Takahiko Shirai Blog

記録「白井喬彦」

国共両党の1919~1949年

2005-04-30 05:37:20 | 国際
次に掲げるのは、サーチナ社(中国情報局)で中国版企業情報誌「中国企業情報」(中経出版刊)の編集を担当している有田直矢氏による「1919~1949年の中国国民党・中国共産党史」の解説(概観)である。

有田氏は南京大学の大学院を卒業した中国人で、2000年にサーチナ社に入社。個人がやっていた中国情報専門のポータルサイトを企業化して、サーチナ社を立ち上げた中国留学生グループのひとりである。

中国で高等教育を受けた有田直矢氏のような若い人が「中台関係の現代史」をどのように記述するかは極めて興味のあるところだ。

その彼は冒頭から、「国民党は1919年、孫文が既存の革命党を拡大再編して組織された。1912年、中華民国が成立して、孫文は臨時大総統となったが、その在位はわずか数ヵ月、いわゆる軍閥勢力に政権をのっとられる形になった。武力がなく無力を痛感した孫文及びその同志は、政権中枢の北京など北方を避け、広東など南方で、革命党を中心とした軍事力の育成に専念、そうしてできたのが国民党だ」と記述する。

中国共産党が設立されたのは1919年か1920年のことだから、それ以前の中国国民党の歴史を抹殺しているといえよう。国民党の前身である中国同盟会は1905年東京で設立された。だから、私たち日本人は孫文に何がしか親しみのようなものを感じるのだ。だが、清朝の下では当然非合法であり、1911年10月10日の武昌蜂起の成功により清朝宣統帝溥儀が退位した後の1912年3月、国民党は新しい首都南京で公開政党となったのである。

一方、中国共産党の創立は、ロシア革命(1917)の思想的影響と五・四運動(1919)の体験を通じ、急進的知識人の間にマルクス主義への関心が高まり、1920年春以降、コミンテルンの支援を受け、陳独秀,李大らが中心となって結党の準備が進められたのだそうだ。

辛亥革命に関与したか(国民党)、しなかったか(共産党)、このことは両政党にとって大きな意味を持っているのではなかろうか。この点における国民党の輝かしい功績について、現在の共産党は歴史認識の上でどこまで否定するのだろうか。そのあたりは日本に対する歴史認識とどう違っているのか。

孫文亡き後、権力を握った蒋介石による共産党への弾圧と粛清、北伐軍の北進と共産党の江作活動、そしてその過程で中国問題に巻き込まれていく日本の姿なども活写して欲しい。読者は日本人だし、日本という存在を無視した中台関係現代史などあり得ないのではないか。

蒋介石と毛沢東のふたりが重慶で1945年8月29日から10月10日まで、内戦の回避、国共合作による新中国建設などについて話し合って合意に達した「双十協定」などにも触れて欲しかった。

もうひとつ言うなら、遼瀋、淮海、平津の三大戦役などの具体的戦況経過などをも含めて、日本人があまり知らない国共内戦について詳しく解説してくれるとありがたい。当時、トルーマン大統領の政権だったアメリカは国共内戦になぜ武力介入しなかったのか。1950年に勃発した朝鮮戦争の場合とくらべてみたとき、同じ政権がやったこととは思えない。このことは私にとっては長年の疑問でもある。

下に掲げた有田直矢氏の解説とは別に、次にリンクを掲げた「「小龍」の現代史」は、「台湾」という”国家”の成り立ちを知る上で一読に値する。これは愛知学泉大学教授小林幹夫氏が書かれた論文であるが、愛知学泉大学のサイトでは現在読みづらい状態なのでここに採録させていただいた。

ここには、危うく蒋家による独裁国に陥りかけていた台湾が、偶然ともいえるような契機で蒋家の支配から脱したかその詳細が語られている。こういうどろどろとした歴史を背負った中国国民党と、これにも増した血みどろの歴史を背負う中国共産党に歩み寄りの余地はあるのか?

というよりも、この両政党にはどのような未来展望があるのだろうか。


「小龍」の現代史



中国情報局(中国論壇)

1919-49年の国共両党、トップ会談前に概観

60年ぶりの国共両党会談、80年関係史に転換点


有田直矢

2005年4月20日 19:01:53

中国国民党の連戦主席が中国大陸を訪問することが、正式発表されたことを受け、中国でも関心が高まっている。4月29日には、中国共産党の胡錦涛総書記と会談が実現する。これは、1945年、日本の敗戦とともに国共談判と国共内戦が繰り返され、1949年には、共産党が中国大陸に政権を樹立、国民党が台湾に移ってから、ほぼ60年ぶりの国共首脳による会談となる。

訪中する連戦主席は27日に南京入りする。中華民国時代、国民党による政府は南京を首都として定めていたことのほか、中山陵(国民党の創設者の1人である孫文の霊廟)を参拝するのが重要な任務。1949年以来、国民党のトップが中山陵を参拝するのは当然初めてのこと。

国民党は1919年、孫文が既存の革命党を拡大再編して組織された。1912年、中華民国が成立して、孫文は臨時大総統となったが、その在位はわずか数カ月、いわゆる軍閥勢力に政権をのっとられる形になった。武力がなく無力を痛感した孫文及びその同志は、政権中枢の北京など北方を避け、広東など南方で、革命党を中心とした軍事力の育成に専念、そうしてできたのが国民党だ。

1917年から始まったロシア革命及びソビエト連邦成立などの強い影響を受けて、1921年、 中国共産党が組織された。創設当時は弱小だった中国共産党は、コミンテルン(第三インターナショナル)の指示などもあって、当時すでに相応の勢力となっていた孫文の国民党と接近する。コミンテルンは国民党に対しても、共産党との合作に対する工作を行った。

共産党との合作に賛成し、強力に進めた孫文は、1924年、国民党の初めての全国代表大会を開催、この大会を通じて、反対勢力も根強かったものの、共産党との合作を実現した。しかし、その孫文も、革命半ばにして、翌年1925年北京で客死する。孫文の死後、協力関係にあった国民党と共産党の関係は微妙なものとなり、共産党に反対する国民党の右派勢力を中心として、1927年には合作が解消、敵対関係に突入する。

1930年代前半、日本の中国侵略が着々と進む一方で、国民党の主導権を握った蒋介石は、共産党に対して執拗に弾圧、大規模な掃討戦を5度繰り返したものの、これを消滅させることはできず、むしろ、いわゆる「長征」で、共産党は陝西省・延安に移動、国民党への抵抗を続け、さらに抗日戦を準備した。この1935年の「長征」を経て、共産党は鍛えられると同時に、毛沢東による軍事権の掌握が行われた。

1936年12月、蒋介石が盟友とも思われていた張学良に拘禁される事件が発生。いわゆる「西安事件」だ。張学良は、蒋介石に対して、共産党との和解と抗日を要求した。この事件は、蒋介石が解放されることで、何とか解決したが、1937年以降、蒋介石はじめ、国民党主力は共産党との合作と抗日に傾きかける。そうした中で、同年7月7日、北京市郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突、日中戦争が始まった。

開戦後2カ月ほどで、国民党と共産党は抗日のための再度の合作を実現、いわゆる第二次国共合作である。日本の侵略に対抗するという統一の目標があり、この合作も表面上、うまくいったかに見えたが、日本が敗戦を迎える以前に、すでに国共両党の確執は露見していた。1945年終戦後、国共両党が分裂するのは予想されていたことだった。

その背景には、共産党は当然ソ連との関係があり、国民党はアメリカ寄りで、終戦間際から直後の冷戦構造の確立の、中国における代理戦のような様相を呈していたこともある。1945年以降1949年まで、国共両党は何回か談判を繰り返し、そのたびに決裂し、内戦状態が続くことになった。

アメリカの援助もあり、最先端の軍備を備え、兵力も圧倒的だった国民党が、装備も旧式で、兵力も少ない共産党を壊滅させるのは当然だと思われていたが、国民党の優勢は内戦当初だけに終わり、戦局は、徐々に共産党優位に推移、1949年に入ると体制は決まった。同年10月、共産党の毛沢東が北京で中華人民共和国建国を宣言、それから遅れること2カ月、蒋介石率いる国民党が台湾に移ることになった。

この1949年以来、現在に至るまで、国共両党及びその周辺は、全く接触がなかったわけではなく、時には緊張し、時には接近し、いわゆる現在までに続く東アジアのバルカン的な問題とも言うべき「台湾問題」を形成してきた。

「台湾問題」というと緊張ばかりを連想させるが、中国大陸と台湾の間では、「三通」の実現、あるいは直行チャーター便の特例的開通などの動きも見せ、特に台湾在住の人々の中国大陸渡航は現在までにそれほど難しいことではなくなっているなど、お互いの歩み寄りという側面もなくはない。

国民党はすでに台湾の執政党という地位から陥落している。また、あるいは国民党が政権から退いたこともあって、「台湾問題」は現在、さらに複雑さを増している。いろいろな状況を考えれば、今回の国共両党の首脳会談は、決して予期できないことではなかったし、今回の会談で、中国と台湾の関係が実質的な大きな変化が期待できるというわけではないかもしれないが、今までの歴史、少なくとも国民党設立後80年以上にわたる国共関係史においては、非常に画期的な意義のあるものとなりそうだ。

最新の画像もっと見る