Takahiko Shirai Blog

記録「白井喬彦」

古い創作詩 「キャラバン」

2005-04-30 08:04:22 | 文学
中東の沙漠の中で仕事をしていた若い頃を思い出して創作した詩です。


「キャラバン」の文字をクリックしてください



空は青みを増し、
星影が溶解していく。
私は広場を過(よぎ)り、
城門にひとり佇む。

私は思いを巡らす、
この街での日々のことを。
そして、この豊かなオアシス都市を後にし、
次の地を目指す
今日一日の行程のことを。

一頭の駱駝。
僅かな積荷。
私自身の肉体。
それだけを従える
ささやかなキャラバン。

あ、空が燃え始めた。
色彩が変化していく。
虚無空間を支配する両王、
その大気と砂粒が燃え上がった。
砂漠の二界に充満していく光。
真紅に彩られた無人の王国。

その時、
古(いにしえ)のペルシャ詩人、
あのオマルがたたえたように、
光の投げ縄がするすると伸び、
ミナレットの先端を捕らえた。
出発の時刻((とき)がきた。

私は歩む、
流動する砂の斜面を。
風が越えていく。
風紋が一瞬生じ、消え失せる。
聴覚器官の最底部を響かせる連続音。
あらゆる砂粒がせめぎあっているのだ。

そして、砂丘の頂に立てば、
遥か地平まで白く輝いて連なる
無数のサンド・デューン。
それらを越えて、
無事辿りつけるであろうか。
次なるオアシスの地。
男達が集いさざめくタバン。
冷たい風が吹き込んでくる心地よいサライに、
無事身を横たえることができるだろうか。

私は歩み続ける、
流動する砂の斜面を。
風が越えていく。
サボテンが赤い花をつけている。
風紋が一瞬生じ、消え失せる。
連続音が聴覚器官を響かせている。
あらゆる砂粒がせめぎあっている。

私は夢見る、
次なるオアシスのことを。
人々の声が聞こえる。
低音のリフレーン。
あ、子供達の声も聞こえる。
彼らは温かく迎えてくれるだろうか。
風が越えていく。
連続音が聴覚器官を響かせている。
私は歩み続ける、
流動する砂の斜面を。

頭上の太陽が身を焼き続ける。
風が容赦なく水分を奪っていく。
体力が消耗していく。
私は夢見る、
次なるオアシスのことを。
人々の声が再び聞こえる・・・

彼らは温かく迎えてくれるだろうか。
冷たい水がたっぷりと入ったポットを、
快く出してくれるだろうか。
棗椰子林から涼風が吹き込む
小さなサライのベッドの上で、
今宵の眠りをとれるだろうか。

私は歩み続ける、
流動する砂の斜面を。
風が越えていく。
風紋が一瞬生じ、
そして、一瞬にして消え失せる。

国共両党の1919~1949年

2005-04-30 05:37:20 | 国際
次に掲げるのは、サーチナ社(中国情報局)で中国版企業情報誌「中国企業情報」(中経出版刊)の編集を担当している有田直矢氏による「1919~1949年の中国国民党・中国共産党史」の解説(概観)である。

有田氏は南京大学の大学院を卒業した中国人で、2000年にサーチナ社に入社。個人がやっていた中国情報専門のポータルサイトを企業化して、サーチナ社を立ち上げた中国留学生グループのひとりである。

中国で高等教育を受けた有田直矢氏のような若い人が「中台関係の現代史」をどのように記述するかは極めて興味のあるところだ。

その彼は冒頭から、「国民党は1919年、孫文が既存の革命党を拡大再編して組織された。1912年、中華民国が成立して、孫文は臨時大総統となったが、その在位はわずか数ヵ月、いわゆる軍閥勢力に政権をのっとられる形になった。武力がなく無力を痛感した孫文及びその同志は、政権中枢の北京など北方を避け、広東など南方で、革命党を中心とした軍事力の育成に専念、そうしてできたのが国民党だ」と記述する。

中国共産党が設立されたのは1919年か1920年のことだから、それ以前の中国国民党の歴史を抹殺しているといえよう。国民党の前身である中国同盟会は1905年東京で設立された。だから、私たち日本人は孫文に何がしか親しみのようなものを感じるのだ。だが、清朝の下では当然非合法であり、1911年10月10日の武昌蜂起の成功により清朝宣統帝溥儀が退位した後の1912年3月、国民党は新しい首都南京で公開政党となったのである。

一方、中国共産党の創立は、ロシア革命(1917)の思想的影響と五・四運動(1919)の体験を通じ、急進的知識人の間にマルクス主義への関心が高まり、1920年春以降、コミンテルンの支援を受け、陳独秀,李大らが中心となって結党の準備が進められたのだそうだ。

辛亥革命に関与したか(国民党)、しなかったか(共産党)、このことは両政党にとって大きな意味を持っているのではなかろうか。この点における国民党の輝かしい功績について、現在の共産党は歴史認識の上でどこまで否定するのだろうか。そのあたりは日本に対する歴史認識とどう違っているのか。

孫文亡き後、権力を握った蒋介石による共産党への弾圧と粛清、北伐軍の北進と共産党の江作活動、そしてその過程で中国問題に巻き込まれていく日本の姿なども活写して欲しい。読者は日本人だし、日本という存在を無視した中台関係現代史などあり得ないのではないか。

蒋介石と毛沢東のふたりが重慶で1945年8月29日から10月10日まで、内戦の回避、国共合作による新中国建設などについて話し合って合意に達した「双十協定」などにも触れて欲しかった。

もうひとつ言うなら、遼瀋、淮海、平津の三大戦役などの具体的戦況経過などをも含めて、日本人があまり知らない国共内戦について詳しく解説してくれるとありがたい。当時、トルーマン大統領の政権だったアメリカは国共内戦になぜ武力介入しなかったのか。1950年に勃発した朝鮮戦争の場合とくらべてみたとき、同じ政権がやったこととは思えない。このことは私にとっては長年の疑問でもある。

下に掲げた有田直矢氏の解説とは別に、次にリンクを掲げた「「小龍」の現代史」は、「台湾」という”国家”の成り立ちを知る上で一読に値する。これは愛知学泉大学教授小林幹夫氏が書かれた論文であるが、愛知学泉大学のサイトでは現在読みづらい状態なのでここに採録させていただいた。

ここには、危うく蒋家による独裁国に陥りかけていた台湾が、偶然ともいえるような契機で蒋家の支配から脱したかその詳細が語られている。こういうどろどろとした歴史を背負った中国国民党と、これにも増した血みどろの歴史を背負う中国共産党に歩み寄りの余地はあるのか?

というよりも、この両政党にはどのような未来展望があるのだろうか。


「小龍」の現代史



中国情報局(中国論壇)

1919-49年の国共両党、トップ会談前に概観

60年ぶりの国共両党会談、80年関係史に転換点


有田直矢

2005年4月20日 19:01:53

中国国民党の連戦主席が中国大陸を訪問することが、正式発表されたことを受け、中国でも関心が高まっている。4月29日には、中国共産党の胡錦涛総書記と会談が実現する。これは、1945年、日本の敗戦とともに国共談判と国共内戦が繰り返され、1949年には、共産党が中国大陸に政権を樹立、国民党が台湾に移ってから、ほぼ60年ぶりの国共首脳による会談となる。

訪中する連戦主席は27日に南京入りする。中華民国時代、国民党による政府は南京を首都として定めていたことのほか、中山陵(国民党の創設者の1人である孫文の霊廟)を参拝するのが重要な任務。1949年以来、国民党のトップが中山陵を参拝するのは当然初めてのこと。

国民党は1919年、孫文が既存の革命党を拡大再編して組織された。1912年、中華民国が成立して、孫文は臨時大総統となったが、その在位はわずか数カ月、いわゆる軍閥勢力に政権をのっとられる形になった。武力がなく無力を痛感した孫文及びその同志は、政権中枢の北京など北方を避け、広東など南方で、革命党を中心とした軍事力の育成に専念、そうしてできたのが国民党だ。

1917年から始まったロシア革命及びソビエト連邦成立などの強い影響を受けて、1921年、 中国共産党が組織された。創設当時は弱小だった中国共産党は、コミンテルン(第三インターナショナル)の指示などもあって、当時すでに相応の勢力となっていた孫文の国民党と接近する。コミンテルンは国民党に対しても、共産党との合作に対する工作を行った。

共産党との合作に賛成し、強力に進めた孫文は、1924年、国民党の初めての全国代表大会を開催、この大会を通じて、反対勢力も根強かったものの、共産党との合作を実現した。しかし、その孫文も、革命半ばにして、翌年1925年北京で客死する。孫文の死後、協力関係にあった国民党と共産党の関係は微妙なものとなり、共産党に反対する国民党の右派勢力を中心として、1927年には合作が解消、敵対関係に突入する。

1930年代前半、日本の中国侵略が着々と進む一方で、国民党の主導権を握った蒋介石は、共産党に対して執拗に弾圧、大規模な掃討戦を5度繰り返したものの、これを消滅させることはできず、むしろ、いわゆる「長征」で、共産党は陝西省・延安に移動、国民党への抵抗を続け、さらに抗日戦を準備した。この1935年の「長征」を経て、共産党は鍛えられると同時に、毛沢東による軍事権の掌握が行われた。

1936年12月、蒋介石が盟友とも思われていた張学良に拘禁される事件が発生。いわゆる「西安事件」だ。張学良は、蒋介石に対して、共産党との和解と抗日を要求した。この事件は、蒋介石が解放されることで、何とか解決したが、1937年以降、蒋介石はじめ、国民党主力は共産党との合作と抗日に傾きかける。そうした中で、同年7月7日、北京市郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突、日中戦争が始まった。

開戦後2カ月ほどで、国民党と共産党は抗日のための再度の合作を実現、いわゆる第二次国共合作である。日本の侵略に対抗するという統一の目標があり、この合作も表面上、うまくいったかに見えたが、日本が敗戦を迎える以前に、すでに国共両党の確執は露見していた。1945年終戦後、国共両党が分裂するのは予想されていたことだった。

その背景には、共産党は当然ソ連との関係があり、国民党はアメリカ寄りで、終戦間際から直後の冷戦構造の確立の、中国における代理戦のような様相を呈していたこともある。1945年以降1949年まで、国共両党は何回か談判を繰り返し、そのたびに決裂し、内戦状態が続くことになった。

アメリカの援助もあり、最先端の軍備を備え、兵力も圧倒的だった国民党が、装備も旧式で、兵力も少ない共産党を壊滅させるのは当然だと思われていたが、国民党の優勢は内戦当初だけに終わり、戦局は、徐々に共産党優位に推移、1949年に入ると体制は決まった。同年10月、共産党の毛沢東が北京で中華人民共和国建国を宣言、それから遅れること2カ月、蒋介石率いる国民党が台湾に移ることになった。

この1949年以来、現在に至るまで、国共両党及びその周辺は、全く接触がなかったわけではなく、時には緊張し、時には接近し、いわゆる現在までに続く東アジアのバルカン的な問題とも言うべき「台湾問題」を形成してきた。

「台湾問題」というと緊張ばかりを連想させるが、中国大陸と台湾の間では、「三通」の実現、あるいは直行チャーター便の特例的開通などの動きも見せ、特に台湾在住の人々の中国大陸渡航は現在までにそれほど難しいことではなくなっているなど、お互いの歩み寄りという側面もなくはない。

国民党はすでに台湾の執政党という地位から陥落している。また、あるいは国民党が政権から退いたこともあって、「台湾問題」は現在、さらに複雑さを増している。いろいろな状況を考えれば、今回の国共両党の首脳会談は、決して予期できないことではなかったし、今回の会談で、中国と台湾の関係が実質的な大きな変化が期待できるというわけではないかもしれないが、今までの歴史、少なくとも国民党設立後80年以上にわたる国共関係史においては、非常に画期的な意義のあるものとなりそうだ。

連戦 胡錦涛 会談

2005-04-30 05:03:04 | 国際
連戦・国民党主席の訪中はもちろん、「反国家分裂法」からひしひしと感じられる台湾の危機感から実現されたものだ。この危機感が彼の背を後押したのは間違いない。だが、当然のことながら、中国政府側からも何らかの働きかけがあったであろう。

今年3月末、北京を訪れた江丙坤・国民党副主席と、賈慶林・全国政治協商会議主席(中国の序列4位)が会談した。このときの話し合いで連戦・国民党主席の大陸訪問が決ったが、連戦・胡錦涛会談で何を合意すればよいかも議論され、両者間に何らかの合意があったはずだ。その合意とは何であったか?

連戦・胡錦涛会談における連戦発言を読むと、「胡・総書記が1-2ヵ月前に言及した平和の呼びかけ」とあるので、今年に入ってから胡錦涛が台湾に向けて何らかの呼びかけをしていたらしい。だが、私はそのニュースを見過ごしていた。

胡錦涛の「呼びかけ」とはどんな内容のものであったか、それは胡錦涛と連戦の今回の発言内容から読み取ることができる。胡錦涛発言の中では「92共識」と表現され、連戦発言の中では「一中各表」と表現されているのがそれだろう。

そして、1992年、中国・台湾両国のの準政府機関(海峡交流基金会(台湾)、海峡両岸関係協会(中国))の間でおこなわれた香港会談で合意されたこの「共通認識」は、その後、今日に至るまでずっと棚上げされてきた。1996年3月おこなわれた初の総統直接選挙で李登輝が大勝し、大陸と台湾は特殊な国と国の関係とする「二国論」が強まる中で、この「共通認識」という両国間合意の出番は喪われたのである。

結局のところ、胡錦涛は中台関係を李登輝以前にまで引き戻したいのであろうか。もちろん、国民党自身も中台関係を李登輝以前に引き戻したいと考えているのは間違いない。


中国情報局
国民党・共産党トップ、60年ぶりの会談が実現
発信:2005/04/29(金) 16:52:54

中国を訪問している連戦・中国国民党主席が29日現地時間16時から、北京にある人民大会堂で胡錦涛・中国共産党総書記(国家主席)と会談した。国民党と中国共産党のトップが対面したのは、60年ぶりとなる。

胡・総書記は「朋(とも)あり遠方より来たる。また、楽しからずや」という論語の一節を引用して、連・主席に歓迎の意を表明した。また、大陸と台湾のいわゆる両岸問題に関しては、関係を発展させる決意と誠意を持っていると強調した。

写真左が国民党の連戦・主席、右が共産党の胡錦涛・総書記。(編集担当:如月隼人)




胡錦涛・連戦会談に至る中台関係最新ニュース




中国情報局 発信:2005/04/29(金) 18:09:27

胡錦涛総書記発言(全文)


胡錦涛・中国共産党総書記(国家主席)と連戦・中国国民党主席が29日15時(現地時間。日本時間は16時)から約30分にわたって北京にある人民大会堂で会談した。共産党と国民党のトップが対面したのは60年ぶりとなる。

この会談は対談ではなく、最初に胡錦涛・総書記が、次に連戦・主席が発言するという形式をとった。その内容はすべてマスコミに公開された。胡・総書記の発言は以下のとおり。



尊敬する連戦・主席と御夫人、尊敬する呉伯雄・副主席、中国国民党の江丙坤・副主席、尊敬する国民党大陸訪問団のみなさん。こんにちは。

四月の北京は春に沸き立ち、このすばらしい春に、我々は中国国民党主席の連戦先生率いる国民党大陸訪問団をお迎えいたしました。本日の会見は、両党のリーダーによる歴史的会見であり、私は非常にうれしく思っています。まず、私は中国共産党中央を代表して、連・主席と御夫人、副主席各位、訪問団全員のみなさんを熱烈に歓迎もうしあげ、お祝いしたいと思います。

「朋(とも)あり遠方より来たる。また、楽しからずや」と申します。あなた方がいらっしゃったということは、中国共産党と中国国民党の歴史にとって、一大事件です。また、両岸関係の中でも一大事件です。

あなたがたが大陸にその一歩を踏み出したときから、両党は歴史的な一歩を踏み出したのです。この一歩は、両党の往来の歴史が新しい発展の段階に入ったということを意味します。それと同時に、両党が両岸関係の発展について決意と誠意をもって取り組んでいこうという、共通の意思をあらわします。我々が共同でこの一歩を踏み出したということは、両岸関係の発展を示す歴史書に、必ずや記載されるでしょう。

現在、両岸の同胞は、両岸の関係が平和、安定、発展という明るい方向に進んでいくことを願っています。我々はいくたびも「九二共識」という共通認識を持つことを歓迎し、台湾独立に反対し、両岸の関係の発展を主張する台湾の各政党、団体、代表的人士が我々と対話をし、共同で両岸関係の改善と発展を推し進めることを歓迎してきました。

昨日、全国政治協商委員会の賈慶林・主席と連戦・主席および代表団のメンバーの皆様はすばらしい会見をいたしました。また、陳雲林・主任と林豊正・秘書長は作業会議を行いました。そして、そのすぐ後に私と連・主席が意見の交換をすることになったわけです。

両岸関係の発展と両党の往来などの問題に関して、我々は必ず重要な共通の認識を得ることができると考えています。

我々両党の間には、まだいくつかの違いがありますが、我々が中華民族の根本的利益を重んじ、両岸の同胞の福利を重んじれば、必ずや「異」の中に「同」を求め、共同ですばらしい未来を創造することができるはずです。

今年は孫中山(孫文)先生の逝去80周年にあたります。連・主席と訪問団は南京の中山陵に詣でました。

孫中山先生は偉大なる愛国主義者であり、民族の英雄でした。そして、中国民族革命の偉大なるパイオニアでした。孫先生は民族独立、民主自由、民生幸福そして国家の統一と豊かさと強さを達成しようと、一生をかけて尽力しました。

全国の各民族とすべての愛国人士に、孫先生に対する崇高なる信望がありました。中国共産党も一貫して孫先生に崇高な敬意をはらっており、従来から孫中山先生の革命の支持者であり協力者であり継承者であったのです。

孫先生も中国共産党を、自分自身のよき友であであるとしていました。孫先生がまず唱えた「振興中華」のスローガンは、我々両岸の中国人に共通する目標であり責任でありつづけているのです。

孫中山先生は、中華民族及び中国人のために多くの貴重な精神的遺産を残してくださいました。この遺産は、我々が永久に継承し、発揚させていく価値のあるものです。

現在、両岸の形勢は複雑に変化しつつあります。両党は両岸の同胞の求めることを深く実感する必要があり、両岸関係と世界の大局の発展の趨勢を深く把握する必要があり、我々自身の積極的な働きが、両岸関係の平和と安定と発展という将来もたらすということを、両岸の同胞に占めさなければならないのです。

中国人は世界に対して、中国人は彼我の矛盾と問題を解決する能力と知恵があり、共同で両岸関係の平和と安定と発展という将来像を勝ち取り、共同で中華民族の偉大なる創造していうことを、示さなければならないのです。

このたびの国民党の大陸訪問及び両党の交流と対話は、両岸関係の改善に春の息吹をもたらすものだと信じます。双方の協力により、両岸関係を和平と安定と発展という方向に前進させていくことを希望します。

両岸の同胞がともに、和平と発展という道筋にそって絶え間なく開拓をすすめ前進しえtいきますように。連・主席と御一同には、私の歓迎の辞をお聞きいただいたことに心からの御礼を申し上げます。ありがとうございました。(編集担当:如月隼人)


中国情報局 発信:2005/04/29(金) 19:54:18

連戦主席発言(全文)


胡錦涛・中国共産党総書記(国家主席)と連戦・中国国民党主席が29日15時(現地時間。日本時間は16時)から約30分にわたって北京にある人民大会堂で会談した。共産党と国民党のトップが対面したのは60年ぶりとなる。

この会談は対談ではなく、最初に胡錦涛・総書記が、次に連戦・主席が発言するという形式をとった。その内容はすべてマスコミに公開された。連戦・主席の発言は以下のとおり。



胡・総書記、紳士ならびに淑女の皆さん。本日、私自身と妻、そして中国国民党の3人の副主席と多くの友を率いて、全員で胡・総書記の招聘をお受けして大陸を訪問することができました。北京、南京、西安、上海への訪問です。私はまず、この場で心の底からの感謝を申し上げます。

ここ数日、仕事にかかわるすべての皆さんに、力を尽くし、心を尽くしていただきました。我々の旅程は非常に順調であり非常に愉快なものでありました。彼らに対して、とくに感謝を申し上げたいと思います。

先ほど総書記がおっしゃったように、本日国民党と共産党が一堂に会したということは、60年ぶりの出来事です。両岸に分かれてから56年に行われた両党の意見交換の中でも、最高レベルのものです。大変に貴重なものなのです。

私は率直に申し上げたいと思います。この道のりは、決して容易なものではありませんでした。言葉を変えるなら、台北から北京へ、台北から南京への道のりは遠くはありません。しかし、歴史の辛酸により、本日の会見に至るまで、我々は紆余曲折を経なければなりませんでした。そのため、私は会うのが遅すぎたという気持ちすら感じているのです。

もちろん、中国国民党と中国共産党は過去において激突したということがあります。我々はすべて、その歴史的過程を知っています。ただし、歴史というのは、すでに過去のことなのです。我々は、その時、その時刻にもどって歴史を変えることはできません。ただし、未来というものは、我々の手の中にあるのです。

もちろん、歴史の過程というものは平坦なものではありえません。ただし、この不確定な時代、不確実な未来というものは、我々に多くの機会を与えます。我々はそれらにすべて勇敢に立ち向かい、未来を迎える主導的な立場にあるという理念で、未来を追及するのです。「去るものは求めず、来るものを追い求める」ということなのです。

今日私が切実な期待を胸に抱き、この場に来ることができ、総書記とみずからお会いして、皆さんと意見を交したということは、そういうことなのです。

これは私自身の考えですが、今日の両岸の形勢に関しては、我々が非常に遺憾に思うことがあります。というのは、皆さんがご存知のように、1992年に双方が努力をし、不眠不休で昼も夜もなく努力を重ねた結果、やっと打ち立てた基本的な共通認識があるわけです

この共通認識を基礎に、我々は1993年に辜振甫先生と汪道涵先生の会談を進め、40年来の膠着した局面を打破しました。

両岸の人々はそろって喝采しました。そして、未来に対する希望が満ちあふれました。私は当時、行政にたずさわっていましたが、私自身と国民党が堅持する考えを現実的なものにするために、私も全力で協力しました。辜・汪両先生の会談の後、両岸関係は約8年間にわたり、非常に安定して、発展的で密接な交流が実現し、事態は正しい方向へと発展していったのです

しかし遺憾ながら、このところ10年間に発生した事態は、だれもが承知しているように、我々が築き上げた進歩の過程から離れ、大きく挫折してしまったのです。

ただし、私は同時に非常に喜ばしいことも感じています。それはすなわち、胡・総書記が1-2カ月前に言及した平和の呼びかけが、平和への希望が、我々に対して正面を向く思考の方向を与えてくれたことです

本日、私個人は国民党の主席でありますが、同時に一人の人間として、感情をたずさえ、平和への期待をたずさえ、同時に民族のひとりとしてこの地にやってきたわけです。

私は、我々がここに来たことにはいくつかの意義があったと思います。ここで、皆さんにご報告しましょう。まず、50年あるいは60年前の国共間の関係、思考方式、構造をもって問題を考え、私の訪問を思考する人がいます。しかし、私は、我々はすでにあの時代とあの構造をはるかに超越したのです。

本日、総書記が語られたように、我々は善意から出発し、信頼をもって基盤とし、両岸人民の幸福をもって到達点とし、民族の長期にわたる利益を目標にするのです。

私はこういった基盤の上に立ち、絶対に対峙や対抗してはならない、まして衝突してはならないと信じます。必要なのは和解であり、対話であるのです。

我々は和解や対話といったやりかたは、民意を基礎とし、民意の力によるものだと信じます。これに関しては、いちいち多くのデータを示してみなさんをわずらわせる必要もないでしょう。

次に、平和は皆が望むことでありますが、平和というものは、道筋があり、到達のための構造があるということです。

構造とはなんでしょうか。国民党と中国共産党は、1992年に非常に苦労をして一つの平和への道筋である「一中各表(一つの中国をそれぞれが表現している)」という基礎に到達することができました。もちろん、不幸なことにここ数年、この基礎が曲解され捻じ曲げられ、別の意味を持つようになってしまったということは、皆さんがご存知のとおりです。

しかし、我々国民党には何の変化もありません。我々も、この基礎の上に、両岸の明るい未来の情景を構築していきたいのです。

さらに、私はこの機会をお借りして、特に指摘をさせていただきたいと思うのですが、このたびの訪問は国民党として非常に得がたい契機でした。このようなすばらしい契機に恵まれたのです。現在こそ、我々は現状を把握し、共に未来を創造していくために、過去の歴史を総括することができる契機なのです。

したがって、こういった理念のもとで、私は望んでいます。過去の悪性の循環を、再び出現させてはなりません。我々はひとつの良性の循環を築くために、力を尽くさなければなりません。点から面へと善意と相互理解を累積していくのです。私はこの種の拡充が、ひとつの非常に堅実な基礎を築いていくと信じています。

悪性の循環により、互いに恨むようになれば、それが点から線へ、さらに面へと広がっていきます。相互信頼は崩れてしまい、善意はなくなります。そうなれば、我々はみな、損害を被ってしまうのです。

したがって本日は、私はこのような心情をもって、率直に総書記をはじめとする皆さんに、私自身が経験したことをお話しいたします。

国民党の主席および副主席、さらに党幹部が南京紫金山の中山陵に詣でることができたのは、この56年間ではじめてのことでした。私の心情は、とても感傷的になり複雑な思いでした。ただし、感謝の気持ちでいっぱいでした。

中山先生は、息を引き取る際に、皆が平和に奮闘して中国を救えとの言葉を遺しました。平和に奮闘ということは、あの時代だけに通じる言葉だけではありません。皆が努力しなければならないことです。それは今日に至っても同様であり、私も信奉しつづけていることです。

このような精神を持ち続ければ、我々双方の理解と信用を強めていけると信じています。両岸の人民に対して、もっとよい、もっと多くの安定と、もっとすばらしく、もっと大きな繁栄をもたらすことができると信じています。さらに重要なこととして、両岸に対して光明と未来への希望をもたらすことができると信じています。これが本日この場で、まず総書記と皆さんに表明したい、私の考えなのです。ありがとうございました。(編集担当:如月隼人)


中国情報局
九二共識(Jiuer gongshi )】
発信:2005/04/29(金) 21:06:34

証明書などに関する国名に関して、1992年になされた合意。互いに「中国」という言葉を使いながら、その内容は各自が判断するというもの。

「九二共識」は、主に大陸側によって使われる呼び方。他に、「一箇中国,各自表達」(yige Zhongguo, gezi biaoda)、「一中各表」(yizhong gebiao)という呼び方もある。(編集担当:如月隼人)

JR福知山線列車脱線事故

2005-04-30 04:36:58 | 国内
毎日新聞
<尼崎脱線事故>45度傾き電柱に衝突、非常ブレーキが作動
2005年4月30日3時17分更新

JR福知山線の脱線事故で、激突したマンションの手前約60メートルにある左側電柱の高さ約2.5メートル付近に列車が衝突した跡が残っていたことが分かった。29日、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会が発表した。脱線した列車は右カーブで右車輪が浮き、45度前後左側に傾いて電柱に衝突、車両はさらに傾き、横倒し状態でマンションに突っ込んだとみられる。車両の分析で非常ブレーキが作動していたことも判明した。

事故調によると、電柱の位置は、事故後停車した列車7両目中央部の左脇にあり、電車に電力を供給する架線を支えている。鉄筋コンクリート製で、高さ約2・5メートル付近のコンクリートが砕け散り、鉄筋だけが残っていた。根元もひびが入り、鉄筋がむき出しになっていた。

電柱は、枕木の左端から約2メートル、左レールからは約2・4メートル離れていた。列車の高さは3・7メートルで、左車輪がレール上にあった場合、45度前後傾いて走行していたことになる。

この電柱の手前約30メートルにある電柱に傷はなく、マンションまでの間に別の電柱はなかった。

これまで7両目周辺では、破損した電柱の手前に左側枕木やレール締結具に車輪が脱線した時に出来た傷が見つかっている。ところが、6~7両目下の枕木やレール上に明確な脱線痕は見つかっていないことから、制限速度を約30キロ上回る100キロ前後でカーブに進入した列車は電柱付近で既に右車輪が大きく浮き上がっていたと見られる。

また、バラスト(敷石)上に明らかな脱線痕は見つかっていないが、救助活動などで消えた可能性があるという。

電柱そばにはパンタグラフが落ちていた。

事故調は29日、マンションから引き出された先頭車両の調査も開始した。先頭部の下部に装着され、障害物などをはねとばす「排障板」(スカート)の左側部分がなくなっており、横倒しになった際に損傷した可能性もあるという。

また事故調は運転席から運転状態を記録したモニター制御装置を回収。ブレーキやATS(自動列車停止装置)の作動状況などのデータが残っていた。これまで見つかっている5、7両目のモニター制御装置の記録と合わせて解析を進め、脱線原因の解明を急ぐ。

非常ブレーキについては、▽どの時点で作動したのか▽乗務員が作動させたのか、自動的に作動したのか▽非常ブレーキと脱線との関連――などを詳しく調べる。

30日以降、5~6両目車両下のレールの状態や先頭部の車輪や車体の損傷状態、付着物などを分析する。

会見した事故調の佐藤泰生・鉄道部会長は「右側の車輪に力がかからない状態になり、車体が浮いて、事故に至ったということが分かってきた。脱線の痕跡はまだ出てくる可能性があり、それらを踏まえ原因究明していく」と述べた。【武田良敬、田中謙吉】


毎日新聞
<尼崎脱線事故>検証 非常時の車掌の役割と先頭車両の調査
2005年4月29日3時3分更新

JR福知山線の脱線事故で、車掌(42)が事故直前、運転士(23)に「急ごう」という趣旨の連絡を取っていた。運転士とともに安全運行を支えるはずの車掌の役割を検証するとともに、事故原因究明に欠かせない先頭車両の調査のポイントを探った。

◇減速指示の有無が焦点

制限速度を超えて“暴走”する運転士。その区間に、速度超過に対応する自動列車停止装置(ATS―P型)はない。今回の事故のようなケースで、乗客が頼りにできるのは車掌だけだ。車掌は、何ができるのか。

JR旅客6社は、旧国鉄の「運転取扱心得」をベースに独自で乗務員の行動規範を定めている。JR西日本は、列車が遅れた場合、車掌を含む乗務員に「許された速度の範囲内で回復に努める」よう求めている。回復できなければ、車掌も運転士と同様、処分の対象となりうるといい、「急ごう」との趣旨の連絡をした背景に、こうした事情も見える。

JR東日本は「運転取扱実施基準規程」で、車掌に対して常時、モニターで速度を確認し、制限速度を超えて走行した場合は車内電話で運転士に確認することを義務付けている。事故発生が予想される場合は、車掌も非常ブレーキの操作が認められる。今回のケースについて、JR関係者は「まず運転士に連絡して速度を落とすよう進言する。非常ブレーキは、運転士に伝えてから操作することになる」と指摘する。今後、車掌が速度超過に気付いていたのかどうかも、事故原因究明の一つのポイントとなる。

一方、駅をオーバーランした場合、車掌は何を求められるのか。JR西日本の運行マニュアルは「非常ブレーキのスイッチを押す」などと定めている。高見隆二郎運転士自身、車掌だった02年5月、運転士が誤って停車駅を通過した際、停止する非常弁を開かなかったため訓告を受けた。非常ブレーキ操作は権限であるとともに責任も伴う。

今回の事故直前に起きた伊丹駅でのオーバーランで、車掌は非常ブレーキを作動させなかった。オーバーランの距離を過少申告したことも含め、JR西日本は、車掌から事情を聴いたうえで厳正に処分するという。

運転士のオーバーランによる遅れでも、場合によっては処分されかねない車掌の立場。同社のある中堅社員は「遅れの回復は、自分の腕の範囲内でやれということになる」と実情を明かす。一方、別のベテラン社員は「安全の追求と定時運行の確保は、ある意味で対立する概念。両者の両立のためには、余裕のあるダイヤを組むべきだ」と指摘する。【本多健、斎藤正利】

◇先頭車両の車輪に注目 解明へ、専門家も見方

脱線原因の解明で、専門家が注目するのは、調査が本格化する先頭車両だ。

事故調査の経験を持つ国土交通省幹部は「特に車輪の状態を調べることが不可欠」と話す。脱線は、1両目の車輪がレールから外れて発生したと考えられるからだ。脱線した車輪には微細な傷が残るため、現場の脱線痕と照合出来れば、脱線の起点の特定につながるという。

しかし、1両目は激しくマンションに衝突しているうえ、乗客の救出作業のため車体が切り刻まれている。同幹部は「必要なデータがどこまで残っているかがポイントになる」とみる。

事故車両には、ブレーキやATS(自動列車停止装置)の作動状況を記録した「モニター制御装置」が1、4、5、7両目に搭載されていた。同省航空・鉄道事故調査委員会は1両目以外のモニターを解析中だが「調査の鉄則は出来るだけ多くの証拠を集めること。1両目のモニターや運転席の損傷が検証可能な程度であれば」と期待する。JR関係者も「最大のポイントは運転室のモニター制御装置の解析」としている。

元JR貨物職員で北海学園大学の上浦正樹教授(鉄道工学)は「車輪のすり減り具合を調べることで、ブレーキが掛かった状態で車輪がレール上を滑走した距離が分かる可能性がある」とし、「車輪の状態と、車輪が着地した地点を特定出来れば、脱線車両がどのような軌跡をたどったか分かるかもしれない」と話す。

一方、独立行政法人交通安全環境研究所の松本陽・交通システム領域長は「特に先頭車両の車輪に、乗り上がり痕や、(非常ブレーキで)ロックしたかどうかを示す滑走痕があるかどうかが重要なポイント」と指摘する。

松本さんは、脱線の要因として台車と車体の間の空気バネと電車の重心に着目。「遠心力が大きくなると外側のバネがたわみ、重心が外側に移動する。さらに、空車時と比べ、乗車率が高いほど重心が高くなり、転覆しやすくなる」という。鉄道の場合、急制動は前後方向の力のため脱線の要因にはなりにくいが「車輪がロックしていたとすると、滑走している左右の車輪に加わるブレーキ力に差が生じ、要因になる可能性もある」と話している。

車両側と対照して調査が進められる軌道側の痕跡。事故調のこれまでの調べで、レールには脱線の痕跡を示す大きな損傷はなかった。枕木には、脱線した車輪のフランジが通過したとみられる線状の傷や、レール締結具のボルトの先端が削り取られた跡などがあった。傷跡はいずれも進行方向左側のレールの外側にあり、カーブの外側に向かって脱線した状況を示している。【川辺康広、大平誠、斎藤正利】