過日、城山八幡宮に参拝しました折のこと、
境内の一角に畳が敷かれ、合気道の稽古が奉納されていました。
こちらは、5~7歳くらいのお子様たちによる

〈片手取り・四方投げ〉の稽古
稽古風景を眺めながら、
青春の日々を懐かしく思い出しました。
『天地宇宙には大いなる「気」が満ちている。
稽古を通じて、
その大いなる「気」に自らを合わせてゆく道。
それゆえに「合気道」と言う。
稽古は道場のみにてあらず、日常にあり。』
とは、
19の歳から4年間に亘り、その精神と技の数々に触れさせて頂いた
合気道の師範 M・K先生の言葉。
今であれば、その時のM・K師範の教えが、
千変万化する現象の根源にして物事の基本であり、
「気」なくして宇宙なく、
「気」なくして自然なく、
「気」なくして生命なく、
「気」なくして音楽なく、
「気」なくして政治・経済・教育・福祉・医療他一切なし・・
ということが多少なりとも分かりますが、当時の私には、
「気」というものが、どこか不可解なものに感じられたり、
教えの大きさを受け取るだけの器が無かったりで、
結局、合気道から離れてしまいました。
それでも4年間に亘り畳の上を転がり続けた日々の記憶と、
M・K師範から賜った薫陶の数々は心身の奥底に鎮まり、
八幡宮の境内で合気道の稽古を拝見するうちに、
老いと寒さで丸まった背中が伸びるのを感じるのでありました。



・・・などと毎度の如く駄文を案じておりましたところ、
ミシェル・ルグラン師が旅立たれたことを知りました。
巨匠ルグラン先生の軌跡・業績は、言わずもがなのこと。
86歳での旅立ちは、ある意味「大往生」とも思われ、
心から尊敬する作曲家がこの世から居なくなったこと自体には、
哀しみを覚えるものの、ただ単に悲しいという気持ちよりは、
もう少し色調の異なる感情なり感覚なりを抱きます。
それは、
どのような偉業を為し遂げた人であっても、
どのような名曲を書き上げた人であっても、
必ず死ぬのだなぁ・・・という想い。
ふと「沙門空海 唐の国にて鬼と宴す」を思い出しました。
この中では、
長安に到着して間もない、若き日の空海上人と、
在唐30年に及ぶ永忠(ようちゅう)和尚との、
死生問答が交わされます。
どれほど富み栄える人も、どれほど貧しい人も、
人は必ず死ぬ、として永忠和尚は空海上人にこう言います。
「密を極めたとしても、
やはり死してゆくということですよ」
(夢枕獏著「沙門空海 唐の国にて鬼と宴す」角川文庫刊より)
密とは密教のこと。
その言葉を聞いて空海上人、
「やはり死ぬ・・・身の引きしまる思いがいたします。
死するからこその、仏であり、密であるのですから。」
(引用元:上掲書)
映画音楽史上に聳える奇跡の名峰「シェルブールの雨傘」。
作曲家亡き後は「霊峰」と拝み続けるものであります。
Michel Legrand(1932~2019)





境内の一角に畳が敷かれ、合気道の稽古が奉納されていました。
こちらは、5~7歳くらいのお子様たちによる

〈片手取り・四方投げ〉の稽古
稽古風景を眺めながら、
青春の日々を懐かしく思い出しました。
『天地宇宙には大いなる「気」が満ちている。
稽古を通じて、
その大いなる「気」に自らを合わせてゆく道。
それゆえに「合気道」と言う。
稽古は道場のみにてあらず、日常にあり。』
とは、
19の歳から4年間に亘り、その精神と技の数々に触れさせて頂いた
合気道の師範 M・K先生の言葉。
今であれば、その時のM・K師範の教えが、
千変万化する現象の根源にして物事の基本であり、
「気」なくして宇宙なく、
「気」なくして自然なく、
「気」なくして生命なく、
「気」なくして音楽なく、
「気」なくして政治・経済・教育・福祉・医療他一切なし・・
ということが多少なりとも分かりますが、当時の私には、
「気」というものが、どこか不可解なものに感じられたり、
教えの大きさを受け取るだけの器が無かったりで、
結局、合気道から離れてしまいました。
それでも4年間に亘り畳の上を転がり続けた日々の記憶と、
M・K師範から賜った薫陶の数々は心身の奥底に鎮まり、
八幡宮の境内で合気道の稽古を拝見するうちに、
老いと寒さで丸まった背中が伸びるのを感じるのでありました。



・・・などと毎度の如く駄文を案じておりましたところ、
ミシェル・ルグラン師が旅立たれたことを知りました。
巨匠ルグラン先生の軌跡・業績は、言わずもがなのこと。
86歳での旅立ちは、ある意味「大往生」とも思われ、
心から尊敬する作曲家がこの世から居なくなったこと自体には、
哀しみを覚えるものの、ただ単に悲しいという気持ちよりは、
もう少し色調の異なる感情なり感覚なりを抱きます。
それは、
どのような偉業を為し遂げた人であっても、
どのような名曲を書き上げた人であっても、
必ず死ぬのだなぁ・・・という想い。
ふと「沙門空海 唐の国にて鬼と宴す」を思い出しました。
この中では、
長安に到着して間もない、若き日の空海上人と、
在唐30年に及ぶ永忠(ようちゅう)和尚との、
死生問答が交わされます。
どれほど富み栄える人も、どれほど貧しい人も、
人は必ず死ぬ、として永忠和尚は空海上人にこう言います。
「密を極めたとしても、
やはり死してゆくということですよ」
(夢枕獏著「沙門空海 唐の国にて鬼と宴す」角川文庫刊より)
密とは密教のこと。
その言葉を聞いて空海上人、
「やはり死ぬ・・・身の引きしまる思いがいたします。
死するからこその、仏であり、密であるのですから。」
(引用元:上掲書)
映画音楽史上に聳える奇跡の名峰「シェルブールの雨傘」。
作曲家亡き後は「霊峰」と拝み続けるものであります。
Michel Legrand(1932~2019)




