名古屋城の天守に据えられている〈金の鯱鉾(しゃちほこ)〉、
通称“ 金シャチ ”が、16年ぶりに地上へと降ろされました。

名古屋中心部・栄(さかえ)において、
本日(7月11日)までの展覧と聞き、行ってまいりました。
城の天守に設置される雌雄の金鯱は、

青龍・朱雀・白虎・玄武・獅子・麒麟等々といった、
いわゆる霊獣に類する想像上の生き物であり、
古来、災いを鎮め吉祥をもたらすと信じられてきました。
私は【鯱】という漢字が「魚へん」に「虎」と書かれるため、

金鯱の頭部は虎を象ったものと思い込んでおりましたが、
『東アジアのなかの正吻(せいふん)・鴟尾(しび)・
龍頭(りゅうとう)・鯱といった宮殿・寺院・
城の棟飾の系譜から見て、頭部は本来、龍と考えるべきだろう。』
(奈良大学教授・千田嘉博「金鯱の歴史的意義」/
名古屋城金シャチ特別展覧・公式ガイドブックより)
とのことで、“ 龍 ”を由来とする霊魚なのだそうです。



名古屋城の天守に金鯱が据えられたのは、慶長17年(1612)。
以来、天守の破損に伴う修理や、その時々における改鋳を経つつも、
金鯱は命脈を保ちながら尾張名古屋を見守り続け、
やがて時代は江戸から明治へと移り変わります。
明治新政府の方針と文明開化の熱狂に煽られ、
徳川旧政権を感じさせるものや古いものが否定される風潮の中、
名古屋城は取り壊しの方向へ。
さすがに名古屋城の取り壊しは撤回されたものの、
明治4年(1871)金鯱は天守から降ろされ宮内省に奉納されます。
その後、金鯱はウィーン万国博覧会(1873)に出品・展示、
また日本国内の博覧会場を巡回しますが、
名古屋市民有志らによる金鯱カムバックの嘆願活動もあって、
明治12年(1879)、金鯱は名古屋城天守に戻ります。
明治27年(1894)には日清戦争、明治37年(1904)には日露戦争、
また大正12年(1923)には関東大震災・・・と、
日本は数々の国難を経験しながら昭和年代へと入り、
遂に昭和16年(1941)、アメリカとの戦端が開かれることに。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)5月14日、
アメリカ空軍による名古屋空襲は早朝から激しさを増し、
焼夷弾は市内中心地域にも容赦なく降り注ぎ、
午前10時10分、名古屋城焼失。
金鯱もまた城と運命を共にし、炎の海に消えてゆきます。
慶長17年、初めて天守に据えられてから333年でありました。
焦土からの復興が進む中、
昭和30年代に入り名古屋城再建と金鯱復元への動きも本格化し、
昭和34年(1959)、二代目金鯱が完成、
新生名古屋城の天守に設置されます。
それからの歳月において3度、金鯱は地上に降ろされています。
1度目は、昭和59年(1984)「名古屋城博覧会」
2度目は、平成17年(2005)「新世紀・名古屋城博」「愛・地球博」
3度目が、今回の「名古屋城金シャチ特別展覧」。
金鯱の姿を、

江戸期に見上げた人々がいて、
明治~大正期に眺めた人々がいて、
昭和期に仰いだ人々がいて、時は平成から令和へと推移し、
今、同じ金鯱の姿を拝観しているということに、
どこか不思議な感動を覚えます。
生きる時代は違っていても、同じものを見ることで、
過去と繋がり、過去と繋がるがゆえに未来と結ばれる。
歴史遺産に触れることの醍醐味、
歴史遺構に立つことの意義は、そこに在るのかも知れません。
輝き、傷つき、燃え落ち、そしてまた蘇る“ 金シャチ ”。
霊魚の力を頼みとし、
コロナ禍および自然災害の鎮静化を祈念するものであります。






通称“ 金シャチ ”が、16年ぶりに地上へと降ろされました。

名古屋中心部・栄(さかえ)において、
本日(7月11日)までの展覧と聞き、行ってまいりました。
城の天守に設置される雌雄の金鯱は、

青龍・朱雀・白虎・玄武・獅子・麒麟等々といった、
いわゆる霊獣に類する想像上の生き物であり、
古来、災いを鎮め吉祥をもたらすと信じられてきました。
私は【鯱】という漢字が「魚へん」に「虎」と書かれるため、

金鯱の頭部は虎を象ったものと思い込んでおりましたが、
『東アジアのなかの正吻(せいふん)・鴟尾(しび)・
龍頭(りゅうとう)・鯱といった宮殿・寺院・
城の棟飾の系譜から見て、頭部は本来、龍と考えるべきだろう。』
(奈良大学教授・千田嘉博「金鯱の歴史的意義」/
名古屋城金シャチ特別展覧・公式ガイドブックより)
とのことで、“ 龍 ”を由来とする霊魚なのだそうです。



名古屋城の天守に金鯱が据えられたのは、慶長17年(1612)。
以来、天守の破損に伴う修理や、その時々における改鋳を経つつも、
金鯱は命脈を保ちながら尾張名古屋を見守り続け、
やがて時代は江戸から明治へと移り変わります。
明治新政府の方針と文明開化の熱狂に煽られ、
徳川旧政権を感じさせるものや古いものが否定される風潮の中、
名古屋城は取り壊しの方向へ。
さすがに名古屋城の取り壊しは撤回されたものの、
明治4年(1871)金鯱は天守から降ろされ宮内省に奉納されます。
その後、金鯱はウィーン万国博覧会(1873)に出品・展示、
また日本国内の博覧会場を巡回しますが、
名古屋市民有志らによる金鯱カムバックの嘆願活動もあって、
明治12年(1879)、金鯱は名古屋城天守に戻ります。
明治27年(1894)には日清戦争、明治37年(1904)には日露戦争、
また大正12年(1923)には関東大震災・・・と、
日本は数々の国難を経験しながら昭和年代へと入り、
遂に昭和16年(1941)、アメリカとの戦端が開かれることに。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)5月14日、
アメリカ空軍による名古屋空襲は早朝から激しさを増し、
焼夷弾は市内中心地域にも容赦なく降り注ぎ、
午前10時10分、名古屋城焼失。
金鯱もまた城と運命を共にし、炎の海に消えてゆきます。
慶長17年、初めて天守に据えられてから333年でありました。
焦土からの復興が進む中、
昭和30年代に入り名古屋城再建と金鯱復元への動きも本格化し、
昭和34年(1959)、二代目金鯱が完成、
新生名古屋城の天守に設置されます。
それからの歳月において3度、金鯱は地上に降ろされています。
1度目は、昭和59年(1984)「名古屋城博覧会」
2度目は、平成17年(2005)「新世紀・名古屋城博」「愛・地球博」
3度目が、今回の「名古屋城金シャチ特別展覧」。
金鯱の姿を、

江戸期に見上げた人々がいて、
明治~大正期に眺めた人々がいて、
昭和期に仰いだ人々がいて、時は平成から令和へと推移し、
今、同じ金鯱の姿を拝観しているということに、
どこか不思議な感動を覚えます。
生きる時代は違っていても、同じものを見ることで、
過去と繋がり、過去と繋がるがゆえに未来と結ばれる。
歴史遺産に触れることの醍醐味、
歴史遺構に立つことの意義は、そこに在るのかも知れません。
輝き、傷つき、燃え落ち、そしてまた蘇る“ 金シャチ ”。
霊魚の力を頼みとし、
コロナ禍および自然災害の鎮静化を祈念するものであります。





