たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

奥州街道一里塚

2011-09-08 | ぶらり盛岡

前述の盛岡旧町名「鍛冶町」に奥州街道「鍛冶町一里塚」がありましたが、今回は「盛岡の一里塚」を訪ねてみました。奥州街道は五街道(ごかいどう)のひとつで、江戸時代の江戸・日本橋を起点とする五つの陸上交通路で、盛岡を経て青森までの道路です。日本橋を基点として、36町を一里(4km)と定め、一里ごとに街道の両側に底面直径5間の大きさに造られ、その上に樹木(針葉樹と広葉樹)の2本を植え、里程標として全国各地に築いた。奥州街道は盛岡に入ると、「見前一里塚」⇒「川久保一里塚」⇒「鍛冶町一里塚」⇒本町・四ッ家町・上田・高松・緑ヶ丘を通り⇒「上田一里塚」⇒「小野松一里塚」⇒「笹平一里塚」⇒「渋民一里塚」⇒「新塚一里塚」と続きます。


見前一里塚


日本橋から137番目の一里塚。1651年に築造された。






今宮神社前の案内板





日本橋から137番目の一里塚で、現在の道路では東京からの距離が526kmなので、526÷4=132なので、奥州街道当時は4km間隔に一里塚があったのでしょう。



川久保一里塚








奥州街道は、仙北街を通り鍛冶町一里塚に行きますが、この場所は仙北町への道路と盛岡バイパスの道路の分岐点になっている。




鍛冶町一里塚


鍛冶町一里塚の場所は、街の中心部になっており、塚はなく、標識のみあった。








上田一里塚


上田一里塚は、西塚のみがアネックス川徳敷地内に現存し、オリジナルの松の木は台風により倒木し、平成17年に現在の松が植えられた。この塚は、以前は旧修道院の塀の中にあったため、あまり見られなかった。現在は、道路整備においても松並木を残し、多くの人に見られるようになった。鍛冶町一里塚からは4.5km離れている。













小野松一里塚


両塚が現存してはいるが、東塚は半壊していたものを道路の拡幅にあわせて盛土復元された。この場所は、個人の敷地内にあり、家の方の話では、西塚には以前「桜」の木が立っていたということでした。上田一里塚からの距離は4.4kmです。



西塚


東塚





小野松観音





笹平一里塚


奥州道中は小野松一里塚から北は,、四十四田ダム湖に水没しており歩くことは出来ない。現行の道路はダム建設時に付け替えられたもので水面よりかなり高いところを通っている。 
笹平一里塚の位置は確定しているようだが、草木が生い茂りたどり着くことが出来なかった。現行の道路では小野松一里塚から5㎞離れたところに標識があり、そこから50mほどの所にまた標識があり、そこから110m離れたところにあるようだ。









渋民一里塚



笹平一里塚からは4.7㎞の所にあり、道路右側の民家の前にある。









新塚一里塚


渋民一里塚を過ぎると、間もなく国道4号線となり、渋民の街を過ぎ、さらに進むと、直進と左折のみの信号があり、左折すると好摩駅です。この信号を直進すると100mほどの右側に新塚一里塚があります。













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啄木の盛岡中学時代の歌

  夕雲に丹摺(にずり)はあせぬ湖(うみ)ちかき草舎くさはら人しずかなり

 
≪盛岡中学校校友会雑誌第3号 明治35年3月≫ 「白蘋」名で7首(その6)

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