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「武井武雄・メルヘンの世界」(昭和59年)諏訪文化社から抜粋
(昭和56年2月に収録、オール諏訪1、2号に連載されたもの)
(昭和56年2月に収録、オール諏訪1、2号に連載されたもの)
- 美術学校卒業(大正8年)後、間もなく武井先生の非凡な才能が認められ、当時の代表的な幼年雑誌「日本幼年」改題「コドモノクニ」などに執筆、次々に世に出されたわけですが、大正ロマンといわれる当時の模様、油絵専攻の武井先生が童画へと移行したいきさつなどを。
美校時代の武雄
(大正5年2月20日撮影)後ろ側
当時、「赤い鳥」という雑誌を出した鈴木三重吉が先鞭をつけたんですが、大正の中期から児童文化の運動が起こってきたわけです。僕らはこれを「大正の児童文化ルネッサンス」と言ってるんですが-。それから文士はみな童話か童謡を書く時代になり、いろんなものが同時に澎湃(ほうはい)として起こってきたわけです。おとぎ話が童話という形になり、児童文学になったということの初期なんですね。そうすると、それにつれて絵画も映画も音楽も全て同程度のもの、いままでよりは一ケタ上のものが要求されてくるわけなんです。それで、方々で児童文学とともに、美術方面でもいままでになかったような絵描きが、みな専業でやるようになってきたんですね。
僕は、ちょうどそのルネッサンスが起こってくる気運のある時代に遭遇したわけです。だから、どうせ何かアルバイトをするんだったら、一番好きなことをやろうってんで童画を描いて、しばらく食いつなげようと思ったわけです。この頃はまだ”童画”という言葉はなかったんですが-。ですから、最初はアルバイト根性であり、半年ほどそういうことを続けました。
コドモノクニ創刊号
(大正11年1月)
これは何故だろうと考えたんです。これは後に、川端龍子も書いていたんですがね。それは本当の腰掛けで、第二次的な考えで仕事をしていたということです。後に、軸物や屏風が高い値段で売れるようになったら、もう子どもの雑誌の絵なんか全然やらない、ほったらかしちゃう。やっぱり、大人のための純正美術をやりたい人が、アルバイトに、ちょっと子どもの雑誌に描いているという態度、これはケシカラン。これでは子どもを感動させるものができるわけがないんだ、と僕は考えたんです。
それともう一つは、仮に美校を出て油絵を描いていくとしてもね、油絵で食っていくとしたら、金持ちにへつらって何とかして絵を買ってもらうのがおち。そういう人は、たくさん収集しているから買った絵も、どこかへ積んじゃって見もしない。それよりも多くの人、大衆が見て楽しむことの方がいい。今の単位と部数は違いますがね。今は40万、50万ですが、当時は多い雑誌で5万位だったんじゃないかな。つまり、その雑誌を5人で見るとすると25万人になり、それで何か感動を受けるものがあったら、この方がやりがいがあるのではないかと考えたわけです。
当時は血の気の多い二十代でしたから、これは若気の至りですね。僕は左翼の運動は全然やらなかったけれど、そういう大衆のための美術を打ち立てようという考えが、すでにその時にあったんです。
それともう一つは、自分の一番好きなことで稼ごうということ。それらのことで、今までアルバイト根性だったやつを180度転換をしたんです。男子一生をかけて子どものために自分の能力をささげても、これは男子として恥ずかしくないことだという風に切り換えたわけです。そうすると、これはもうアルバイト根性じゃなく自分の第一義的な仕事ということになるんですね。そういうことを半年くらいたってから、やっと悟ったわけです。それからはもっぱら専門家みたいな顔をして、それをずーっと墨守してきたということでしてね。
武雄の著書・ラムラム王
(大正15年叢文閣)
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大正13年というと、関東大震災の翌年ですが、当時、執筆の順序として挿し絵が多かったんです。つまり文士が童話とか童謡だとかを書くと、それに絵、挿し絵をつけるという形式が多かったんです。そのために皆、錯覚を起こしてるんですね。子どもの絵本や雑誌の絵は、文学の隷属物だと思っている。あたかも、そこに主従関係があるみたいに。これはイカンと僕は思ったわけです。これは子どもに与える、対象を子どもとした絵本であって、決して文学にくっついているものじゃないんだと。絵画は絵画として独立して子どもに見せられるものであって、児童に対する美術の独立性ちゅうものがないことを非常に残念に思ったわけです。
そこで、銀座の資生堂で個展を開いたんです。その時に、これは文学の隷属物じゃないんだから何とか呼び名をつけなくちゃいけないということで「童画」という言葉を初めて使ったんですね。これは、童謡があり、童話があるんだから、童画でいいんじゃないかとつけたわけです。
ところが、非常に珍しい言葉だったらしくて、どこかの県会議員みたいなオッサンが来て、「表に童画って書いてあるけど、中に入ったら大人が描いた絵じゃないか」ってイチャモンつけたんです。だから僕は「ちょっと待ってくれ、大人が書いても童話だし、童謡もそうだ。これと”同様”だろう」と言ったんです。そしたら「そう言われてみればそうだ。誰が描いても童画でいいんだ」と、納得して帰った。そのくらい珍しかったんですね。
ところが、何年か後までも動画という言葉がなかなか理解されなくて、子どもの描いた絵と間違われて困った。子どもの描く絵は”児童画”といって区別し、童画は大人が描いて子どもに見せるための絵というわけです。後に展覧会をやった時なんかも、「これはうまく描けてる。実にうまいものだ。惜しいことに年齢が書いてない」なんて、やっぱり子どもの絵だと思ってるんですね。
これが、昭和34年に僕が紫綬褒章をもらったときに、童画をもって児童文化に貢献したと、ちゃんと書いてあるんですね。ですから、そのとき国で「童画」という言葉を認めたことになるわけです。昭和42年に勲四等の旭日をもらったときにも童画と書いてある。小学館の辞典にも童画という項目が載っている-もっとも、これは僕が書いたものですが。このように童画は、国の公認の言葉にもなり、やっとのことで定着してきたという感じですね。
それで、僕は童画家といわれているんだけれども、実際は三足のワラジをはいているんです。「童画」と「版画」それに「刊本作品」と称する本作りですね。日本では、マスコミ的に子どもの本が出ていったから、これがいちばん浸透し、童画家といわれているんです。ところが、アメリカでは、版画家といっている。そして、刊本作品の会員からすると造本美術-つまり本作りだと言っているんですね。ですから、どれが一体、僕の本当の顔だかよくわかりません。
現在の立場だと、1年中の自分の時間をいちばんたくさん使っているのが刊本作品、本作りです。子どもの絵本は、年にせいぜい2冊くらい描く程度ですね。