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 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

菩薩 その3

2021-05-02 15:26:29 | 仏教
黄菖蒲を撮りたさに、気持ちが逸ったせいか、

気ノ池の崖を降りようとして、コケました。
コケた・・・というよりは、ほとんど転落であります。
内腹斜筋・腹横筋・横隔膜・骨盤底筋群等々、
総じて体幹が衰えていることを痛感致しました。
情けないこと、この上なし。

               

先週は、今を去ること約1600年前に書かれた、
大方等大集経・巻第十六 / 虚空蔵菩薩品・第八之三に記された、
〈菩薩〉とは何者なのか?・・を説いた偈(げ)を挙げました。
偈とは、経典内で謳われる音律詩のことですが、
今週は、この「〈菩薩〉の偈」に想いを巡らせたいとます。

件の「〈菩薩〉の偈」は、以下の通り。

“ 空(くう)相を相となすも、空はまた無相なり、
 この相を体する者、これを菩薩となす。
 
 滞(たい)なく礙(げ)なく、戯(け)なく動(どう)なく、
 始めなく終わり無き、これを菩薩となす。
 
 衆生を離れず、衆生の数に非(あら)ずして、
 衆生の性(しょう)の如くなる、これを菩薩となす。”

ここに現れる“ 空(くう)”は、
日本人にとっては馴染みの深い〈般若心経〉の一節、
“ 色即是空 空即是色 ”の“ 空 ”でありますが、
“ 馴染みの深い ”ことと“ わかる ”こととは別のようで、
日々に〈般若心経〉を唱え“ 色即是空 空即是色 ”の名句が、
どれほど自己に浸透していようとも、“ 空 ”は中々に難しく、
少なくとも私自身にとっては“ わかる ”ものではありません。

大型書店の仏教書コーナーを訪れますと、
経典・経典解説書・仏教エッセイ等々が書架を埋め尽くしています。
考えようによっては、それらの全てが多かれ少なかれ、
「“ 空 ”について」を探求し、説いていると言えます。

しかしながら、「“ 空 ”について」どれほど優れた論考、
どれほど心揺さぶられる著述であったとしても、それらは、
「“ 空 ”について」説かれたものであって、
「“ 空 ”そのもの」を説いたものではありません。

“ 空 ”は何を以てしても説き尽くせないものであり、
虚空蔵菩薩品・第八之三に記された他の偈文では、
“ 空 ”は生まれもしなければ滅びもしない、
“ 空 ”は明るくもなければ暗くもない、
“ 空 ”は名付けようがない、姿や形がない、
“ 空 ”はここに在る、そこに在る、常に在る、
“ 空 ”は夢・陽炎・響きのようでもある・・・等々、
延々と「“ 空 ”について」語った末、

“ 真浄の義は、さらに譬喩なし ”
(「“ 空 ”そのもの」は、何にも喩えることができない)

として、良くも悪くも匙を投げ出しています。
履歴書に貼られた顔写真や、そこに書かれた生年月日を始めとする、
来歴・経歴・肩書き・資格・性格・長所・短所等々が、
「その人について」を多少は語るものではあっても、
「その人自身」ではないように、
“ 空 ”に関するデータをどれほど集積しようとも、
“ 空 ”が明らかになることは有り得ません。
それゆえにこその“ 空 ”なのであり、
万が一“ 空 ”が明らかにされたとしても、明らかにされた“ 空 ”は、
もはや“ 空 ”では無いということでもありましょう。

そのような“ 空 ”であるがゆえに、碩学大賢ならばいざ知らず、
無学の早川が “ 空 ”へ寄り道しますと、寄り道では済まなくなり、
おそらくは“ 空 ”の迷路を彷徨い続けることとなりますので、
本日のところは、“ 空 ”は“ 空 ”であると一旦棚上げし、
「〈菩薩〉の偈」へ歩を進めます。

               

“ 空相を相となすも、空はまた無相なり、
 この相を体する者、これを菩薩となす。”

宇宙は、
例えば銀河相・ブラックホール相・太陽相・地球相といった、
“ 相 ”を通して顕れ、“ 相 ”を通して活動するのであり、
「これが宇宙の本体です」というものは存在しません。
生命は、
例えば動物相・植物相・昆虫相・あなた相・わたし相といった、
“ 相 ”を通して生まれ、“ 相 ”を通して動いているのであって、
「これが生命の本体です」というものは存在しません。
春は、
例えば気温上昇相・桜の開花相・蝶の羽化相といった、
“ 相 ”を通して表れ、“ 相 ”を通して感じられるのであって、
「これが春の本体です」というものは存在しません。
心は、
例えば愛情相・憎悪相・許容相・反発相・笑相・怒相といった、
“ 相 ”を通して表れ、“ 相 ”を通して発せられるのであって、
「これが心の本体です」というものは存在しません。

相とは、つまり現象・事象というほどの意。
“ 空 ”もまた、空相という“ 相 ”を通して活動しているものの、
「これが“ 空 ”の本体です」というものが存在し得ない以上、

“ 空はまた無相なり ”

“ 空 ”は、無相であるがゆえに“ 無 ”でありながら、
“ 空 ”は、空相として“ 有 ”である。
“ 空 ”は、空相として確かに“ 有 ”でありながら、
“ 空 ”は、無相であるがゆえに“ 無 ”である。

“ 有 ”と“ 無 ”を、同時並列に生きる者、
“ 有 ”と“ 無 ”を、同時並列に生きようとする者、
それが菩薩であり、この【 “ 有 ”と“ 無 ” 】を、
【 “ 生 ”と“ 死 ” 】という辺りに重ねて考えてみますと、
菩薩とは、
生きながら死に、死にながら生きる者、
生と死、死と生の垣根を越えて生きることができる者、
そういう在り方を目指す者、という風にも想われてきます。

               

“ 滞なく礙なく、戯なく動なく、
 始めなく終わり無き、これを菩薩となす。”

この偈を読んで、即座に思い起こされるのが、
精神科医・神田橋條治先生の言葉。

『次から次へと学習を積み上げてゆき、
 そのすべてのあいだを水が行き来するようになっているのが、
 健康の理想像であるから、その姿は、
 混沌に酷似しているはずである。
 精神療法の治癒像の理想型は、混沌である。』
    (神田橋條治著「精神療法面接のコツ」岩崎学術出版社)

滞(とどこおり)なく、礙(さまたげ)なく、
“ 有 ”と“ 無 ”のあいだを、水が自由に行き来し、
“ 生 ”と“ 死 ”のあいだを、水が自在に循環する。

AかBか、白か黒か、善か悪か、動か静か・・・といった、
二項対立を戯(ざれごと)と退け、対立する事象のあいだを、
或いは様々な領域のあいだを融通無礙に往来する。
どこが始まりで、どこが終わりかが「分からない」。
「分からない」とは、つまり「分けられない」。
「分けられない」以上、それは“ 混沌 ”である。
菩薩は、“ 混沌 ” である。

               

“ 衆生を離れず、衆生の数に非ずして、
 衆生の性の如くなる、これを菩薩となす。”

〈菩薩〉なる者は、
悟りを得たり、何か高尚な境地を感得したとしても、
衆生、特には生きづらさや悩みを抱える人々から離れない者。
〈理趣経・百字之偈〉の冒頭にも、こう謳われています。

“ 菩薩勝慧者、乃至尽生死、恒作衆生利、而不趣涅槃 ”
(菩薩は生まれ変わり死に変わりしながら、
 常に衆生を利するために活動し、涅槃には行かない)

世の中を渡るというのは難しいもの。
宗教者といえども“ 人の子 ”で、身過ぎ世過ぎの為か、中には、
信者の数や著作物の売り上げ高を誇る方々がおられます。
また様々な業界において、顧客数・観客動員数・販売実数・
合格率・動画再生回数等々の数字が競われる傾向にあります。
企業努力・精進努力と言えば、その通りなのでありましょうが、
〈菩薩〉は、

“ 衆生の数に非ずして、衆生の性の如くなる ”

として、そうした方々とは、いささか異なる道を歩みます。
“ 衆生の数に非ずして ”とは、
「顧客が何人」「売り上げがいくら」といった数字ではなく、
いま目の前にいる、
ただ一人の“ その人 ”に向き合い、
ただ一人の“ その人 ”に寄り添う、という姿勢であり、
“ 衆生の性の如くなる ”とは、つまり、
あなたが笑えば、菩薩も共に笑い、
あなたが涙すれば、菩薩も共に涙する、ということであります。

詩人・金子みすゞ(1903~1930)の作品
「さびしいとき」

“ 私がさびしいときに、よその人は知らないの。
 私がさびしいときに、お友だちは笑うの。
 私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。
 私がさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。”

ここに詠まれている “ ほとけさま ” とは、
〈菩薩〉のことであると心得ます。






              







菩薩 その2

2021-04-25 15:11:53 | 仏教
城山八幡宮のヒトツバタゴが花期を迎えています。


               

〈菩薩(ぼさつ)〉については、以前にも触れました。
〈菩薩〉は、私にとって親しみを覚えつつも謎、近いようで遠く、
憧れでありながら理解が及ばないという存在であり、
それゆえにこそ、音楽・宇宙・自然・生命と同様、
想いを馳せ続けたい“ テーマ ”の一つ。
今回は、この〈菩薩〉について、二週に亘り浅慮を巡らせます。
愚考駄文はもとよりのこと・・・と、お許しを願った上で、
お付き合い頂けましたら幸いに存じます。

               

仏教には、夥しい数の尊格が登場し、それらは御承知置きの通り、
阿弥陀如来・大日如来・薬師如来等の〈如来〉部、
観世音菩薩・弥勒菩薩・地蔵菩薩等の〈菩薩〉部、
不動明王・愛染明王等・孔雀明王等の〈明王〉部、
毘沙門天・弁財天・大黒天等の〈天〉部にカテゴライズされるため、
仏教解説書、或いは法話を講じる僧侶の方々の中には、
上記カテゴライズを人間世界の社会集団や会社組織に重ね、
〈如来〉を社長、〈菩薩〉を部長、〈明王〉を係長、
〈天〉を現場の社員になぞらえて説いておられる場合があります。

それは「分かりやすさ」という観点からは良いのかも知れません。
しかしながら、そもそも仏天・仏尊の世界と人間の世界とは、
別次元の秩序、異なったオーダーで生起しているのであり、
上記のような“ 比喩 ”は、
あたかも仏尊の世界に“ 階級 ”や“ 職階 ”があるかのような、
誤解を生むことに繋がりかねません。

私見ながら、仏尊の世界に、
“ 人間社会のような上下関係 ”や、
“ 人間社会のような地位・職階 ”といったものは存在しません。

確かに経典の中には、
「〈明王〉が〈菩薩〉の命を受けて立ち上がり・・・」とか、
「〈菩薩〉が〈如来〉の許しを得て説法を始め・・・」といった、
さも上下関係や命令系統が有るかのような記述が随所に見られます。

しかしそれらは“ 人間社会のような上下関係 ”ではなく、
あくまでも“ 仏尊世界の上下関係 ”と受け止められるべきもので、
人間世界と仏尊世界とでは、
この“ 上下関係 ”という言葉の定義自体が全く異なり、
人間の生活感覚で推し量ることは出来ない事象であると思います。
平たく申せば、
〈明王〉が〈菩薩〉の意向を忖度したり、
〈菩薩〉が〈如来〉の顔色を伺ったりする・・・、
そういうことは一切無いということであります。

               

仏教は、のちに開祖となるゴータマ・シッダールタが、
コーサラ国に属するシャ―キャ族の王子としての、
「“ 地位 ”を捨てる」ところから始まりました。

にも拘わらず、仏教が開かれた初期段階から、
「“ 修行 ”を積む」ということと、
「“ 地位 ”を得る」ということとが、
少しずつ結びつけられるようになってゆきます。
つまり、
“ 修行 ”を積んで“ 悟り ”を得ることで、
“ 偉いひと ”になるという誤解が生まれます。

仏教の原点から考えるならば、「“ 修行 ”を積む」ことで、
「“ 地位 ”を捨てる」ことが出来る、もしくは、
「“ 地位 ”を得よう」という心を捨てることが出来る、或いは、
「偉いひと」ではなくなることが出来る・・・はずなのですが、
そうはいかないのが、人間の半ば哀しく、半ば面白いところ。

釈迦に付き従った〈十大弟子〉と呼ばれる方々は、
仏道精進において極めて優れた方々なのでありますが、
その優れた方々の中においてでさえ、
力関係・優劣・地位の上下などが自ずと生じています。

どのような理念・理想・共同幻想を謳ったとしても、
およそ集団化し、組織化されてしまえば、
それら理念・理想等を抱く人々自身でさえも、いつしか、
それら理念・理想等から離れてゆかざるを得ないのであり、
卑近なところで考えてみますと、それは例えば、
スローガンとして「真の平等」を掲げた組織が在ったとしても、
その組織で働く従業員の方々には歴然とした職階があり、
給与等々も「真の平等」とはゆかないようなものでありましょう。

               

この辺りの事情には、“ 世界 ”と“ 業界 ”との違い・・・、
といったこともあろうかと思います。
つまり、
ゴータマ・シッダールタが感得したのは“ 仏教世界 ”。
その後の修行者集団や教団組織が生き、
近現代の宗教団体や宗教法人が生きているのは、
“ 仏教世界 ”のように見えて、実は“ 仏教業界 ”。

“ 世界 ”は、独りで探求し、一人で歩むもの。
“ 業界 ”は、集団で維持し、組織で経営するもの。

仏陀(=釈迦=ゴータマ・シッダールタ)が語った、

『犀(サイ)の角のように、ただ独り歩め』

という言葉には、
人間が「“ 世界 ”寄り」から「“ 業界 ”寄り」へと、
変遷しやすい生き物であることへの警句、
そういった要素が含まれているのかも知れません。

仏教に限らず、これを“ 音楽 ”に置き換えた時、
“ 音楽世界 ”は、宇宙開闢から宇宙終焉まで、
もしくは宇宙開闢以前から宇宙終焉以降も存在し続けるため、
個人が、人間生命として感得できる部分だけを感得し、
独りで探り、一人で浸り、ひとりで深め、
ひとりで楽しむことが出来るものと言えます。
引き換えて、
“ 音楽業界 ”は、個人によって感得されたものを金銭に変え、
広め、利益を上げ、特定集団の維持を図らなければなりません。

“ 世界 ”と“ 業界 ”とは似ているようで、
依って立つ原理や秩序が、まるで違うものと思います。

               

さて〈菩薩〉であります。
古来、仏教において〈菩薩〉は仏道修行者であり、
修行を成就した後には〈如来〉になるとされます。
こうした考えが流布したがゆえに、あたかも〈菩薩〉が、
修行の報酬として〈如来〉へ“ 昇進 ”するかような誤解、
もしくは〈菩薩〉が〈如来〉への“ 昇格 ”を目指して、
修行するかのような誤解が生じることは、
すでに冒頭に記させていただきました。

お恥ずかしい話でありますが、
私自身、そうした誤解を持ち続けておりました。

〈菩薩〉は〈如来〉になりたいわけでもなく、
〈菩薩〉は〈如来〉を目指して修行するわけでもなく、
〈如来〉が〈菩薩〉より偉いわけでもなく、
〈菩薩〉が〈如来〉より劣っているわけでもなく、
〈如来〉と〈菩薩〉との間に資格的境界があるわけではない。

では〈菩薩〉とは、いったい何者なのでありましょうか?

その答えの一つが、今を去ること約1600年ほど前、
中国大陸の北西部に実在した“ 北涼(ほくりょう)” 国において、
曇無讖(385~433 / 本名 “ ダルマクシェーマ ” が音訳され、
通常「どんむせん」と呼ばれる、中インド出身の訳僧)によって
漢訳された、大方等大集経(だいほうどう だいじっきょう)・
巻第十六・虚空蔵菩薩品(こくうぞうぼさつ ほん)・第八ノ三に、
以下の如く謳われています。

“ 空相を相となすも、空はまた無相なり、
 この相を体する者、これを菩薩となす。
 
 滞(たい)なく礙(げ)なく、戯(け)なく動(どう)なく、
 始めなく終わり無き、これを菩薩となす。

 衆生を離れず、衆生の数に非(あら)ずして、
 衆生の性(しょう)の如くなる、これを菩薩となす。 ”
      (偈文引用元:下泉全暁「諸尊経典要義」青山社刊)

本日は紙幅の都合を以って、ここまでとさせて頂き、
次回、この感動的な〈菩薩〉の定義に想いを巡らせます。

               

“ 空相を相となすも、空はまた無相なり、
 この相を体する者、これを菩薩となす。
 
 滞なく礙なく、戯なく動なく、
 始めなく終わり無き、これを菩薩となす。

 衆生を離れず、衆生の数に非ずして、
 衆生の性の如くなる、これを菩薩となす。 ”






              






“ ユ ”の世界

2020-12-06 15:47:21 | 仏教
つい先日のこと、誠に思いがけなくも、
高野山に参拝した方から奥之院・授与品を賜りました。

透かし彫りの《弘法大師・御影(みえい)》であります。
御厚情、心より感謝申し上げます。


桐箱の蓋には、弘法大師(774~835)を表す梵字が書かれていて、

その読み方は“ ユ ”。

弘法大師・空海上人を表す梵字が、なぜ“ ユ ”なのか?
それは梵字“ ユ ”が、本来は弥勒菩薩を表す梵字であり、
弘法大師は、弥勒菩薩の化身とされているからであります。

では、なぜ弘法大師が弥勒菩薩の化身なのか?
それは大師が弟子たちに語り、後の時代になってから、
「御遺告(ごゆいごう)」として伝えられるものの中に、

『吾閉眼の後には必ず方に兜率他天に往生して
 弥勒慈尊の御前に侍すべし
 五十六億余年の後には必ず慈尊と共に下生し・・・』

とあることに由来します。『兜率他天』は、
サンスクリット語の“ トシュッタ ”が漢字圏で音写されたもので、
通常「兜率天(とそつてん)」と呼ばれる天界の一つ。
この兜率天には内院・外院の二院が在るとされ、内院において、
瞑想と説法に励んでおられるのが弥勒菩薩とされています。

「私は兜率天に往生して弥勒菩薩と共に瞑想し、
 弥勒菩薩の説くところを聴き、五十六億七千万年後には、
 必ずや弥勒菩薩と共に再臨します。」

そのように言い遺された大師であるがゆえに、後世において、
“ 大師は弥勒の化身 ”と信じられ、弥勒尊の梵字“ ユ ”が、
弘法大師の梵字として採用されたということであります。

               

そもそも、なぜ弥勒菩薩を表す梵字が“ ユ ”なのか?
御承知置きの通り、弘法大師が開いた密教には、
尊格それぞれに対応した祈りの言葉というものがあり、それらは、
真言(しんごん)・陀羅尼(ダラニ)・咒(しゅ)等と呼ばれます。
これらは古代インドで使われたブラーフミ―文字(梵字)で書かれ、
サンスクリット語で唱えられていたものが、先の「兜率天」と同様、
漢字圏で音写されて伝わったものですので、当然のことながら、
ネイティヴの発音とはかなり異なっています。

弥勒菩薩に対する祈りの言葉には幾つかありますが、
それらの中に根本陀羅尼と呼ばれるものが伝えられていて、
これを、割とネイティヴに近い発音で読みますと、その中に、

“ マハー・ユギャ・ユーギニ・ユゲイシュヴァリ・・・ ”

と出てきます。
“ ユギャ ”とは「結び合う・融け合う」というほどの意味で、
仏教が伝来してゆく過程の中で“ 瑜伽(ゆが)”と音写され、
現在謂うところの“ ヨーガ・ヨガ ”のことを指します。
つまり上記文言の主旨は、弥勒菩薩をして、
「偉大なる瑜伽(=ヨガ)行者」と讃えているものと考えられます。
もっとも、
古代インドの“ 瑜伽 ”と現在の“ ヨガ ”とは同根異体であり、
けっして弥勒菩薩が兜率天の内院にヨガマットか何かを敷き、
様々なポーズに明け暮れているということではありません。

弥勒菩薩は、事象の根源と意識の根源との融合をもたらす、
本来の“ ユギャ・瑜伽 ”の行(ぎょう)に入っているとして、
“ ユギャ・瑜伽 ”の“ ユ ”を以って表されるわけであります。

               

こちらは京都・東寺の念珠。
「大師の御寺(みてら)」と呼ばれる東寺なればこそ、

念珠の母珠(もしゅ)に刻印されているのは、梵字の“ ユ ”。

               

弥勒菩薩と弘法大師、二つの“ ユ ”が下生するまでの期間が、
諸説あるものの、通説として五十六億七千万年と壮大に謳われ、
また弥勒菩薩の源流が古代インドを超えて、
メソポタミア文明とその神話にまで遡ることが出来ると聞けば、
大師が、その著作「般若心経秘鍵」の中で、
梵字を始めとした経典・経文を構成する文字の一つ一つは、

『一字に千理を含む』

と説いておられたことが脳裏に浮かび、
たった一字の“ ユ ”の中にも、広大な時空と無数の想いとが、
秘蔵されているかのように感じられます。

真言密教の世界では、弘法大師は高野山・奥之院において、
今も生きておられる、と信じられています。
それゆえに「没後」という概念そのものが無く、
御年齢は令和2年現在“ 千二百四十六歳 ”と数えられていて、
4年後には「御生誕」と銘打ちつつ、その内実としては、

「御生存 千二百五十年」

が祝われます。


南無大師遍照金剛


              









菩薩

2020-07-05 14:53:33 | 仏教
国宝・阿弥陀聖衆来迎図の左幅で竪箜篌(たてくご)を演奏する、

“ 奏竪箜篌菩薩 ”。竪箜篌は古代アジアで使われたハープ。
(「空海と高野山」展、ポストカードから) 

               

皆様は、〈菩薩(ぼさつ)〉という言葉から、
どのようなイメージを脳裡に描かれ、或いは、
どのような感覚を抱かれますでしょうか。

私自身は〈菩薩〉に対して、優しい・温かい・慈悲深い、
といったイメージを持ちますが、これは能動的にというよりは、
受動的に持ったイメージと言った方が良いのかも知れません。
と申しますのも、仏像・仏画等の仏教美術において〈菩薩〉は概ね、
優しく慈悲深い表情・容貌・佇まいを以って表されますので、
仏像・仏画等を礼拝供養する内に、それらは無意識の層に堆積し、
いつしかパターンとしての〈菩薩イメージ〉といったものが、
自ずと私自身の中に作り上げられてゆくからであります。
私が〈菩薩〉に対して抱くイメージは、つまるところ、
仏像・仏画等が醸す雰囲気が基となっているのだと思います。

〈菩薩〉のイメージはイメージとして、
〈菩薩〉の実像とは、どのようなものなのでしょうか。

               

巷間よく知られているように〈菩薩〉という言葉自体は、
サンスクリット語“ bodhisattva・ボーディサットヴァ ”が、
中国において「菩提薩埵(ぼだいさった)」と音写され、
さらに「菩薩」と縮めて使われるようになったと伝わります。

〈菩薩〉の語源由来は、それで良しとしても、
〈菩薩〉の意味となりますと、これが中々に難しく、
長きに亘る仏教の流れの中では、時代によって解釈に違いが生じ、
〈菩薩〉を語る人の数だけ〈菩薩〉の意味が在るとも言え、
〈菩薩〉の世界が、どれほど広大かつ深遠であるか?は、
今も書店の仏教書コーナーに〈菩薩〉に関する新刊本が並び続ける、
といった辺りからも察せられます。

仏教用語辞典では情報が多過ぎますので、
試みに〈菩薩〉を広辞苑で引いてみますと、そこには、

「さとりを求めて修行する人。
 もと、成道以前の釈迦牟尼および前世のそれを指して言った。
 後に、大乗仏教で、自利・利他を求める修行者を指し、
 自利のみの小乗の声聞・縁覚に対するようになった。
 また観世音・地蔵のように、仏に次ぐ崇拝対象ともされる。」
(広辞苑/第六版/岩波書店)

と書かれていますが、
では「さとり」とは何か、「修行」とは何か、「成道」とは何か、
「前世」とは何か・・・という風に、問いの扉とでもいうものが、
次々に現れてきますので、なかなか理解が及びません。
ただ、広辞苑解説にありました、

「自利・利他」

という概念は、古来より〈菩薩〉の基本的条件に位置づけられ、又、
「自利・利他」という言葉自体は、ある程度分かりやすくもあり、
「自利」のみでは〈菩薩〉から遠く、
「利他」あってこそ〈菩薩〉と成り得るということだと思います。

               

経典の中には、
割とストレートに〈菩薩〉とは何か、に触れているものがあります。
例えば中国・隋代(6世紀後半頃)に成立したとされる、
〈不空羂索咒心経(ふくうけんじゃくじゅしんぎょう)〉には、
〈菩薩〉とは「菩提・薩埵」であることを前提とした上で、

『菩提というは、説いて般若と名付け、
 薩埵というは、即ち是方便なり。』
(文意:菩提とは“ 学び ”、薩埵とは“ 実践 ”のことである。)

と端的に記されています。

『薩埵というは、即ち是方便なり(すなわちこれほうべんなり)』、

の「方便」は、先の「利他」つまり「他者を利する」行いのこと。
〈菩薩〉の源流“ bodhisattva・ボーディサットヴァ ”は、
広辞苑にある通り「さとりを求めて修行する人」の意なので、
〈菩薩〉にとって「修行」とは、
「他者を利する行いを実践すること」と解釈できます。

ここのところをよく噛み締めておりますと、
「修行」という言葉から連想される、滝に打たれたり、断食したり、
座禅瞑想したり等の行いは、「自利の行」としては悪くないものの、
それらが「利他の行」に活かされない、或いは、
「利他の行」を伴わないものであるのならば、
どれほど難行苦行に励んでみたところで、
それは〈菩薩〉の行ではない、という警句にも感じられてきます。

想えば仏道に限らず、どのような分野・業界においても、
常人には真似の出来ないような難行苦行を修めながら、
難行苦行達成の度に、自我なり自尊心なりだけが肥大してゆき、
修行するほどに、はた迷惑な人間になってゆく場合があります。

いわゆる「修行自慢」「業績自慢」「肩書き自慢」でありますが、
〈菩薩〉の世界という視点に立ってみますと、こうしたケースは、
「自利の行」のみが有って、肝心の「利他の行」が抜け落ちた状態、
という風に観ることが出来るのかも知れません。

我が身を振り返ってみますと、
コロナ禍の影響で世の中からマスクが消えた際、
マスクを求めて何軒もの薬局・スーパーを回り、
ついに売り切れ寸前のマスクを見つけ、安堵感の中レジに並ぶ、
そんな私の頭には、「自利」ということしかありませんでした。

状況が状況ということもあり、
その時の自分を顧みて情けない・・・などとは思いませんが、
「利他」というところにフォーカス出来なかった自分は、
少なくとも〈菩薩〉からは程遠いと思います。

               

〈菩薩〉なる存在自体は仏教の産物ですが、
「自利・利他」という観点や方便・手段・実践といったところから、
〈菩薩〉を、ひとつの生き方・生きざまとして捉え、
仏教がどうのということに関わりなく、周りを見渡してみますと、
そこかしこに〈菩薩〉がおられることに気付きます。

冒頭、私自身の〈菩薩〉に対するイメージを、
優しい・温かい・慈悲深い、と書きましたが、
実社会に生き、「自利」は「自利」として自己修養を積みながら、
「利他」にフォーカスして仕事に励む生身の〈菩薩〉は、総じて、
優しいだけ・温かいだけ・慈悲深いだけではなく、
どこかに厳しさや底知れなさといったものを纏い、また、
時に怒り、時に悩み、時に苦しみもがく姿をも見せてくれます。

「自利」に安住しない〈菩薩〉の実像とは、
そうしたものなのかも知れません。

               

国宝・阿弥陀聖衆来迎図の左幅で琵琶を演奏する、

“ 奏琵琶菩薩(そうびわぼさつ) ”。

〈菩薩〉なるものの奏でる一音は、
「自利」のみにあらず、「利他」のみにもあらず、
「自利・利他」の一音でありましょうか。

「あなたが嬉しいと、わたしも嬉しい・・・」

琵琶を奏でる“ 奏琵琶菩薩 ”の微笑みは、
そのような歓びに満ちたものに映ります。


              








諸行無常

2019-05-12 14:59:43 | 仏教
いつもは静かな気ノ森・手前の公園も

野外イベントで賑わっていました。


5月の英語名“ May ”は

ローマ神話の豊穣の女神:マイア/Maia に由来するとかで


耳を澄ますまでもなく

マイアが奏でる5月の変奏曲


マイアが唄う5月の賛歌の数々を

至る所で聴く事が出来ます。

               

先週は、城山八幡宮への「令和」初参拝を書かせて頂きました。
今週は、覚王山・日泰寺へ「令和」初参拝。

こうした〈ストゥーパ〉いわゆる仏塔を眺めておりますと、
自分自身の内側なのか外側なのか判然としないところから、

「諸行無常」

という声なき声、歌なき歌とでも言うべきものが、
寄せては返す大波小波のように聴こえてきます。

元号は改まり、時は流れ、世相は変わり、命は移ろうがゆえに、
心眼曇りがちなワタクシめは、

「諸行無常」

という教えを、
「存在の全ては常態を留めておけない・・」という風に、
どこか空しさを伴った日本的情緒で解釈してしまいますが、
この季節に普遍の世界へと旅立った父のことを偲びながら、
仏塔の前に静かに佇んでおります内に、

私たちが「諸行無常」なのではなく、
「諸行無常」が私たちを生きている。

という原義を、あらためて思い出しました。

               

仏教は、四苦八苦を説きます。

根本的な四つの苦しみとして、
生苦(しょうく):食べてゆくことに関わる全ての苦しみ
老苦(ろうく):老いてゆくことに伴う全ての苦しみ
病苦(びょうく):病いによって引き起こされる全ての苦しみ
死苦(しく):死ぬことにまつわる全ての苦しみ

それらに加えて、
愛別離苦(あいべつりく):愛する者と別れ離れる苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく):怨み憎む者に会う苦しみ
求不得苦(ぐふとくく):求める物が得られない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく):心と身体(五蘊)に関わる苦しみ

今を去る約2500年前、仏教の開祖ゴータマ・シッダールタは、
これら四苦八苦と向き合い、四苦八苦をよく観察し、

食べてゆく為に抱えざるを得ないストレス・
歳を取ること・病気にかかること・
好きな人と別れること・嫌いな人と会うこと・
欲しいものが得られないこと・描いた夢が実現できないこと等々、
いかにも苦しみと思えることの数々も、

「諸行無常」という普遍的法理・法則が、

私たち人間を通して行っている、
極めて自然かつ健全・健康な活動の一環ではないのか・・と、
洞察したのでありました。

凡夫のワタクシめには、何をどう説かれようと、
苦しみは苦しみでしかありませんが、ただ、

人間生命というものを、
「諸行無常」を容れる《器》・「諸行無常」が働く《場》、
として観るという発想の豊かさと視点の自在さには、
ギスギスしたところが無く、何となく大らかで、
仏教の魅力の一つであるように感じます。