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 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

ミシェル・ルグラン

2019-01-27 16:33:50 | 日常
過日、城山八幡宮に参拝しました折のこと、
境内の一角に畳が敷かれ、合気道の稽古が奉納されていました。

こちらは、5~7歳くらいのお子様たちによる

〈片手取り・四方投げ〉の稽古

稽古風景を眺めながら、
青春の日々を懐かしく思い出しました。

『天地宇宙には大いなる「気」が満ちている。
 稽古を通じて、
 その大いなる「気」に自らを合わせてゆく道。
 それゆえに「合気道」と言う。
 稽古は道場のみにてあらず、日常にあり。』

とは、
19の歳から4年間に亘り、その精神と技の数々に触れさせて頂いた
合気道の師範 M・K先生の言葉。

今であれば、その時のM・K師範の教えが、
千変万化する現象の根源にして物事の基本であり、

「気」なくして宇宙なく、
「気」なくして自然なく、
「気」なくして生命なく、
「気」なくして音楽なく、
「気」なくして政治・経済・教育・福祉・医療他一切なし・・

ということが多少なりとも分かりますが、当時の私には、
「気」というものが、どこか不可解なものに感じられたり、
教えの大きさを受け取るだけの器が無かったりで、
結局、合気道から離れてしまいました。

それでも4年間に亘り畳の上を転がり続けた日々の記憶と、
M・K師範から賜った薫陶の数々は心身の奥底に鎮まり、
八幡宮の境内で合気道の稽古を拝見するうちに、
老いと寒さで丸まった背中が伸びるのを感じるのでありました。

               

・・・などと毎度の如く駄文を案じておりましたところ、
ミシェル・ルグラン師が旅立たれたことを知りました。

巨匠ルグラン先生の軌跡・業績は、言わずもがなのこと。
86歳での旅立ちは、ある意味「大往生」とも思われ、
心から尊敬する作曲家がこの世から居なくなったこと自体には、
哀しみを覚えるものの、ただ単に悲しいという気持ちよりは、
もう少し色調の異なる感情なり感覚なりを抱きます。

それは、
どのような偉業を為し遂げた人であっても、
どのような名曲を書き上げた人であっても、
必ず死ぬのだなぁ・・・という想い。

ふと「沙門空海 唐の国にて鬼と宴す」を思い出しました。

この中では、
長安に到着して間もない、若き日の空海上人と、
在唐30年に及ぶ永忠(ようちゅう)和尚との、
死生問答が交わされます。

どれほど富み栄える人も、どれほど貧しい人も、
人は必ず死ぬ、として永忠和尚は空海上人にこう言います。

「密を極めたとしても、
 やはり死してゆくということですよ」
(夢枕獏著「沙門空海 唐の国にて鬼と宴す」角川文庫刊より)

密とは密教のこと。
その言葉を聞いて空海上人、

「やはり死ぬ・・・身の引きしまる思いがいたします。
 死するからこその、仏であり、密であるのですから。」
                    (引用元:上掲書)


映画音楽史上に聳える奇跡の名峰「シェルブールの雨傘」。
作曲家亡き後は「霊峰」と拝み続けるものであります。

Michel Legrand(1932~2019)




              









「追補・精神科診断面接のコツ」

2019-01-20 15:01:03 | 
折に触れて紐解かせて頂いております書は、
精神科医・神田橋條治先生がお書きになった

「追補・精神科診断面接のコツ」

〈面接〉と聞きますと就職活動等を思い起こしがちですが、
誤解なきよう〈面接〉の定義を事典から引いておきます。

「診断のための面接を診断面接と呼び、
 通常は精神科診断のための面接を指す」
          (「現代精神医学事典」弘文堂刊より)

神田橋先生は、
「追補・精神科診断面接のコツ」第3章「面接について」の中で、
診断面接についての心得や技法を説かれた後、章の締め括りに、
こう書いておられます。

『面接について(中略)、
 最も大切なことを述べておこうと想う。
 それは面接とは「出会い」であるということである。』
     (神田橋條治著「追補・精神科診断面接のコツ」
      岩崎学術出版社刊より)。

そして、
その想いは鴨長明「方丈記」に重ねられ、こう続きます。

『ここでわたくしが言う「出会い」とは、
 決して難しい内容のものではない。
 よどみに浮かぶ二個の泡が、種々の条件が揃ったが故に
 出会ったという意味である。
 いずれかの結ぶのが早くても遅くても、
 他方の消えるのが早くても遅くても、
 二個の泡が出会うことはなかったであろう。
 その因縁に心を置くことなしに行われる面接は、
 技法、学説を問わず、結局、
 両者にとって有害無益であると わたくしは思う』
                  (引用元:上掲書)

「出会い」という事象があり、

『その因縁に心を置く』

これは精神医学における診断面接に限ったことではなく、
門内・門外、およそ人間として生きるもの全てが、
深く心に刻みたい至言であると思います。

               

宇宙138億年・地球46億年・生命38億年・・・、
どの時間どの空間においても、私たちに至る無数の命の泡沫、
「淀みに浮かぶ うたかた」の「かつ消え かつ結ぶ」のが、
少しでもズレていたら〈今・ここ〉の私たちは存在し得ません。

出会いひとつ、別れひとつにしても、
この広大無辺の宇宙の中、この星この時代この国この場所で、
なぜアナタとワタシは出会ったのか、
なぜ出会わなければならなかったのか、
なぜアナタとワタシは別れたのか、
なぜ別れなければならなかったのか。
そこに秘められた理由に想いを馳せることが、

『その因縁に心を置く』

ことであり、

『その因縁に心を置くことなしに』

繰り返される出会いや別れは、両者の精神を枯らしこそすれ、
潤すものではないのかも知れません。

               

「因縁」という言葉は、
「因縁をつける」とか「因縁のライバル」などと使われる為、
ずいぶんとネガティブなイメージがありますが、
元々は仏教哲学で用いられる「十二因縁」や、
空海上人が「般若心経秘鍵」で語った「風葉に因縁を知る」等、
事象を生起させる《因(原因)と縁(条件)》を意味します。

宇宙とは、
〈因〉の縦糸と〈縁〉の横糸とで織り上げられた曼荼羅。
生命とは、
その曼荼羅の中を渡る無数の〈因〉と〈縁〉の糸が、
結んではほどけ、ほどけては結ばれる曼陀羅の中の曼荼羅。

・・と、仏教の中でも特に密教はそのように謳います。

               

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
 よどみに浮かぶ うたかたは、 かつ消え かつ結びて、
 久しくとどまりたる ためしなし」(方丈記)

永劫の時間・久遠の空間の中にあって、
私たちは、まさしく泡沫(うたかた)に過ぎません。
しかし、その泡と生まれ泡と消えてゆく私たちが、
出会いと別れの意味を問い、意味を考え、意味を創り、
神田橋先生が書かれたところの、

『その因縁に心を置く』

ことで、
うたかたが、うたかたのままに、
永劫の時間・久遠の空間と成り得るものと、朧気ながら、
そのようにも思えてくるのであります。

               

去る1月13日に東京都内で行われた、
ソノリティ・トロンボーン・カルテット(以下 STQ )の
第20回定期演奏会において

「うつろい」シリーズを演奏して頂きました。

トロンボーン・アンサンブル版への編曲は、STQリーダーの
笠川由之さんとメンバーの方々が行って下さいました。
「うつろい」は、ピアノと弦楽器が主体の連作ですので、
トロンボーンへの編曲には御苦労されたことと思います。

私にとりましては、五線紙に書いた音符の数々に、
STQの演奏で命が吹き込まれること自体が有り難い出会い。
深く

『その因縁に心を置く』

ものであり、
熱血トロンボーン奏者・笠川由之さん及びSTQメンバーの方々に、
心より感謝を申し上げます。




              












「画僧・月僊」展

2019-01-13 14:28:01 | イベント・展覧会
名古屋市博物館で開催中(~1月27日)の

「画僧・月僊(げっせん)」展に行ってまいりました。

月僊(1741~1809)は尾張名古屋に生まれ、
幼少期に仏門に入り、浄土宗の僧侶として生きる傍ら、
室町時代の水墨画家・雪舟(1420年~1506年)の流れを汲む、
桜井雪館(1715~1790)に師事し、
「画僧」として活躍した江戸時代・中~後期の人物。

               

こちらは

月僊和尚筆「達磨大師」(ポストカードを撮影)

ドイツ人指揮者・クルト・マズア(1927~2015)を
彷彿とさせます。

月僊和尚の筆に成る達磨(ダルマ)大師とマズア先生。
お二人の顔の造作が似ていることは勿論ですが、
特に共通しているのが〈眼〉であります。

月僊和尚が筆を揮う達磨大師の〈眼〉と、
ニューヨーク・フィルを指揮して、
ドヴォルザーク(1841~1904)作曲・交響曲第9番を
演奏し終わる瞬間のマズア先生の〈眼〉。

それらは共に、その焦点が虚空の彼方へ放散していて、
お二人が、耳を澄ます事に徹した果ての忘我の境地
〈聴覚三昧〉の中に身を置く人である事を伝えています。

               

少し回り道をさせて頂きますが、
ドヴォルザーク先生の交響曲第9番は第4楽章・第321小節から、
静かながらも強靭な意志を秘めたティンパニの拍動に導かれ、
E管のホルンが〈アデュエ〉で主題旋律を吹奏します。

〈アデュエ〉は、二人の奏者が同じ旋律を演奏する事ですが、
〈アデュエ〉には様々な効果・効用があり、
特に“p(ピアノ)”という弱音で奏される〈アデュエ〉は、
奏者同士がお互いの音色や抑揚等々に気を配り合う為、
ソロで吹かれる場合よりも、
その演奏の中には、ある種の緊張感が漂うと共に、
謙虚さ・慎ましさ・思いやりといったものが醸されます。

作曲家のこうした職人的技法に細かく彩られた交響曲は、
そのエネルギーを全開にして頂点に達し、
第345小節からホ長調の主和音を連呼した後、
想いの全てを、トランペット・ホルン・ファゴット・
クラリネット・オーボエ・フルートに託します。
託された想いを乗せたロングトーンの複合体は、
“ ppp(ピアニシッシモ)”へと向かうディミニエンドで、
遥か虚空の彼方へ還ってゆきます。

ドヴォルザーク先生は、第348小節めに訪れる最終小節に、
フェルマータ記号を付け、その上に尚、
“ lunga(ルンガ)”という指示を書き込んでおられます。
“ lunga ”は「なるべく長く」という意味。

物理的な音の長さは、フェルマータ記号で足りますので、
書き加えられた“ lunga ”は、精神的な音の長さを示し、
演奏が終わっても「音の行方を追え」の意と解釈します。

マズア先生は、
音楽の母胎である〈沈黙の世界〉に還ってゆく音の行方を、
極めて短い時間、言わば仏教で説かれる〈刹那〉の中に追い、
見届け、聴き届けるのですが、その時の〈眼〉こそが、
かの達磨大師の〈眼〉と重なるのであります。
この時のマズア先生の〈眼〉は映像等で確認できます。

耳を澄まし、聴覚に全身全霊を集中させると、
前後左右・天地上下等々、自己を取り巻く環境内の事物は、
全く眼に入らなくなります。網膜に映ってはいるものの、
知覚されることが無いと言うべきでしょうか。

クダクダしく書き連ねてしまいましたが、
この「達磨大師」の〈眼〉および肖像画全体には、
月僊和尚の精神的境地が溢れているように感じます。

               

一個人の中に画師と僧侶が同居する「画僧」。
描画のテーマを仏教に求めるのは勿論の事、
描画行為そのものを仏道修行の一環と捉えます。

ところが・・・と申しましょうか、月僊和尚の場合、
描画に際して必ず画料(報酬・ギャラ)を徴収し、
売れっ子画僧として成功して大きな財産をを築きます。
当然のこと社会の一部からは、

「仏道を歩む者として如何なものか」

という批判の声が上がる事もあったそうです。
なぜ和尚は絵を描く度に金銭を取り蓄財に励んだのでしょうか。
その答えは晩年にかけて少しずつ明らかに。

和尚は、
多くの人々が快適に参拝出来るための寺院改修、
障碍者支援、生活に困窮する人々を救済する基金の設立、
地域の人々が安全に暮らすための道路整備や架橋工事、
そうした社会福祉事業に、現在の金額に換算して、
億単位の私費を投じて世を去るのでありました。

月僊和尚を批判していた人々は皆、
その口をつぐんだと伝えられています。



              









謹賀新年 2019

2019-01-06 15:07:33 | 日常
謹賀新年・・・とは申せども、熊本では、
先に発生した地震とは異なる断層を誘因とする地震が起き、
また西日本豪雨で被災された方々の現況等々を想うにつけ、
手放しで初春を慶ぶという気持ちには、なれません。

只、日の本の国は〈言霊(コトダマ)の咲き笑ふ国〉。
まず「あけましておめでとうございます」と言祝ぐことで、
福寿の芽が出る、文字通り「芽出たき事」の招来を、
心より祈念するものであります。

               

御年90歳の御婦人から頂戴致しました干支人形

毎年、年頭初回のブログ記事に、
御婦人お手製の干支人形を掲載させて頂いておりますが、
本年はイノシシ。

90歳という御高齢ゆえに、
この数年来、幾度となく入退院を繰り返しておられますが、
手先・指先を始めとした五感を総動員しての、
人形制作や布もの作りは続けておられるとのこと。

毎年感じることですが、
御婦人の作品は、お歳を召されるにしたがって、
感覚の鮮度が増しているかのようにお見受けします。
モノ創りの理想形として見習いたいと思います。

               

十二支の「亥」と動物の「猪」との間には、
本来つながりは無かったものの、陰陽五行説に基づいて、
「亥」と「猪」は照応されるようになりました(諸説あり)。

古代中国・春秋時代(約2500年前)に考案された陰陽五行説は、
在りとあらゆる事物・事象を五つのグループに当て嵌めます。
亥・猪は、その陰陽五行説に於いて根本となる五つの世界、
木・火・土・金・水(もく・か・ど・こん・すい)の中の、
水の世界に属し、水の力により停滞を動かし、場を浄め、
〈胎生〉の働きを含んで新しい命の芽生えを促します。

今年は平成が終わり、程なくして新しい年号に変わります。
十二支の最後に当たる亥年に、
一つの時代が終わり、新しい時代が始まるのは、
偶然なのでしょうか必然なのでしょうか、或いは、
そのどちらでも有り、どちらでも無いのでしょうか。

               

陰陽五行説においては、音の高さや性質も五つに分けられます。
それら五音(ごいん)の中で「亥」が表すのは「羽」の音。
「宮・商・角・徴・羽(きゅう・しょう・かく・ち・う)」
と名付けられた五つの音の中で「羽」は、
周波数440hz辺りの音だったのでは?とする説があり、
もしもそうであったのならば、現代の「ラ」の音に相当します。

「ラ」の音と言えば、基準となるチューニングの音であり、
和名で言えばイ・ロ・ハの「イ」音であり、
英名で言えばA・B・Cの「A」音であり、また一説に、
赤ちゃんの産声が世界共通でおよそ440hz周辺音域・・・、
等々のことを想いますと「羽」という音が、その名の通り、
これから羽ばたく翼を抱く者の音、
終わりと始まりを繋ぐ音の如くイメージされ、
照応する「亥」の真相を響かせる音のように感じられます。

また陰陽五行説で「亥」は、
五つの感覚においては「聴」の領域、
五つの器官においては「耳」の働きを示します。

他者の言葉をよく聴き、他者の意見を取り入れると共に、
自らの内なる声に耳を澄まし、自らの本心に素直に生きることが、
十二支最後にして、次の巡りへの胎生・胎動を意味する、
「亥」の年の望ましい在り方なのかも知れません。

               

ご承知置きの通り、
漢字には〈反訓(はんくん)〉の作用が息づいています。
反訓とは、一つの漢字に正反対の意味を持たせること。
漢和辞典で「終」を引けば、そこには「終わり」の意と共に、
明らかに「始まり」と書かれています。

何かの終わりは、何かの始まりであるという事を、
古代中国の賢人たちは洞察していたわけで、
一つの文字に正反対の意味と視点とを含ませるという、
反訓のような深い叡智を持つ言語は漢字以外に類例を見ません。

実際のところ「亥」には、
門を閉ざし何かを終わらせる意味が有りますが、
反訓の働きよって、それはそのまま別の扉を開き、
積極的に〈始まり〉を迎えることに通じてゆきます。

つまるところ「亥」の巡りとは、
執着していた人・事・物を離れ、膿あらば切るに適した巡り。
古来「出し入れ」とは言えど「入れ出し」とは言いません。
出すことによって新しい何かが入って来る、
終わることによって新しい何かが始まる、とそう考えますと、
果たして皆様は、この亥年に際し、
何を終わらせ、何を断ち、誰との御縁を手放し、
何を開き、何を始め、どなたと出会われるのでありましょうか。

皆様、良き一年でありますように!
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。