黄菖蒲を撮りたさに、気持ちが逸ったせいか、

気ノ池の崖を降りようとして、コケました。
コケた・・・というよりは、ほとんど転落であります。
内腹斜筋・腹横筋・横隔膜・骨盤底筋群等々、
総じて体幹が衰えていることを痛感致しました。
情けないこと、この上なし。



先週は、今を去ること約1600年前に書かれた、
大方等大集経・巻第十六 / 虚空蔵菩薩品・第八之三に記された、
〈菩薩〉とは何者なのか?・・を説いた偈(げ)を挙げました。
偈とは、経典内で謳われる音律詩のことですが、
今週は、この「〈菩薩〉の偈」に想いを巡らせたいとます。
件の「〈菩薩〉の偈」は、以下の通り。
“ 空(くう)相を相となすも、空はまた無相なり、
この相を体する者、これを菩薩となす。
滞(たい)なく礙(げ)なく、戯(け)なく動(どう)なく、
始めなく終わり無き、これを菩薩となす。
衆生を離れず、衆生の数に非(あら)ずして、
衆生の性(しょう)の如くなる、これを菩薩となす。”
ここに現れる“ 空(くう)”は、
日本人にとっては馴染みの深い〈般若心経〉の一節、
“ 色即是空 空即是色 ”の“ 空 ”でありますが、
“ 馴染みの深い ”ことと“ わかる ”こととは別のようで、
日々に〈般若心経〉を唱え“ 色即是空 空即是色 ”の名句が、
どれほど自己に浸透していようとも、“ 空 ”は中々に難しく、
少なくとも私自身にとっては“ わかる ”ものではありません。
大型書店の仏教書コーナーを訪れますと、
経典・経典解説書・仏教エッセイ等々が書架を埋め尽くしています。
考えようによっては、それらの全てが多かれ少なかれ、
「“ 空 ”について」を探求し、説いていると言えます。
しかしながら、「“ 空 ”について」どれほど優れた論考、
どれほど心揺さぶられる著述であったとしても、それらは、
「“ 空 ”について」説かれたものであって、
「“ 空 ”そのもの」を説いたものではありません。
“ 空 ”は何を以てしても説き尽くせないものであり、
虚空蔵菩薩品・第八之三に記された他の偈文では、
“ 空 ”は生まれもしなければ滅びもしない、
“ 空 ”は明るくもなければ暗くもない、
“ 空 ”は名付けようがない、姿や形がない、
“ 空 ”はここに在る、そこに在る、常に在る、
“ 空 ”は夢・陽炎・響きのようでもある・・・等々、
延々と「“ 空 ”について」語った末、
“ 真浄の義は、さらに譬喩なし ”
(「“ 空 ”そのもの」は、何にも喩えることができない)
として、良くも悪くも匙を投げ出しています。
履歴書に貼られた顔写真や、そこに書かれた生年月日を始めとする、
来歴・経歴・肩書き・資格・性格・長所・短所等々が、
「その人について」を多少は語るものではあっても、
「その人自身」ではないように、
“ 空 ”に関するデータをどれほど集積しようとも、
“ 空 ”が明らかになることは有り得ません。
それゆえにこその“ 空 ”なのであり、
万が一“ 空 ”が明らかにされたとしても、明らかにされた“ 空 ”は、
もはや“ 空 ”では無いということでもありましょう。
そのような“ 空 ”であるがゆえに、碩学大賢ならばいざ知らず、
無学の早川が “ 空 ”へ寄り道しますと、寄り道では済まなくなり、
おそらくは“ 空 ”の迷路を彷徨い続けることとなりますので、
本日のところは、“ 空 ”は“ 空 ”であると一旦棚上げし、
「〈菩薩〉の偈」へ歩を進めます。



“ 空相を相となすも、空はまた無相なり、
この相を体する者、これを菩薩となす。”
宇宙は、
例えば銀河相・ブラックホール相・太陽相・地球相といった、
“ 相 ”を通して顕れ、“ 相 ”を通して活動するのであり、
「これが宇宙の本体です」というものは存在しません。
生命は、
例えば動物相・植物相・昆虫相・あなた相・わたし相といった、
“ 相 ”を通して生まれ、“ 相 ”を通して動いているのであって、
「これが生命の本体です」というものは存在しません。
春は、
例えば気温上昇相・桜の開花相・蝶の羽化相といった、
“ 相 ”を通して表れ、“ 相 ”を通して感じられるのであって、
「これが春の本体です」というものは存在しません。
心は、
例えば愛情相・憎悪相・許容相・反発相・笑相・怒相といった、
“ 相 ”を通して表れ、“ 相 ”を通して発せられるのであって、
「これが心の本体です」というものは存在しません。
相とは、つまり現象・事象というほどの意。
“ 空 ”もまた、空相という“ 相 ”を通して活動しているものの、
「これが“ 空 ”の本体です」というものが存在し得ない以上、
“ 空はまた無相なり ”
“ 空 ”は、無相であるがゆえに“ 無 ”でありながら、
“ 空 ”は、空相として“ 有 ”である。
“ 空 ”は、空相として確かに“ 有 ”でありながら、
“ 空 ”は、無相であるがゆえに“ 無 ”である。
“ 有 ”と“ 無 ”を、同時並列に生きる者、
“ 有 ”と“ 無 ”を、同時並列に生きようとする者、
それが菩薩であり、この【 “ 有 ”と“ 無 ” 】を、
【 “ 生 ”と“ 死 ” 】という辺りに重ねて考えてみますと、
菩薩とは、
生きながら死に、死にながら生きる者、
生と死、死と生の垣根を越えて生きることができる者、
そういう在り方を目指す者、という風にも想われてきます。



“ 滞なく礙なく、戯なく動なく、
始めなく終わり無き、これを菩薩となす。”
この偈を読んで、即座に思い起こされるのが、
精神科医・神田橋條治先生の言葉。
『次から次へと学習を積み上げてゆき、
そのすべてのあいだを水が行き来するようになっているのが、
健康の理想像であるから、その姿は、
混沌に酷似しているはずである。
精神療法の治癒像の理想型は、混沌である。』
(神田橋條治著「精神療法面接のコツ」岩崎学術出版社)
滞(とどこおり)なく、礙(さまたげ)なく、
“ 有 ”と“ 無 ”のあいだを、水が自由に行き来し、
“ 生 ”と“ 死 ”のあいだを、水が自在に循環する。
AかBか、白か黒か、善か悪か、動か静か・・・といった、
二項対立を戯(ざれごと)と退け、対立する事象のあいだを、
或いは様々な領域のあいだを融通無礙に往来する。
どこが始まりで、どこが終わりかが「分からない」。
「分からない」とは、つまり「分けられない」。
「分けられない」以上、それは“ 混沌 ”である。
菩薩は、“ 混沌 ” である。



“ 衆生を離れず、衆生の数に非ずして、
衆生の性の如くなる、これを菩薩となす。”
〈菩薩〉なる者は、
悟りを得たり、何か高尚な境地を感得したとしても、
衆生、特には生きづらさや悩みを抱える人々から離れない者。
〈理趣経・百字之偈〉の冒頭にも、こう謳われています。
“ 菩薩勝慧者、乃至尽生死、恒作衆生利、而不趣涅槃 ”
(菩薩は生まれ変わり死に変わりしながら、
常に衆生を利するために活動し、涅槃には行かない)
世の中を渡るというのは難しいもの。
宗教者といえども“ 人の子 ”で、身過ぎ世過ぎの為か、中には、
信者の数や著作物の売り上げ高を誇る方々がおられます。
また様々な業界において、顧客数・観客動員数・販売実数・
合格率・動画再生回数等々の数字が競われる傾向にあります。
企業努力・精進努力と言えば、その通りなのでありましょうが、
〈菩薩〉は、
“ 衆生の数に非ずして、衆生の性の如くなる ”
として、そうした方々とは、いささか異なる道を歩みます。
“ 衆生の数に非ずして ”とは、
「顧客が何人」「売り上げがいくら」といった数字ではなく、
いま目の前にいる、
ただ一人の“ その人 ”に向き合い、
ただ一人の“ その人 ”に寄り添う、という姿勢であり、
“ 衆生の性の如くなる ”とは、つまり、
あなたが笑えば、菩薩も共に笑い、
あなたが涙すれば、菩薩も共に涙する、ということであります。
詩人・金子みすゞ(1903~1930)の作品
「さびしいとき」
“ 私がさびしいときに、よその人は知らないの。
私がさびしいときに、お友だちは笑うの。
私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。”
ここに詠まれている “ ほとけさま ” とは、
〈菩薩〉のことであると心得ます。







気ノ池の崖を降りようとして、コケました。
コケた・・・というよりは、ほとんど転落であります。
内腹斜筋・腹横筋・横隔膜・骨盤底筋群等々、
総じて体幹が衰えていることを痛感致しました。
情けないこと、この上なし。



先週は、今を去ること約1600年前に書かれた、
大方等大集経・巻第十六 / 虚空蔵菩薩品・第八之三に記された、
〈菩薩〉とは何者なのか?・・を説いた偈(げ)を挙げました。
偈とは、経典内で謳われる音律詩のことですが、
今週は、この「〈菩薩〉の偈」に想いを巡らせたいとます。
件の「〈菩薩〉の偈」は、以下の通り。
“ 空(くう)相を相となすも、空はまた無相なり、
この相を体する者、これを菩薩となす。
滞(たい)なく礙(げ)なく、戯(け)なく動(どう)なく、
始めなく終わり無き、これを菩薩となす。
衆生を離れず、衆生の数に非(あら)ずして、
衆生の性(しょう)の如くなる、これを菩薩となす。”
ここに現れる“ 空(くう)”は、
日本人にとっては馴染みの深い〈般若心経〉の一節、
“ 色即是空 空即是色 ”の“ 空 ”でありますが、
“ 馴染みの深い ”ことと“ わかる ”こととは別のようで、
日々に〈般若心経〉を唱え“ 色即是空 空即是色 ”の名句が、
どれほど自己に浸透していようとも、“ 空 ”は中々に難しく、
少なくとも私自身にとっては“ わかる ”ものではありません。
大型書店の仏教書コーナーを訪れますと、
経典・経典解説書・仏教エッセイ等々が書架を埋め尽くしています。
考えようによっては、それらの全てが多かれ少なかれ、
「“ 空 ”について」を探求し、説いていると言えます。
しかしながら、「“ 空 ”について」どれほど優れた論考、
どれほど心揺さぶられる著述であったとしても、それらは、
「“ 空 ”について」説かれたものであって、
「“ 空 ”そのもの」を説いたものではありません。
“ 空 ”は何を以てしても説き尽くせないものであり、
虚空蔵菩薩品・第八之三に記された他の偈文では、
“ 空 ”は生まれもしなければ滅びもしない、
“ 空 ”は明るくもなければ暗くもない、
“ 空 ”は名付けようがない、姿や形がない、
“ 空 ”はここに在る、そこに在る、常に在る、
“ 空 ”は夢・陽炎・響きのようでもある・・・等々、
延々と「“ 空 ”について」語った末、
“ 真浄の義は、さらに譬喩なし ”
(「“ 空 ”そのもの」は、何にも喩えることができない)
として、良くも悪くも匙を投げ出しています。
履歴書に貼られた顔写真や、そこに書かれた生年月日を始めとする、
来歴・経歴・肩書き・資格・性格・長所・短所等々が、
「その人について」を多少は語るものではあっても、
「その人自身」ではないように、
“ 空 ”に関するデータをどれほど集積しようとも、
“ 空 ”が明らかになることは有り得ません。
それゆえにこその“ 空 ”なのであり、
万が一“ 空 ”が明らかにされたとしても、明らかにされた“ 空 ”は、
もはや“ 空 ”では無いということでもありましょう。
そのような“ 空 ”であるがゆえに、碩学大賢ならばいざ知らず、
無学の早川が “ 空 ”へ寄り道しますと、寄り道では済まなくなり、
おそらくは“ 空 ”の迷路を彷徨い続けることとなりますので、
本日のところは、“ 空 ”は“ 空 ”であると一旦棚上げし、
「〈菩薩〉の偈」へ歩を進めます。



“ 空相を相となすも、空はまた無相なり、
この相を体する者、これを菩薩となす。”
宇宙は、
例えば銀河相・ブラックホール相・太陽相・地球相といった、
“ 相 ”を通して顕れ、“ 相 ”を通して活動するのであり、
「これが宇宙の本体です」というものは存在しません。
生命は、
例えば動物相・植物相・昆虫相・あなた相・わたし相といった、
“ 相 ”を通して生まれ、“ 相 ”を通して動いているのであって、
「これが生命の本体です」というものは存在しません。
春は、
例えば気温上昇相・桜の開花相・蝶の羽化相といった、
“ 相 ”を通して表れ、“ 相 ”を通して感じられるのであって、
「これが春の本体です」というものは存在しません。
心は、
例えば愛情相・憎悪相・許容相・反発相・笑相・怒相といった、
“ 相 ”を通して表れ、“ 相 ”を通して発せられるのであって、
「これが心の本体です」というものは存在しません。
相とは、つまり現象・事象というほどの意。
“ 空 ”もまた、空相という“ 相 ”を通して活動しているものの、
「これが“ 空 ”の本体です」というものが存在し得ない以上、
“ 空はまた無相なり ”
“ 空 ”は、無相であるがゆえに“ 無 ”でありながら、
“ 空 ”は、空相として“ 有 ”である。
“ 空 ”は、空相として確かに“ 有 ”でありながら、
“ 空 ”は、無相であるがゆえに“ 無 ”である。
“ 有 ”と“ 無 ”を、同時並列に生きる者、
“ 有 ”と“ 無 ”を、同時並列に生きようとする者、
それが菩薩であり、この【 “ 有 ”と“ 無 ” 】を、
【 “ 生 ”と“ 死 ” 】という辺りに重ねて考えてみますと、
菩薩とは、
生きながら死に、死にながら生きる者、
生と死、死と生の垣根を越えて生きることができる者、
そういう在り方を目指す者、という風にも想われてきます。



“ 滞なく礙なく、戯なく動なく、
始めなく終わり無き、これを菩薩となす。”
この偈を読んで、即座に思い起こされるのが、
精神科医・神田橋條治先生の言葉。
『次から次へと学習を積み上げてゆき、
そのすべてのあいだを水が行き来するようになっているのが、
健康の理想像であるから、その姿は、
混沌に酷似しているはずである。
精神療法の治癒像の理想型は、混沌である。』
(神田橋條治著「精神療法面接のコツ」岩崎学術出版社)
滞(とどこおり)なく、礙(さまたげ)なく、
“ 有 ”と“ 無 ”のあいだを、水が自由に行き来し、
“ 生 ”と“ 死 ”のあいだを、水が自在に循環する。
AかBか、白か黒か、善か悪か、動か静か・・・といった、
二項対立を戯(ざれごと)と退け、対立する事象のあいだを、
或いは様々な領域のあいだを融通無礙に往来する。
どこが始まりで、どこが終わりかが「分からない」。
「分からない」とは、つまり「分けられない」。
「分けられない」以上、それは“ 混沌 ”である。
菩薩は、“ 混沌 ” である。



“ 衆生を離れず、衆生の数に非ずして、
衆生の性の如くなる、これを菩薩となす。”
〈菩薩〉なる者は、
悟りを得たり、何か高尚な境地を感得したとしても、
衆生、特には生きづらさや悩みを抱える人々から離れない者。
〈理趣経・百字之偈〉の冒頭にも、こう謳われています。
“ 菩薩勝慧者、乃至尽生死、恒作衆生利、而不趣涅槃 ”
(菩薩は生まれ変わり死に変わりしながら、
常に衆生を利するために活動し、涅槃には行かない)
世の中を渡るというのは難しいもの。
宗教者といえども“ 人の子 ”で、身過ぎ世過ぎの為か、中には、
信者の数や著作物の売り上げ高を誇る方々がおられます。
また様々な業界において、顧客数・観客動員数・販売実数・
合格率・動画再生回数等々の数字が競われる傾向にあります。
企業努力・精進努力と言えば、その通りなのでありましょうが、
〈菩薩〉は、
“ 衆生の数に非ずして、衆生の性の如くなる ”
として、そうした方々とは、いささか異なる道を歩みます。
“ 衆生の数に非ずして ”とは、
「顧客が何人」「売り上げがいくら」といった数字ではなく、
いま目の前にいる、
ただ一人の“ その人 ”に向き合い、
ただ一人の“ その人 ”に寄り添う、という姿勢であり、
“ 衆生の性の如くなる ”とは、つまり、
あなたが笑えば、菩薩も共に笑い、
あなたが涙すれば、菩薩も共に涙する、ということであります。
詩人・金子みすゞ(1903~1930)の作品
「さびしいとき」
“ 私がさびしいときに、よその人は知らないの。
私がさびしいときに、お友だちは笑うの。
私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。”
ここに詠まれている “ ほとけさま ” とは、
〈菩薩〉のことであると心得ます。





