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 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

八百富神社

2025-08-10 14:43:53 | 神社仏閣
名古屋駅から東海道本線・豊橋行き快速に乗ること約45分。

降り立ちましたのは蒲郡(がまごおり)駅。

蒲郡駅南口から出て海沿いの道を歩くこと約15分。
竹島水族館が見えてまいりましたが、

本日の目的地は竹島水族館ではございません。
水族館を通り過ぎ、炎天下に歩みを進めますと、

おぉぉ・・観えてまいりました。

早川が向かっておりますのは、あの海上の小島。


竹島(たけしま)であります。

竹島へと掛けられた歩道橋の長さは387メートル。


さ、それでは心気を静めて参りましょう。

「心気を静めて」と申し上げましたのには理由がございます。


ここは島全体が神々の鎮まる聖地。

八百富(やおとみ)神社であります。


御祭神は “ 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)” 。
御存知の通り、
宗像三女神(むなかたのさんじょしん)のおひとりで、
古来 “ 弁才天 ” と習合し同一視されてきた尊格ゆえに、
通称「竹島弁天」。

上掲の御由緒および社伝等によりますと、
今を遡ること約900年前の西暦1145年、
朝廷から三河守(みかわのかみ)を命じられ、
藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)が、この地に赴任します。
俊成の治世手腕は優れていたようで、
未だ草深く未開だった三河の地を経済的文化的に拓いてゆきます。
国司として三河に赴任してから36年後の養和元年(1181)、
その時点で俊成は既に官を辞し出家していたものの、
かねてより俊成の眼には、三河湾に浮かぶ小さな島が、
かの琵琶湖 “ 竹生島(ちくぶじま)” と重なっていたものか、
竹生島に自生する竹を移し植え竹生島の弁才天を勧請します。

こうして竹島弁才天信仰が発祥したのだそうですが、
竹島弁天開創に尽力された藤原俊成卿の銅像が、
竹島の対岸に建っていました。

早川は無学にして俊成卿を存じ上げませんでしたが、
知らなかった人物や出来事を知ることができるのも、
神社仏閣を始め歴史遺構・歴史遺産を訪ねる喜び。
今回、俊成卿について聞きかじってみましたところ、
いやいや硬軟取り混ぜて実に魅力的な人物なのであります。
その辺りはいずれまた稿を改めるとしましても、
今を去る900年前の平安時代後期において、
驚くなかれ “ 90歳 ” まで生きておられます。
因みに明治時代の1万円は、現在の2億円に相当しますが、
平安後期の90歳は、現在の年齢に換算しておいくつ?

ま、それはともかく養和元年(1181)の創建から、
およそ600年程の歳月が流れた享保20年(1735)。

「八百富」の御神号が下賜され「八百富神社」へ。


石段を昇ってまず最初に拝ませて頂くのが宇賀神社。

御祭神は “ ウカノミタマノカミ ” 。
「宇迦之御魂」とも「倉稲魂」とも記述される穀霊神。
弁財天の聖地に祀られるウカノミタマノカミであれば、
自ずと「宇賀神弁才天」が思い浮かびます。

こちらは、

大黒天を祀る大黒神社。

こちらは千歳(ちとせ)神社。

先に触れました藤原俊成卿が祀られています。


引きのアングルを撮り忘れましたが、
こちらが八百富神社の本殿。

夏休みとあって、
お子様連れの御家族が多く御参拝でした。


本殿から奥へと進みますと、

八大龍神社。


八大龍神社から更に歩みを進め、

島の南端、龍神岬へとやってまいりました。


龍神岬からは三河湾が一望出来ます。
耳に届くのは、

竹島の松葉を強く弱く吹き抜ける風の音、
竹島の浜に大きく小さく寄せ返す波の音。

それら全ての音は、

弁才天が奏でる琵琶の音とも想われてまいりました。
(写真は八百富神社の弁天みくじ)

                 

人間には “ 意識 ” というものが有りますので、
意識が生じれば、意識が向かう “ 対象 ” が生じ、
対象が生じれば、対象へ向かう “ 意識 ” が生じます。
例えば人は、水に生かされ、水に洗われ、水に養われと、
水の恩恵に浴しながら暮らしを営んでいるわけですが、
だからと言って常に水の恩恵を意識することはありません。
観方を変えれば、水を使い、水に生かされていることが、
日常として当たり前であるがゆえに、
かえって意識できないということかも知れません。

ただ時折、水の働き、水の徳性といったものに気付き、
あぁ有り難いなぁ・・・と心から思ったり感じたりします。
この「水への感謝」という意識が芽生えた場合、
では、その「感謝」や「祈り」といった意識は、
一体どういった対象に向かうのでしょうか、或いは、
どういった対象に向けられるのが良いのでしょうか。

水道の蛇口や地中の水道管に向かって「ありがとう」、
浄水場を訪れて柵の外から大きな声で「ありがとう」等々、
そういったことも悪くはないのかも知れませんが、
それは水道設備・社会的インフラへの感謝であって、
“ 水そのもの ” への感謝では無かろうと思います。

太古の昔から、水への感謝、水への祈りといった、
言わば “ 敬虔な意識 ” を内界に灯した人々は、
水源、湧水地、泉、河川、滝、湖、海といった、
水場、水辺、水に纏わる場所を訪れ、拝み、祈り、
何らかの祭祀を行ってきました。
そうした祭りごとが積み重なってゆく中で、
“ 水そのもの ” を神格化するという心的作業が繰り返され、
少しずつ少しずつ “ 水の尊格 ” がイメージされ、形を為し、
共同幻想として立ち上がり、時に図像化され、彫像化され、
複数人あるいは大勢に共有され、

やがて「市杵島姫命」「弁才天女尊」「八大龍王」といった、
尊称が付けられ成立していったものと思われます。
つまり、水への感謝、水への祈りといった、
どこか曖昧かつ漠然としていた “ 意識 ” が向かうに相応しい、
確固たる “ 対象 ” が、
長い歳月をかけて生み出されていったということであります。

・・・と、こうクダクダしく書いている内に、
何を書いているのか分からなくなるのが早川ですので、
そうなる前に、本日申し上げたかったことを記します。

私たち命ある存在は、水に生かされ水に育まれています。
洗う、浄める、流す、恵む、養う、育てる、繋ぐ、溶かす等々、
水の働き、水の徳性を想う時、人の内界には、
自ずと水への感謝、水への祈りといった敬虔な意識が生まれ、
そうした敬虔な意識が向かう対象として、

市杵島姫命、弁才天女尊、八大龍王等々、水に纏わる尊格が、
ある意味「便宜的に」生み出されてきました。
便宜的な尊格が存在しなければ、
敬虔な意識は、その向かう先を見出すことが出来ません。

では便宜的な尊格の母体である「本来的な」尊格、
言わば “ 真の本尊 ” とは何でありましょうか。
それこそは、目の前に広がる茫漠たる天地、アメツチ。

名付けようもない存在に名付ける愚かさを自覚しつつ、
大宇宙、大地球、大自然、大生命、大神仏、大音楽とでも。


『心海よ、汝らが我らをして「龍王よ、龍神さまよ」と、
 何かにつけ拝んでくれること、悪い気はせぬ。
 されど宇宙は宇宙の如し、時空は時空の如し、
 現象は現象の如し、生命は生命の如し、事物は事物の如し。
 我ら龍族とて例外ではない。龍神は龍神の如く在り、
 心海、汝もまた汝の如きものとして存在しておるのだ。
 一切は一切の「如く」現われておるに過ぎぬと知り、
 「如きもの」を「まことのもの」と思うは誤りと気付き、
 「如きもの」を通して「まことのもの」を拝むが良い 』

皆様、良き日々でありますように! 


               








アメノコヤネノミコト

2025-08-03 14:50:20 | 神社仏閣
8月に入りました。
自然災害級の猛暑酷暑が続き、
体調を崩されている方も多いのではないでしょうか。

こうしてブログを書いております部屋の温度は38度超え。
早川は、もはや意識朦朧・・・。
皆様、くれぐれも御自愛下さい。

                 

まずはお詫びであります。
先週のブログ「久しぶりの高牟神社」において、
高牟神社の歴史に触れた際、

「平安時代末期に編纂された「尾張国内神名帳」には、
 “ 高牟久天神 ” と記名されていて、
 どうやら現在の高牟神社を指すのだそうです。」

と記し、
八幡神が祀られる以前は天神社だったのか?などと書きました。
しかしながら社伝等々によれば、
八幡神が祀られたのは清和天皇(在位858~876)の頃とされ、
もしそうであるならば、
菅原道真公(845~903)は未だ存命中であります。
“ 天神 ” として祀られるわけがありません。
時系列に合わないことを書き申し訳ございませんでした。

「尾張国内神名帳」に現れる「高牟久天神」と、
現 高牟神社境内に鎮座する「北野天神社」とは、

成立年代に隔たりがあるのかも知れません。
或いは全くの別神社ということも考えられます。
「尾張国内神名帳」は平安時代末期に編纂されたそうで、
この「平安時代」の定義には諸説あるものの、
平安京遷都(794)から鎌倉幕府成立(1192)までとすれば、
平安末期とは1100年代頃でしょうか。
すると道真公が亡くなって200年後くらいということで、
“ 天満天神 ” 信仰は充分に花開き諸国に浸透していたはず。
尾張の国のどこかに、
「高牟久天神」が存在したことは間違いなさそうですが、
それが果たして「高牟神社(古井の八幡)」なのかどうか、
その辺りは諸賢碩学それぞれに見解が異なるようです。

                 

当ブログでは折に触れて訪れておりますところの、
名古屋市は栄(さかえ)に鎮座する朝日神社。

創建は今を去ること約400年前の慶長16年(1611)。
御祭神は天照皇大神(アマテラスオオミカミ)、
天児屋根命(アメノコヤネノミコト)。

日本の神々というのは表記が難しいですよね。
古事記や日本書紀を始めとして、
登場する古書古伝によって漢字表記が違います。
天児屋根命も「天児屋命」と「根」が省かれた記載であっても、
読み方は「アメノコヤ “ ネ ” ノミコト」。

一説にアメノコヤネノミコトは、
“ 天照大御神の岩戸隠れ ” という未曾有の危機に際し、
言葉の力、言霊(コトダマ)の力、発声の力、音律の力、
総じて祈りを込めた “ 声 ” と “ 音 ” の力によって、
光の女神が外へお出ましになることを促したとされ、
これが「祝詞(のりと)」の起こりなのだとか。
それゆえにとでも言うのでしょうか、
「アメノコヤネノミコト」の “ ネ ” とは、
「音(ね)」のことであるという説も散見されます。

この辺りに心の耳を傾けておりますと、
「アメノコヤネ 」は、
「天声音(あめのこわね)」とも聴こえてまいります。


『心海は、今ひとたび龍神の言霊を思い返してみた。
 “ 心海よ、何を小さく考えておる。
 広々と想ってみるがよい。
 汝らの世界で言う「超弦理論」は明らかにしているではないか。 
 宇宙は “ 10の500乗通り ” 或いはそれ以上存在すると ” 』

皆様、良き日々でありますように!


               









久しぶりの高牟神社

2025-07-27 15:08:23 | 神社仏閣
久しぶりに訪れましたのは、
名古屋市は千種区今池に鎮座する高牟(たかむ)神社。

高牟神社の由緒や歴史については既筆のところでありますが、
創建は成務天皇(年代不明、一説に古墳時代)に遡るとされ、
歳月を経て清和天皇(在位858~876)の頃に八幡神が祀られ、
長らく「八幡宮」と称されていたのだそうです。
因みに清和天皇という御方は、8~9歳頃に即位し、
20代後半で御子息に譲位したあと出家し、
一介の修行僧として諸国巡礼に明け暮れ、
一説に相当な難行苦行に励まれたとも伝わります。
そうした厳しい修行が影響したものか、
30歳になるかならないかの若さで崩御されています。

歴史上、高貴の身分が出家する例は枚挙に暇がありませんが、
多くは政治的事情による「名ばかり出家」「見せかけ坊主」。
ところが清和天皇は、そういった黒幕僧侶となることを嫌い、
真の仏道へと歩みを進まれたそうです。
おそらく何らかの強い想いがおありだったのでしょう。

高牟神社の御祭神は、

高皇産霊神(タカミムスビノカミ)
神産霊神(カミムスビノカミ)
応神天皇(おうじんてんのう=八幡神)

境内には菅原道真公(845~903)も祀られています。

ともすると見過ごしがちな末社ではありますが、
平安時代末期に編纂された「尾張国内神名帳」には、
「高牟久天神」と記名されていて、
どうやら現在の高牟神社を指すのだそうです(諸説あり)。
八幡神が祀られる以前は天神社だったのかぁ・・・と、
内界の一隅に天神信仰の明かりを小さく灯す早川には、
感慨深いものがありつつも、
では御祭神たる二柱の産霊神(ムスビノカミ)は、
いつ頃どのような経緯で祀られることになったのか?
その辺りは勉強不足で分かりません。

                 

ところで高牟神社の「高牟(たかむ)」とは、
「鉾(ほこ)」を称えた呼び名だそうですが、
「ほこ」と言いますと「天沼矛(あめのぬぼこ)」。
日本神話「古事記」には、
イザナギ・イザナミの二神が「天沼矛」で世界を撹拌し、
“ オノコロジマ ” を生んだと記されています。
矛(ほこ)の音読みは「む」(用例:矛盾)。
すると「高牟」は「高矛」でもありましょうか。

こちらの写真を御覧下さい。

“ (元) 古井発祥之地 ” とあります。
ブログ冒頭で触れましたように、
高牟神社は清和天皇の頃に八幡神が祀られました。
それゆえに「 古井の八幡」として親しまれてきたわけですが、
今なお “ 古井 ” に湧く水は “ 御霊水 ” とされ、
地元の方々が次々に訪れてはペットボトルに汲んでおられます。

その光景を眺めつつ何となく不思議に想われてきたのは、
そもそも八幡神は「弓矢八幡」とも称されるように、
武道・武術・武芸、総じて「武」の神であるということ。

鉾、牟、矛、そして鉾の美称 “ 高牟 ” と、
どのように書かれようとも、
本来的には戦闘や攻撃に用いられる武器に変わりありません。
ひとつ間違えば自他を害する凶器にも思われますが、
日本神話では天地創造の最重要アイテムであり、
また高牟神社の境内には霊泉が湧き人々の命を養い続けています。

何かを生み出し、何かを養い育てる。
実は「武」の本懐は、創造と生育にあるのであって、
私自身を含めて多くの人々が「武」に抱くイメージの数々、
例えば、戦う、斬り合う、勇猛果敢、獅子奮迅等々は、
“ 真の武 ” からは遠いもの・・・といった感覚が、
歴史の深層から微かに伝わってくるような気がしました。

境内天神社の右隣りには高牟龍神社。

“ 古井の霊泉 ” を守る龍神と思われます。

さて高牟神社の御祭神の内、
高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、
神産霊神(カミムスビノカミ)の二柱に、
天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)を加えた三柱をして、
古来「造化三神」と尊称されます。

造化三神と言えば「大元造化三神報恩之祝詞」。
読みは「だいげんぞうかさんじんへ ほうおんの のりと」。

数ある祝詞の中でも、この祝詞には、

“ 無形の大空へ向かって唱えよ ”

という但し書きが付されています。
この壮大な祝詞では、太陽、月、星々を創造したのは、
造化三神であると説かれた上で、

「またこれ地球(おおつち)に在りては・・・」

と太陽系第3惑星のことが高らかに謳われます。

「壮大な祝詞」と申し上げたのはそれゆえのことで、
遥か大空へ向かって奏上する際の「大空」とは、
紛れもなく「大宇宙(おおぞら)」のことと心得ます。


「またこれ地球に在りては・・・」

皆様、良き日々でありますように!


               








茅輪くぐり 2025

2025-07-20 15:32:15 | 神社仏閣
日本全国津々浦々には有名無名を問わず、
「ご当地グルメ」とか “ ソウルフード ” と呼ばれるものがあります。
名古屋には「なごやめし」と称される料理の数々があるわけですが、
早川は関東から当地へ転居して8年、
「なごやめし」を商う店舗に入ったことがありません。
その理由云々を書き始めますと長くなりますので割愛するとして、
本日は諸般の事情を以て、

名古屋めしの代表格「矢場とん」のロースかつ弁当を頂きます。


早川にとっては初めての「矢場とん」。

添付された “ みそだれ ” をかけて食するのですが、
濃厚とサッパリの間をゆく “ みそだれ ” は、
かつの衣に良く滲みて、聞きしに勝る美味しさでありました。
弁当箱の裏蓋に記されたところによれば、
“ みそだれ ” こそは「矢場とん」の命であり、
そのレシピは門外不出なのだとか。
尾張は “ 醸造 ” の國。
この國に御商売を張る企業の矜持、
その一端を味覚で感じるものでありました。

                 

城山八幡宮の御祭禮 “ 大茅輪くぐり ” には参列できませんでしたが、

大きな茅輪(ちのわ)は7月末まで設置されていますので、


社務所で “ 祓串(はらえぐし) ” を授かり(一体300円)、

作法に則って自らを祓った上で、


茅輪をくぐってまいりました。



こちらは拝殿の西側に設えられた “ 子供用茅輪 ” 。

奥には山神社・神明社・津島社の三社が在り、
山神社には大山祇神(オオヤマツミノカミ)、
神明社には天照大神(アマテラスオオミカミ)、
津島社には建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)と、
三社それぞれに神尊が祀られています。

茅輪神事の起源には諸説あり、
また茅輪伝説には様々なヴァリエーションがあるものの、
共通しているのは上記・津島社に祀られている、
“ スサノオノミコト ” との関わり。

スサノオノミコトが旅の途中で行き暮れた際、
貧しくも誠実な “ 蘇民将来 ” に温かくもてなされ、
その心根に感じて疫病退散の茅輪を授けたと伝わります。
京都の夏を代表する風物詩と言えば祇園祭。
疫病退散を願って1ヶ月に亘り行われる八坂神社の一大祭礼は、
その最終日に境内摂社「疫神社」に茅輪が設置され、
夏越祭の催行を以て締めくくられます。
疫神社(えきじんじゃ)に祀られているのは、
言わずもがな蘇民将来(そみんしょうらい)。

祇園祭の起こりは、今を遡ることおよそ千百年前。
その当時から茅輪が編まれていたのかどうかは分かりませんが、
衛生環境が改善され医療技術や医薬開発が進んだ現代にあって尚、
私たちは疫病退散の祭礼に心惹かれ、
それぞれの土地、それぞれの場所で茅輪をくぐります。

神社仏閣参拝の度に想うことですが、

人は科学的根拠の有る無しだけでは生きてゆけませんよね。


「理」に合うかどうかを考えて進む「合理的世界」は大事ですが、
「理」を超えたところを感じて歩む「超理的世界」もまた大切。

二つの世界の自由往来、自在交流といった辺りが、
私自身にとっては望ましい在り方なのであります。


“ yellow green dragon ”

皆様、良き日々でありますように!


               









久しぶりの若宮八幡社

2025-06-01 15:38:21 | 神社仏閣
名古屋市は栄(さかえ)の南に鎮座する、
名古屋総鎮守・若宮八幡社を参拝してまいりました。

実に久しぶりの参詣で、
令和7年においては、これが “ 初詣 ” 。


当ブログでは何度も訪れている場所であり、
その御由緒等々は既筆のところでありますが、
創建は文武天皇(683~707)の時代に遡ると伝わり、
御祭神は仁徳天皇・応神天皇・武内宿禰命。

武内宿禰は「たけしうちのすくね・たけのうちのすくね」等、
読み方は色々ですが古事記・日本書紀に登場する人物で、
景行天皇~成務天皇~仲哀天皇~応神天皇~仁徳天皇に仕え、
一説に寿命300歳を数えたとも謂われる伝説的家臣。


若宮八幡社では、
年々の干支動物がチェーンソーアートで造像され、
今年は巳年とあって本殿前には仲睦まじき二体のヘビ。

米俵と打ち出の小槌といえば大黒天とネズミですが、
ヘビを絡ませる辺りが斬新ですよね。


若宮八幡社と言えば “ 龍神社 ” 。
高龗神(たかおかみのかみ)が、
“ 白龍大神 ” の尊称で祀られています。

水の神には青い紫陽花がよく似合います。


写真だけを御覧頂くと、
何となく静かな場所と思われるかも知れませんが、

すぐ左手は人と車とが行き交う俗塵喧噪の大通り。


にも拘らず、
神秘静謐の気が醸されているのは、
鎮まるべきものが鎮まるべくして鎮まっているから。

ひととき感謝と喜びに満たされるものでありました。


“ OKAMI Ⅰ” ~ 龗 其の一 ~

皆様、良き日々でありますように!