武井武雄をあいする会

童画家武井武雄が妖精ミトと遊んだ創作活動の原点である生家。取り壊し方針の撤回と保育園との併存・活用を岡谷市に求めています

武井武雄画伯から土地を無償で譲り受けてできた西堀保育園

2013年06月01日 12時57分30秒 | 生家の価値
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

西堀夜話補記(武井雨雪口述)より


 第二次世界大戦の平和条約成立後、日本の経済上の発展は驚くべきものがありました。諏訪湖北地方もこの例に漏れず、湖辺と山麓一帯は大小の工場におおわれ、したがって交通事故の頻発と不良少年の発生が最も恐ろしい事件になっていました。西堀の幼童のために保育園を設置することが私の悲願となっていました。しかし、猛運動を起こそうにも、その土地がなければ市当局に設置の要請はまったく不可能で、また、仮に適地があったとしても目下の西堀の財政ではその買い上げに耐えられない状況でした。
 そこで、私は、同志と相談し、西堀八幡宮続き南方の武井武雄画伯家所有の土地を、無償で西堀区へ贈与していただき、もって保育園設置の目的を遂げたいと決意しました。画伯邸の屋敷続きで四五百坪ある貴重な土地を無償でいただこうなどというのは、余りに虫のよすぎる話。されど、私は、画伯のご人格の高さに信拠し、また、玉砕を覚悟して嘆願に及ぶべく決意しました。
 昭和38年(1963年)9月25日、画伯のご帰省を知り、西堀区惣代 武井兼雄、氏子惣代 武井 篤、同 青木 等、武井家土地管理者 小口槇人、小口吉雄、小口一男の諸氏とともにお屋敷を訪ねて懇請したところ、先生は微笑して「それは、僕が先に申し出すべきであった。喜んで西堀へ寄進する。小作が面倒を言うかも知れないが、皆さんのお骨折りをお願いする。児童の養護育成こそ、僕の最大の念願です。」と言われました。
 一同は、感激して退去しました。ちなみに私は、数日後、小作者の一人、高林徳治君を訪れ、小作権提供をお願いしました。同君は、即座に私の提案を入れ、進んで承諾されました。同君に深甚の敬意を表します。
 武雄先生が日本版画界の最高権威なるはしばらくおき、童画の啓発者、その最高峰として先年国家より顕彰されましたが、これは、武雄先生が児童の本能と心理に通じていて、子どもたちの趣味嗜好が画伯の作品に誘導されるのは、その根底に無限の児童愛を湛えておられる、そうした崇高の芸術に基づくことによるものだと思われます。二代も、三代も、西堀文化の根を培養された武井家に武雄先生が生まれたのは偶然ではないでしょう。

※ 武井雨雪 本名は武井伊平。明治18年西堀生まれ。諏訪中学卒業後、高島小学校の代用教員となり、その後資格を取って、大正5年から諏訪高等女学校の教諭となった。同校にいた土屋文明や島木赤彦と交流があった。昭和29年6月、夏草会諏訪支部を創設し、広円寺で月一回の句会を開いた。広円寺参道右側に「御射山の夜は淋しと花野守」の句碑がある。昭和50年逝去。

西堀区編「にしぼり(区誌文集)」(平成9年)より

武井武雄についての講演会のご案内

2013年06月01日 12時47分16秒 | お知らせ
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金


 ろばたの会(岡谷郷土史の会 主宰:樋口今朝人氏)による「武井武雄についての講演会」が下記のとおり開催されます。



1 日 時  平成25年6月14日(金) 午後1時30分から3時まで

2 場 所  イルフプラザカルチャーセンター 3F 第7研修室

3 演 題  武井武雄の人とその作品 ~映像を交えての講座~

4 講 師  イルフ童画館長

5 その他  参加を希望される方は、小口基實代表(080-3732-3069)までご連絡ください。 

無事庵

2013年06月01日 12時21分01秒 | 生家の価値
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

 江戸時代末期、西堀の修養機関として、寺子屋があり「無事庵」(童画家 武井武雄は「蕪耳菴」と書いた)といった。
 その師匠、すなわちこれを始めた人は武井三十郎(武雄の曽祖父)さんで、明治になってからは、この後継者の武井一三(武雄の祖父)さんが師匠になった。当時の西堀の子どもたちは、たいていここで学んでいて、「ご師匠さまへ行ってくる。」「武井さまへ行ってくる。」「お屋敷へ行ってくる。」などと言って出かけていた。
 それが、明治7年(1874年)になると寺子屋的教育を一切やめ、明治9年(1876年)の学制発布で武井一三氏は学事係になり、無事庵塾は無事学校になった。場所も、それまでの武井の家から広円寺に移し、ここで無事学校を始めた。
 その頃、一三氏は1か月に二両給料をもらっていたという。当時、学校の資金として西堀が出していたのが160円。近在の村でも大きい村では、300円も400円も出していたところがあったが、西堀としては160円というのは大きな金であった。他の村にはないもので、学田というのが二反十七坪(約20アール)ついていて、そこからあがる米の年貢を学校の費用としていた。
 明治4年、無事庵が寺子屋だった頃、断髪令が出た。無事庵へ行って学んでいた人の話では、武井一三さんがまず自分から先に、子どもたちの見ている前で髷を切り落として見せた。その頃は、髷を切ることをみな嫌がって、すすんで切った子もあったが、なかには泣いて帰った子もあったという。そんな時代に、自分から範を示したところに武井一三さんの偉いところがあった。
 やがてこの人は、西堀の戸長となり、平野村の戸長となった。戸長とは、今でいう村長のことである。

西堀区編「にしぼり(区誌文集)」(平成9年)より

高島藩の職制と藩譜私集にみる武井家の位置づけ

2013年06月01日 09時12分59秒 | 資料
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金


長野県史 通史編第4巻 253頁



【藩譜私集】

●姓 武井 郷右衛門

○某 郷右衛門 仕于武田晴信

 某 郷右衛門
   奉仕永明公賜御合刀米住西堀郷頼岳公御代有命常登城及老年登城難成旨言上之処大手御門乗馬乗駕御免被仰付旨賜御手印

 武富(武萬) 長五郎
   寛保二壬戌五月十九日被付去年中より病気之所此未永引可申旨且弟一人有之候得共幼年其上病身有之付同姓之内西堀村百姓三右衛門忰郷右衛門儀養子仕度由願之通養子被仰付候以上同年同月病卒

 武隅 郷右衛門
   寛保二壬戊七月同姓長五郎末期願之通今度被召出御中小性勤被仰付候順次第勤番可参候

 武啓 平兵衛 三右衛門
   安永四未年7月被召出一人扶持表御番。天明二寅十一月御引替御中小性。文化十一甲戌十一月病卒

 武雄 郷右衛門
   享和元辛酉十月被召出表御番壹人扶持。文化九壬申二月病卒。不継於家。

 武憲 房太郎 三右衛門
   実者下諏方郷武井。文化十一戌十二月養父三右衛門病中願置候通御引替然ル處年倍ヨリ未小柄ニ相見江戸勤番難被仰付此上勤番被仰付候迄給米廿俵表御番。文政五午五月御中小性並御給米同九戌年三月御小性。天保十二丑九月廿一日御納戸五俵御加増御納戸之節坐席林都左衛門次。(弘化四未四月御休息處御用掛。)嘉永五子八月三日御近習(御近習之節坐席前田亨亮次。)安政四巳十一月廿六日御取次御使番被仰付文久三亥八月朔日病死。

 武善 三十郎 三右衛門
   実者武 男。天保九戌壬四月為兄養子同五月十二日被召出表御番一人扶持。(嘉永七寅正月廿四日御軍法取調掛。)安政二卯三月廿日御中小性並御給米被成下。(安政二卯七月廿一日為勤番出府同三辰二月帰着。文久元酉三月為勤番出府九月四日帰着文久四子二月廿七日勤番出府十一月廿二日帰着)慶應三卯九月六日奉願之通御休行年五十六歳

 武成 作之進 改一三
   文久三亥四月朔日被召出表御番賜一人扶持被下置同四子九月十日勤番加詰被仰付出府同十一月廿八日浮浪者御領分立入候故御返被仰付之。元治二丑七月七日居次為勤番出府同年十一月晦日帰着。慶應三卯九月六日御引替御中小性十一月加詰勤番同四辰三月十九日上方様御供着九月十六日信州路騒動追分宿迄出兵十月六日帰着。明治二巳二月士令司嚮導被仰付十一月十五日兵隊被命同三午九月廿七日賜拾五石二斗

 武克 善次郎 勇
   武井三右衛門男。武憲三十郎武善養弟実甥。(亡父三右衛門存命内申達候訳モ有之御書付別記之母郷右衛門武憲女)慶應二寅十月十七日献金三百両仕其上槍術剣術稽古印可迄伝授相済候ニ付被召出並御給米被下置御中小性勤被仰付候同三寅正月勤番出府同年八月帰着同四辰二月十九日為京都詰出府七月三日帰着。明治二巳十一月十五日兵隊被命同三午九月廿七日賜拾五石二斗。


 藩譜私集は、諏訪藩士鵜飼傳右衛門盈進により記録されたもので、諏訪藩200余家の家譜を集成して23巻に収めたものである。努めて正確の史実に基づき筆を採り、世に往々に見るところの家名を誇るために偽作した家系集とは趣を異にしているとされている。