たかしの啄木歌碑礼賛

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盛岡の旧町名(仙北町・青物町)

2011-07-03 | ぶらり盛岡
盛岡のまちづくりは,慶長3年(1598)に建てられた盛岡城を中心に城下町が開かれたことに始まります。明治時代に城郭は取り壊されましたが、まちづくりの中心は常にお城であった。、
江戸時代の前期・中期には町名は「町」の字を使用していたが、江戸後期の文化9年(1812)には盛岡城下の「まち」は「丁」の字を使い、23町から28丁となって発展し、明治時代にいたった。城下町盛岡では町の中心部を中津川が流れており、中津川は北上川に直行するようになっている。盛岡の町はこの中津川を堺にし、中津川の南側と北上川の間の地区を河南地区、中津川の北側と北上川の間の地区を河北地区と呼んでいた。

河南地区の丁(町)17丁
仙北丁、青物丁、鉈屋町、川原丁、石(穀)丁、新石(穀)丁、十三日町、馬町、六日丁、呉服丁、肴丁、 生姜丁、 八幡丁、葺手丁、紺屋丁、鍛冶丁、紙丁
ここで、十三日町と馬町の二つが町(まち)と呼ばれている。馬丁(うまちょう)と呼ぶより馬町(うままち)の方がゴロが良いからなのでしょうか。

河北地区の丁 11丁
本丁、油丁、大工丁、花屋丁、八日丁、四ツ家丁、三戸丁、長イ丁、材木丁、茅丁、山岸丁

また、文化11年(1814)には、武家屋敷街を明示する武家屋敷小路を定めている。
馬場小路、鷹匠小路、餌差小路、大清水、平山小路、帷子小路、新山小路、日影門小路、仁王小路、大沢川原表、上田小路、上田与力小路、、加賀野などがあります。

そこで、今回は盛岡市で立てた旧町名の説明を記した案内板を順次訪ねてみることにした。案内板では「町」の字を用いて紹介しています。



(1) 仙北町(せんぼくちょう)

仙北町は、城下町の最南端にあり、北上川を渡る唯一つの町で、現在もこの地は仙北町と呼ばれています。仙北町は、南部家第二十七代藩主 南部利直公(1576~1632)が出羽仙北郡(現秋田県仙北郡)からの来住者を居住させたのに始まります。

城下町の中心部から川を挟んで独立している仙北町は、奥州街道や山形街道の出入り口の要所として、また北上川の舟運(しゅううん)による物資の交流の中心として活況を呈していたと言われている。

文化9年(1812)武士の街を小路、庶民の街を丁と分けたため仙北町が仙北丁となり、仙北丁から独立して新小路に青物丁の名前がつけられた。

 




仙北町は隣町の紫波郡の穀倉地帯に近く、米の集散や農民相手の商工業によって発展した。延宝八年(1,860年)に新山舟橋が架せられると、洪水で舟橋をはずす時は、当町側の水主(かこ)が橋の中程から南を担当し、北側は鉈屋町側の水主が担当した。舟橋の橋詰から下る辺りを千日川原と称した。これは、元禄飢饉の死者を供養する千日堂不退院(虚空蔵(こくぞうさん))を建立したことに由来する。







現在の仙北町駅 (盛岡駅より1.8km)



(2)青物町(あおものちょう)

青物町は、古くは仙北町新小路といわれていたが、文化9年(1812)に青物町と改められた。城下で消費する野菜・種物・粉なんばんなどの産地で、これらを扱う商店が集まっていたことに由来する。青物町の北西にある七軒町(しちけんちょう)は、駒形神社の門前町で、当初の家数が七軒あったことに由来。頭人は御駒太夫と称し、太神楽などの神事芸能を伝承した。





上の写真は明治橋からみた仙北町ですが、当時の青物町は向かって右側、仙北町は左側です。現在は青物町も含めて仙北町と呼んでいる。




駒形神社






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啄木の盛岡中学時代の歌   ≪爾伎多麻(にぎたま)明治34年9月号≫

  ゆりのそのにふと見てゑみし人よその紅絹(もみ)の袖口ただ紅(あか)かりき 
 
啄木盛岡中学4年・16歳、友人と回覧雑誌「爾伎多麻」を発行、「翠江」名で30首(その22)

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