くない鑑

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平氏小栗家顛末記[結]

2008年04月26日 | 知識補給
常陸介満重に代わって小栗家の主流となって弾正忠重弘の裔は、碧海郡筒針に居館(城砦)を構えて土着するが、目と鼻の先の安祥城や矢作川対岸の額田郡岡崎城(2.5Km)は、松平家の拠点であったので、松平衆との繋がりは次第に多くなる。
弾正忠重弘の来孫である左京進正重は、三河国上野城主酒井将監忠尚の養女に出した妹婿に、額田郡岩津城主松平市郎忠吉(?~1538)を迎え、この間に生まれた仁右衛門吉忠に「小栗」の名跡を与えて一家と成す。

改めて,「小栗」に改称した仁右衛門吉忠(1527~90)は、松平広忠の頃から合力するが、文武に優れていて数多の勲功を重ね、子息の庄三郎忠政もまた軍功多く、特に槍の使い手として名を馳せ、家康公から「又も忠政が一番槍」から“又一”という名を賜る栄を受けます。

江戸幕府が成ってからは、上野や武蔵などに2,550石もの采地を得、以後,上級旗本として連綿と続き、又一忠政から数えて11代目の上野介忠順へと繋がるのです。
彼の功績は、ここで今更披露するまでも無く多くの方々に知られており、幕末随一の能吏であり、近代日本の礎を築いたといっても、過言では無いかと思います。
ゆえに...西軍の処断には、残念無念であり、大いに悔やまれるところです。。。

なお、又一忠政の子,仁右衛門正信(信由)は柔術に優れていて、その技は小栗流和術として一派を為し、その技は、土佐国主山内家に仕えた高弟の朝比奈丹左衛門可長が能く受継ぎ、幕末まで土佐山内家の主流となる。

この他にも,左京進正重には男子が無く、疋田家より迎えた男子も小栗家を継ぎ、江戸時代には旗本として280石の采地を受継ぎ、代々大番入りをして、名門に恥じぬ処遇に得ています。

最後に。
説教浄瑠璃の一つとして広まった「小栗判官伝説」は、現代に於いても歌舞伎などで取り上げられて、世に知られていますが、そのきっかけは、政争に翻弄されて滅んだ小栗家の人々の怨霊を鎮める巫女が時宗僧と係りを持ち、道場(遊行寺)の在る藤沢にそれが伝わり、更にここから全国へと伝播したと・・・言われています。
ちなみに、説話中に登場する「照姫」とは、巫女たちのことであろうと考えられるそうです。

そうえいば...
徳川家の始祖は、応永年間に三河国松平郷に流寓土着した時宗僧の徳阿弥なるものと言われていますが、単なる偶然にしては、なんだか面白い繋がりです。

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