古今の絵画、
特にルネサンス期宗教絵画に描かれた大天使ガブリエルは、
多くの場合、その右手に印を結び、
左手にユリの花を携えていることに因み、
当地へ転居後の2018年から、
「ガブリエルの左手には」というブログ題で、
名古屋市は千種公園のユリ園を毎年訪れております。
今年も時折小雨のパラつく空模様の下、足を運んでまいりました。

写真は全て2週間ほど前に撮影したもので、
今日現在(令和7年6月22日)の様子ではありません。
昨年は「ガブリエルの左手には 2024」として、
宮沢賢治(1896~1933)「四又の百合」に触れました。
今年は、千種公園のユリを御一緒しながら、

同作者の童話「ガドルフの百合」を読んでみたいと思います。
いま「同作者の童話」と書きましたが、
仮に童話の定義を「児童が読むための物語」とした場合、
「ガドルフの百合」が童話に該当するとは思えません。
そもそも宮沢賢治作品の多くは童話から程遠いもの。
大人にとってさえ難解なそれらを、
“ 童話 ” にカテゴライズするには無理があり、
作品の数々は「賢治世界」としか呼べないものでありましょう。
それはともかく「ガドルフの百合」。

『巫山戯(ふざけ)た楊(やなぎ)の並木と陶製の白い空との下を、
みじめな旅のガドルフは、力いっぱい、
朝からつづけて歩いて居りました。』
(引用元:宮沢賢治「ガドルフの百合」新潮社、以下『』内同書)
冒頭部の記述からは、
ガドルフが旅人であることは察せられますが、
それ以外の情報は少なく、国籍及び年齢不詳、
『小さな器械』の入った『背嚢』を背負った人物というくらい。
背嚢とはリュックサックのこと。
ガドルフとは、

一体何者なのでありましょうか?
歩き通しに歩くうち日も暮れた上に雨雲が湧き始め、
ほどなく雷鳴轟く荒れた天候となったため、
ガドルフは稲光りの中に浮かんだ大きな黒い家へと避難。
誰もいない家の中、寒さに震えつつ窓の外を見ていると、
明滅する雷電に照らされてボンヤリと白く光る何者かが、
こちらを窺っています。
恐る恐る声をかけるガドルフ。
『どなたですか。今晩は。』
何度問うても返事はありませんが、
ひときわ輝く稲妻の光が、何者かの正体を明らかに。
『ははは、百合の花だ。ご返事ないのも尤(もっと)もだ。』
大きな黒い家の庭には白百合が群生していて、

勢いを増す嵐の中、何とか倒れずに立っているのでした。
降り注ぐ雷雨、鳴り止まぬ雷鳴、闇を裂く雷光、
それらに翻弄されつつも果敢に立ち続ける百合。
その姿に何らかの感銘を受けたものか、
『美しい百合の憤(いか)りは頂点に達し、
灼熱の花弁は雲よりも厳めしく、ガドルフは
その凛と張った音さえ聴いたと思いました。』
『その凛と張った音』とは、

一体どのような音なのでありましょうか?
この後ガドルフは旅の疲れから眠りに落ち、夢を見ます。

それは『豹(ひょう)の皮のだぶだぶの着物』を着た男と、
『まっ黒くなめらかによそおっ』た、
まるで『烏(からす)の王』のような男との壮絶な格闘。
殴り合い、蹴り合い、激しく組み合う豹男と烏王。
『奇麗に光る青い坂の上』から彼らはゴロゴロと転がり、
坂の下で闘いを観ていたガドルフに突き当たったところで、
ガドルフは目を覚まします。
奇怪に過ぎる夢に現れた豹男と烏王は、

一体何を喩えたものなのでありましょうか?
起き上がってみると、どうやら嵐は過ぎたようで、
『雨もやみ電光ばかりが空を亘(わた)って』いて、
その光が、
『嵐に勝ちほこった百合の群を、まっ白に照らしました。』
窓の外を見れば、一本の木から滴る不思議な薔薇色の雫。
『これは暁方(あけがた)の薔薇色ではない。
南の蝎(さそり)の赤い光がうつったのだ。
その証拠にはまだ夜中にもならないのだ。』
『南の蝎の赤い光』とは、

さそり座アルファ星で赤色超巨星の “ アンタレス ” 。
アンタレスとは “ アンチ=アレス ” 、
「火星に対抗するもの」の意。
火星もアンタレスも、共に赤い輝きを放つ星でありながら、
古来、火星は戦災をもたらす凶星と恐れられたことを想えば、
その火星に対抗するアンタレスとは、

和平に向かう道を指し示す吉祥の星。
花に花言葉があるように、星にも星言葉があるそうで、
火星の星言葉は「外へ向けて意欲的に行動する力」。
アンタレスの星言葉は「自己の内面を見つめる瞳」。
遥か彼方の吉星から届いた光に染められた一粒の水滴、
そのひとしずくが宿す力に背中を押されてなのかどうか、
ガドルフは次の町へ向けて出発する決意を固めつつ、
物語の終わりに、こう思うのでした。
『おれの百合は勝ったのだ』



詩や小説を始め、文章表現による作品には、
何を言いたいのかが分かりやすいものと、
何を言いたいのかが分かりにくいものとに大別できるかと思います。
「ガドルフの百合」は、
不協和音が連続する “ 現代音楽 ” を聴くような作品で、
なかなか分かりにくいもののように感じられます。
そこで諸賢碩学の方々が著した解説等々を頼ってみますと、
どうやら「ガドルフの百合」という心象風景は、

賢治が当時憧れていた女性への想いが秘めらているのだとか。
野暮にして無粋な早川、
そう言われても今ひとつピンとこないのですが、
今回、私なりに「ガドルフの百合」を読みつつ、
千種公園のユリ園を散策して何となく想起されたのは、
ユリと雷とが呼応する様子。
こちらの写真でも明らかなように、

ユリの雌蕊(めしべ)は空へ向けて屹立しています。
ユリの花姿・花容・花態自体が、

どこかパラボラアンテナを彷彿とさせると共に、
ある種 “ 塔 ” のようにも観えます。

京都は教王護国寺、通称「東寺」境内に建つ五重塔は、
その高さゆえに創建以来、4度に亘って落雷し、
現在の塔は5代目と伝わります。
ユリの雌蕊を、そういった “ 塔 ” と見立ててみますと、
そこには当然のこと “ カミナリ ” が落ちるわけで、
“ カミナリ ” は巷間周知のように “ 神鳴り ” であれば、
ユリという植物には、

天からのメッセージが降りやすいという風にも考えられます。
メッセージということで思い至るとすれば、
その手にユリを捧げ持つ大天使ガブリエルは、
“ 受胎告知 ” を始めとして「神意伝達」の役目を担う、
天界のメッセンジャーでありました。
雷雨、雷鳴、雷光の中に震える謎の旅人ガドルフは、
その背嚢に『小さな器械』を入れていましたが、
賢治はその『小さな器械』の正体を明かしません。
ただ一カ所にだけ、こう綴っています。
『ガドルフはしゃがんでくらやみの背嚢をつかみ、
手探りで開いて、小さな器械の類にさわって見ました。』
神意伝達のメッセンジャー大天使ガブリエルの持つ百合が、
見えざる世界との交信を可能にする “ 塔 ” だと仮定し、
ガドルフ、百合の群生、雷、奇怪な夢といった辺りを想うに、

『小さな器械』というのは、もしかしたら何らかの通信機器、
それも私たちが生きる世界とは違う世界と通信する装置で、
ガドルフは異世界もしくは異次元からやってきた旅人・・・、
などと想像するのは、さすがに行き過ぎかも知れませんが、
そうした想像を膨らませて楽しむことが出来るのも、
これまた賢治世界の深々とした魅力のように思います。
因みに賢治が生きた明治期には、
無線を始め電信通信技術が急速に発展導入されています。



ユリという植物は、
古今の別なく、また洋の東西を問わず、
画家、作家、作曲家等々にインスピレーションをもたらし、

様々な作品を生み出す原動力たり得てきました。
今年も大勢の来園者で賑わったユリの苑。

今回は「ガドルフの百合」を片手に、
賢治の内界に咲いた心象世界の百合と、
千種公園に群生する現実世界のユリと、
二つの世界が淡く交わる領域を彷徨ってみました。
あらためて感じられたのは植物のチカラ。
樹齢数千年とも伝わる屋久島の縄文杉から路傍の草花に至るまで、
植物というのは一見すると、
動かない、語らない、歌わない、奏でないように思えますが、

実は私たちが感知し得ない方法で、
自在に動き、雄弁に語り、繊細に歌い、壮大に奏でているのだと、
その実感を深くするものでありました。
“ Lily & Dragon ”

皆様、良き日々でありますように!






特にルネサンス期宗教絵画に描かれた大天使ガブリエルは、
多くの場合、その右手に印を結び、
左手にユリの花を携えていることに因み、
当地へ転居後の2018年から、
「ガブリエルの左手には」というブログ題で、
名古屋市は千種公園のユリ園を毎年訪れております。
今年も時折小雨のパラつく空模様の下、足を運んでまいりました。

写真は全て2週間ほど前に撮影したもので、
今日現在(令和7年6月22日)の様子ではありません。
昨年は「ガブリエルの左手には 2024」として、
宮沢賢治(1896~1933)「四又の百合」に触れました。
今年は、千種公園のユリを御一緒しながら、

同作者の童話「ガドルフの百合」を読んでみたいと思います。
いま「同作者の童話」と書きましたが、
仮に童話の定義を「児童が読むための物語」とした場合、
「ガドルフの百合」が童話に該当するとは思えません。
そもそも宮沢賢治作品の多くは童話から程遠いもの。
大人にとってさえ難解なそれらを、
“ 童話 ” にカテゴライズするには無理があり、
作品の数々は「賢治世界」としか呼べないものでありましょう。
それはともかく「ガドルフの百合」。

『巫山戯(ふざけ)た楊(やなぎ)の並木と陶製の白い空との下を、
みじめな旅のガドルフは、力いっぱい、
朝からつづけて歩いて居りました。』
(引用元:宮沢賢治「ガドルフの百合」新潮社、以下『』内同書)
冒頭部の記述からは、
ガドルフが旅人であることは察せられますが、
それ以外の情報は少なく、国籍及び年齢不詳、
『小さな器械』の入った『背嚢』を背負った人物というくらい。
背嚢とはリュックサックのこと。
ガドルフとは、

一体何者なのでありましょうか?
歩き通しに歩くうち日も暮れた上に雨雲が湧き始め、
ほどなく雷鳴轟く荒れた天候となったため、
ガドルフは稲光りの中に浮かんだ大きな黒い家へと避難。
誰もいない家の中、寒さに震えつつ窓の外を見ていると、
明滅する雷電に照らされてボンヤリと白く光る何者かが、
こちらを窺っています。
恐る恐る声をかけるガドルフ。
『どなたですか。今晩は。』
何度問うても返事はありませんが、
ひときわ輝く稲妻の光が、何者かの正体を明らかに。
『ははは、百合の花だ。ご返事ないのも尤(もっと)もだ。』
大きな黒い家の庭には白百合が群生していて、

勢いを増す嵐の中、何とか倒れずに立っているのでした。
降り注ぐ雷雨、鳴り止まぬ雷鳴、闇を裂く雷光、
それらに翻弄されつつも果敢に立ち続ける百合。
その姿に何らかの感銘を受けたものか、
『美しい百合の憤(いか)りは頂点に達し、
灼熱の花弁は雲よりも厳めしく、ガドルフは
その凛と張った音さえ聴いたと思いました。』
『その凛と張った音』とは、

一体どのような音なのでありましょうか?
この後ガドルフは旅の疲れから眠りに落ち、夢を見ます。

それは『豹(ひょう)の皮のだぶだぶの着物』を着た男と、
『まっ黒くなめらかによそおっ』た、
まるで『烏(からす)の王』のような男との壮絶な格闘。
殴り合い、蹴り合い、激しく組み合う豹男と烏王。
『奇麗に光る青い坂の上』から彼らはゴロゴロと転がり、
坂の下で闘いを観ていたガドルフに突き当たったところで、
ガドルフは目を覚まします。
奇怪に過ぎる夢に現れた豹男と烏王は、

一体何を喩えたものなのでありましょうか?
起き上がってみると、どうやら嵐は過ぎたようで、
『雨もやみ電光ばかりが空を亘(わた)って』いて、
その光が、
『嵐に勝ちほこった百合の群を、まっ白に照らしました。』
窓の外を見れば、一本の木から滴る不思議な薔薇色の雫。
『これは暁方(あけがた)の薔薇色ではない。
南の蝎(さそり)の赤い光がうつったのだ。
その証拠にはまだ夜中にもならないのだ。』
『南の蝎の赤い光』とは、

さそり座アルファ星で赤色超巨星の “ アンタレス ” 。
アンタレスとは “ アンチ=アレス ” 、
「火星に対抗するもの」の意。
火星もアンタレスも、共に赤い輝きを放つ星でありながら、
古来、火星は戦災をもたらす凶星と恐れられたことを想えば、
その火星に対抗するアンタレスとは、

和平に向かう道を指し示す吉祥の星。
花に花言葉があるように、星にも星言葉があるそうで、
火星の星言葉は「外へ向けて意欲的に行動する力」。
アンタレスの星言葉は「自己の内面を見つめる瞳」。
遥か彼方の吉星から届いた光に染められた一粒の水滴、
そのひとしずくが宿す力に背中を押されてなのかどうか、
ガドルフは次の町へ向けて出発する決意を固めつつ、
物語の終わりに、こう思うのでした。
『おれの百合は勝ったのだ』



詩や小説を始め、文章表現による作品には、
何を言いたいのかが分かりやすいものと、
何を言いたいのかが分かりにくいものとに大別できるかと思います。
「ガドルフの百合」は、
不協和音が連続する “ 現代音楽 ” を聴くような作品で、
なかなか分かりにくいもののように感じられます。
そこで諸賢碩学の方々が著した解説等々を頼ってみますと、
どうやら「ガドルフの百合」という心象風景は、

賢治が当時憧れていた女性への想いが秘めらているのだとか。
野暮にして無粋な早川、
そう言われても今ひとつピンとこないのですが、
今回、私なりに「ガドルフの百合」を読みつつ、
千種公園のユリ園を散策して何となく想起されたのは、
ユリと雷とが呼応する様子。
こちらの写真でも明らかなように、

ユリの雌蕊(めしべ)は空へ向けて屹立しています。
ユリの花姿・花容・花態自体が、

どこかパラボラアンテナを彷彿とさせると共に、
ある種 “ 塔 ” のようにも観えます。

京都は教王護国寺、通称「東寺」境内に建つ五重塔は、
その高さゆえに創建以来、4度に亘って落雷し、
現在の塔は5代目と伝わります。
ユリの雌蕊を、そういった “ 塔 ” と見立ててみますと、
そこには当然のこと “ カミナリ ” が落ちるわけで、
“ カミナリ ” は巷間周知のように “ 神鳴り ” であれば、
ユリという植物には、

天からのメッセージが降りやすいという風にも考えられます。
メッセージということで思い至るとすれば、
その手にユリを捧げ持つ大天使ガブリエルは、
“ 受胎告知 ” を始めとして「神意伝達」の役目を担う、
天界のメッセンジャーでありました。
雷雨、雷鳴、雷光の中に震える謎の旅人ガドルフは、
その背嚢に『小さな器械』を入れていましたが、
賢治はその『小さな器械』の正体を明かしません。
ただ一カ所にだけ、こう綴っています。
『ガドルフはしゃがんでくらやみの背嚢をつかみ、
手探りで開いて、小さな器械の類にさわって見ました。』
神意伝達のメッセンジャー大天使ガブリエルの持つ百合が、
見えざる世界との交信を可能にする “ 塔 ” だと仮定し、
ガドルフ、百合の群生、雷、奇怪な夢といった辺りを想うに、

『小さな器械』というのは、もしかしたら何らかの通信機器、
それも私たちが生きる世界とは違う世界と通信する装置で、
ガドルフは異世界もしくは異次元からやってきた旅人・・・、
などと想像するのは、さすがに行き過ぎかも知れませんが、
そうした想像を膨らませて楽しむことが出来るのも、
これまた賢治世界の深々とした魅力のように思います。
因みに賢治が生きた明治期には、
無線を始め電信通信技術が急速に発展導入されています。



ユリという植物は、
古今の別なく、また洋の東西を問わず、
画家、作家、作曲家等々にインスピレーションをもたらし、

様々な作品を生み出す原動力たり得てきました。
今年も大勢の来園者で賑わったユリの苑。

今回は「ガドルフの百合」を片手に、
賢治の内界に咲いた心象世界の百合と、
千種公園に群生する現実世界のユリと、
二つの世界が淡く交わる領域を彷徨ってみました。
あらためて感じられたのは植物のチカラ。
樹齢数千年とも伝わる屋久島の縄文杉から路傍の草花に至るまで、
植物というのは一見すると、
動かない、語らない、歌わない、奏でないように思えますが、

実は私たちが感知し得ない方法で、
自在に動き、雄弁に語り、繊細に歌い、壮大に奏でているのだと、
その実感を深くするものでありました。
“ Lily & Dragon ”

皆様、良き日々でありますように!





