武井武雄をあいする会

童画家武井武雄が妖精ミトと遊んだ創作活動の原点である生家。取り壊し方針の撤回と保育園との併存・活用を岡谷市に求めています

武井武雄インタビュー(3)

2013年05月20日 22時25分31秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金
「武井武雄・メルヘンの世界」(昭和59年)諏訪文化社から抜粋
(昭和56年2月に収録、オール諏訪1、2号に連載されたもの)


- 大正11年、当時きわめて質の高い絵雑誌「コドモノクニ」が和田古江氏によって創刊されましたが、これに武井先生が大きな助言者になっていたということですね。この「コドモノクニ」執筆者たちを見ると、大正ロマンと称せられる当時のそうそうたる面々であり、武井さんの文化人たちとのかかわりの深さを垣間見ることができます。これらの人々との思い出などを聞かせてください。

写真11:大正ロマンティシズムの旗手たち

大正ロマンティシズムの旗手たち

 武井 この写真は、和田さんが子どもをなくして悲しんでおられたので、慰める会をしようと「コドモノクニ」の執筆者を僕と岡本帰一とが集めたときのものです。やはり、「コドモノクニ」に執筆していたという関係で知り合った人、親しかった人が多いですね。-「コドモノクニ」の会合が年2回くらいあったものですから。
 ちょうど、僕の刊本作品の「親類通信」という小冊子に「思い出の人々」と称し、その思い出を書いていますが、ほとんど故人になっています。
写真12:武雄が記した写真の顔ぶれの名前

武雄が記した写真の顔ぶれの名前

 野口雨情は、その作風のとおり、とても素朴な風体で、もちろん靴を履いていたのだと思うが、どうしても板草履を履いていたような気がして困ります。それほど、村役場の小使いさんといった感じでした。会合の席で自作の詩に節をつけてよく朗唱するのが癖でして、それは朗読でもなく作曲でもなく独自の芸で、これは雨情節と呼ばれたもんです。
 中山晋平は信州中野の人でね、情報局の命令で一緒に東北地方へ講演に行ったこともあり、僕の童謡を四つ作曲しています。
 小川未明も同行して、いつもなぜか泊まりは同室で、大イビキに悩まされたものです。
 北原白秋については、-僕は、童画を初めて描きだすときに、どうせ童画を描くなら白秋のものに描くような身分になりたいと言っていたんです。そしたら、その数か月後に、白秋の”花咲爺さん”という童謡集の装幀から絵をたのまれて、わりに早く白秋のものを描くようになったわけです。
 もう一つは、僕は郷土玩具を蒐集していて、その陳列館(自宅の庭に-当時池袋)を作ったんです。それで白秋の家に行って名前を付けてもらったわけですが、当時、白秋は”鴎(かもめ)の塔”という童謡集をつくっていた時だったから、「塔という字が好きだから、じゃあ”蛍の塔”にしよう」と名前を付けてもらったんです。そして、人形のような形に作った看板に書いてもらって、それを蛍の塔の入り口にずっと掛けておいたんですが、結局、戦火でみんな焼いちゃったんですけどね。
 僕は、その時、感激しちゃったんですよ。当時、白秋といえば有名で大家なんですが、こんな偉い人が”蛍の塔”という字を書くのに、半紙十何枚もに下書きをして、それからやっと本物の板に書いたんですよ。僕なんか頼まれると、ぶっつけに書いちゃうんですがね。白秋のそれには感激、なるほど偉いもんだと思ったものです。

  思い出の人々─────────────武井武雄

▶西條八十 大正期児童文化に貢献した著名な作家の中で一番あとまで延命していた人である。一時期池袋の自分の家の近くに住んでたことがある。ちょうど唄を忘れたカナリアが流行していた頃で、童謡作家として急に名を知られたのもこの頃である。しかし、自分は全く面識もなく遠い雲の上の人に過ぎなかった。
 後年知り合いになってからいろいろとこの人のドンファンぶりを聞かされた。まず、校歌は絶対に作らないこと。その理由は、自分はいつ心中するかわからないので、その時せっかく歌いなれた校歌を廃止するというのも気の毒だから初めから作らないのだという。それから、自分が死んだら棺の内側に今までたまっているラヴレターを貼りつめてもらうのだという。さて、これは故人の遺志どおりに実現されたかどうか、ついぞ聞いたこともない。
 小学館の文学賞と絵画賞の審査は、毎年湯本へ行って行われていたが、この往復の小田急の車中で、ちょうど刊本作品を2、3冊持っていたので、「この中の詞文は全くのトウシロウの出鱈目だから笑っちゃ駄目ですよ」と言って見せたところ、「いや出鱈目どころじゃない。これは立派な詩ですよ」という。「あんたが詩だという折り紙をつけてくれるなら、少し自信をつけることにするかな」と言って笑ったことがある。

▶竹久夢二 中学生の自分にまず開眼の端緒を与えてくれたのが夢二画集の春の巻だったという事、夢二という名の存在はそれ以来の事である。自分が中学校を終わって美校の受験生として東京へ出てきた頃、夢二は東京駅の近くのあたりに、「みなとや」という小さな店を出していた。夢二とは一体どんな男なのか、探訪のために紺絣(こんかすり)に袴をはいた自分はわざわざ見に行ったものだ。
 それは夢二の自作になる木版刷りの紙製品で、便箋、栞、封筒、千代紙等、店頭にはたまきさんとおぼしき女性が番をしているだけで、肝心の夢二は影も形もなかった。これは少しねばってみようと思って待っていると、二階からバーバリコートの上から革ベルトをしめたむくつけき大男がのっしのっしと降りてきた。夢二とはその画のような優男ではなくて荒削りのむしろむくつけき男だったのだ。
 中沢臨川という評論家の説によると作家は自分の性格や体質にないものを希求するもので、その欲求が芸となって現れる。これを二元性の神秘という、となっている。東西の著名な作品について、いちいちその例をあげているのである。なるほど、夢二もその二元性の神秘かとその時感じたのであった。
 後年、ある会合の席で紹介されて初めて直接に会ったのだが、この時彼はすぐに息子を呼んで紹介した。自分はコドモノクニなどで既に知られていたので、むしろその読者である子供に紹介したのだろう。
 考えてみると、画と詞文とを併合して一つの作品を作る刊本作品の構成法と全く同じような事を夢二は既にやっていたわけで、その形式に関する限り彼は先輩といっていいのだが、しかし、本の美術を追求するという根本の考え方は彼にはなかったようである。池袋に”なるとや”という婦人服の生地店があって、そこのかみさんが夢二の命日には必ず花を持って墓参に来ていた。一面識もないただのファンである。