文化13年(1816)に創業した商家で、盛岡市を代表とする町屋建築です。格子窓や隣家との境にある土壁(うだつ?)、などが残っています。「この建物は、江戸時代後期、明治中期、明治末期と次々に建てられたもので、藩政時代からの商家の姿を今に伝える建造物である。」とあり、盛岡市の保存建造物に指定されています。



(16)鍛冶町(かじちょう)

城下鍛冶町は奥州道中の宿駅である。江戸日本橋を起点にした奥州街道の第139番目の一里塚が置かれ,駅所(えきしょ)として賑わったところである。町中にあったため塚は築かれなかった。

この鍛冶町一里塚は、領内諸道ぼ里程を計算する基点で、もと石の標抗があったが、文化(1804~)初年頃に撤去されたと伝えられている。

鍛冶町は,鍛冶職の棟梁職人が居住していたことに由来。刀鍛冶や鉄砲鍛冶のほかに農具を作る野鍛冶も住んでいた。当町の裏通りを鍛冶町裏ともいった。



鍛冶町一里塚跡




城下町鍛冶町は奥州道中筋の宿駅である。鍛冶町一里塚は慶長期(1596~1615)の築造とみられ、領内諸道の里程を計測する基点であった。 



(17)紙町(かみちょう) 

紙町は,上の橋の両詰に上方の紙商人を住まわせたことに由来。盛岡で初めて紙が漉かれたのは,寛文9(1669)年。筆墨も商ったため,紙町の東詰に天満宮が祀られていた。




上の橋


上の橋は、慶長14年(1609)に第27代藩主南部利直(なんぶとしなお)が、 盛岡城築城時に中津川に架けました。橋に取り付けられた擬宝珠(ぎぼうしゅ・ぎぼし)は、慶長14年のものが8個、慶長16年のものが10個、合計18個が取り付けられています。橋の擬宝珠で記念銘があり、制作年代も古く、残存個数が多いという点で、盛岡市の青銅擬宝珠は国内でもまれな存在のようす。現在の橋は、何回かの流失を繰り返し、昭和になってかけかえられたものです。



天満宮から見た紙町

天満宮から見えるこの道路をまっすぐに進むと、「鍛冶町一里塚」の次の「上田一里塚」を過ぎ、四十四田ダムにたどり着きます。さらに右方向に進むと、まもなく次の一里塚である「小野松一里塚」があります。



上の橋のたもとの「ささき千代紙店」



保存建造物指定 旧井弥商店(紙町)


この建物は、明治末期に井弥商店店舗として建てられたもので、明治時代を代表する土蔵造りの物ですー盛岡市



紙町の餅や丸竹











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啄木の盛岡中学時代の歌

  森の水に墨染衣名を云はずうしや経の手涙にぬれぬ

 
≪盛岡中学校校友会雑誌第3号 明治35年3月≫ 「白蘋」名で7首 (その5)

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