くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

「羽柴家」死すとも「豊臣氏」は死なず

2007年12月05日 | 知識補給
いま,CSの時代劇専門チャンネルでは、7年前に放送されていた大河ドラマ「葵 徳川三代」を朝と夜に放送しています。
このリアルタイム時,私は日本近世史を専攻する大学4年生で、ゼミ中でもちょっとした話題になっていました。
しかし、尊敬する我が師はこれをバッサリと「正月早々合戦とは何事か,つまらない」と仰っていました。。。
ただ、恩師には申し訳無いのですが、その仰せを無視して,私は観続けました。
キャストに「熟練者」を多く起用していたので、若干の無理や古臭さがあったのは否めませんが...。
それを今,再び放送しているので、折角の機会と観改めています。

先日は中盤の山場,大坂冬の陣と夏の陣が終わり、越後少将忠輝候が改易となり、今日は大御所家康公が身罷られました...。

ジェームス三木は、比較的史実に基づいて物語を展開させるので、幾分安心してみて入られるのですが、ここまでで2点ほど,ど~しても合点の行かない事を見つけてしまいました!
その、まず一つ目。
「源氏で無ければ征夷大将軍に為れない」と、言っていたのですが...
これは大いなる誤り!です。
歴代の将軍を見,“平氏”の織田信長が、甲信平定後に朝廷から受けた三職推任の一つに征夷大将軍があり、信長の意向が将軍就任にあったことで、源氏云々が就任条件では無いことは明白かと思います。
そうしたら、征夷大将軍の任官条件とは何か?!というと...
「関東平定」にあるのです。
ゆえに、信長は甲信平定後も滝川一益を関東管領として西上野に侵出させ、秀吉は小牧長久手で徳川勢に敗れたことによって、東国支配の目論見が頓挫したが為に、朝廷の権威を借りる事ととなったのです。
ちなみに...
足利幕府最後の将軍,足利義昭は、死去する間際まで現職の“征夷大将軍”でもありました。
(ゆえに、落ち延びた備前国鞆の御座所より“鞆幕府”と称する事もあるとか。)

そして、もう一つが...
「豊臣家の滅亡」
大坂冬の陣と夏の陣にて、幕府軍10万余の大軍に囲まれた大坂城は落ち、右大臣秀頼や生母の淀の方に近臣衆が、こぞって城と運命を共にしました。
これをもって、世間的には「豊臣家滅亡」としているようですが、実はそうではなく、「豊臣」氏は、今も連綿と続いているのです。
これは、何も“右大臣秀頼の遺児,国松丸の落武者伝説”などという、真偽の程が不明な話に非ず。
歴とした外様大名として版籍奉還まで、備中国足守と豊後国日出の領主を務めていました。
その領主とは、太閤秀吉の正室,高台院の実家である「木下家」でした。
すなわち,足守と日出には、太閤秀吉の義兄である中納言家定と、甥の右衛門大夫延俊の系統が(主として)「豊臣」氏を受継いでいるのです。
▽備中足守家は、忠臣蔵での赤穂城収城使として,また、木下流槍術の宗家としても(幾分)有名です。

しからば、秀頼は?!・・・豊臣姓の「羽柴家」なのです。

世間一般的に、太閤秀吉は「木下」から「羽柴」,「豊臣」へと改称していったかのような印象を持たれがちですが、然に非ず。
「木下」や「羽柴」は、「織田」や「徳川」と同じく苗字であり、秀吉も秀頼も生涯これを称しているのです。
一方,「豊臣」というのは天子様から賜った氏姓で、「源氏」や「平氏」といったものと同じものなのです。
ゆえに、大坂の陣にて滅んだのは豊臣姓羽柴家なのです。

なお、苗字とは「“家”という社会組織自体」であり、氏姓とは「天子様から賜る公的な名前」であり「父系制的な血族原理」によって継承されていくものなのです。
それゆえに,この原理原則から言うと「女系」若しくは「女性天皇」というのは、凡そ有り得ない・・・と、いうことになりますし、エリザベス女王とエジンバラ公の関係も成り立たないことになります。

私も,このことを知ってから「目から鱗」がボロッボロ落ちました(笑)
これは、皇學館大学の岡野友彦教授『源氏と日本国王』(講談社現代新書)を参照に記しまいたが、この他にも,「氏姓」や「源氏」の謂れについて、面白い!話がふんだんに得られますので、ご興味ある方は、是非一度ご一読なさってみてください。

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 只々,勇気無きを2度、嘆き... | トップ | 素顔の中国 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
日出藩主家について (上杉三四郎)
2007-12-18 23:45:04
お久しぶりであります。

気になる記事が目に付きましたので、コメントをつけさせて頂きます。

豊後国日出は、それがしの屋敷からも比較的近いので、何度か行ったことがあるのですが、木下家代々の墓所に行った時に、墓石に豊臣の名が堂々と彫られているのにびっくりしたことがありましたな。

敷地内にはねねの母のお墓もあるあたり、こちらの方が木下家の宗家のように思えますな。
(藩祖・延俊公は木下家定の次男なのでそうでありましょう)。

さらに、木下家の御当主は、一子相伝と称するものの中で、国松の生存について語っておられたらしく、機会があればお目通りしてお話を聞いてみたいとおもっておりますな。
返信する
日出木下家の徒然 (記主くない)
2007-12-19 18:18:14
▽三四郎様
こちらこそ,ご無沙汰を致しております。
豊後へご帰国されたとお聞きしておりますが、
日出はお近くでしたか!
小藩ながら、一家が江戸時代を通して治めた町
ですから、さぞかし落ち着いた雰囲気の御城下
なのでしょうね。。。

>国松伝説
薩摩が有名ですが、日出木下家にもあるのですか!
それは勉強になりました( ..)φメモメモ
私も是非是非,ご当主様のお話をお聞きしたいですね。
返信する

コメントを投稿

知識補給」カテゴリの最新記事