飛鳥時代、物部氏との戦いに向かう聖徳太子(574~622)が、
大和盆地の西側を南北に走る山系に差し掛かったところ、
山系を構成する或る山の中において毘沙門天を感得します。
驚きつつも戦勝を祈願し、その願いが叶った為、
太子はその山を「信ずべき、貴ぶべき山」と称賛され、以来、
“ 信貴山(しぎさん)”と呼ばれるようになったと伝わります。
その信貴山に建立された朝護孫子寺は、毘沙門天を祀って千四百年。
現在に法灯を伝えています。
その信貴山の名古屋分院・毘沙門寺。

境内には人の気配なく静まり返っていました。
上掲写真、鐘緒の持ち手部分に御注目下さい。

通常“ ビシャモン ”は「毘沙門」と書かれますが、
ここでは「琵沙門」と刻まれているのが御覧頂けるかと思います。
これは「毘」でも「琵」でも、どちらでも構いません。
そもそも“ ビシャモン ”とは、
古代インドで信仰されていた財宝神“ ヴァイシュラヴァナ ”。
この“ ヴァイシュラヴァナ ”が、
中央アジアを経て中国に入り“ ピーシャーマン ”と音写され、
そこに後付けで、ある意味「適当に」漢字を付与したまでのこと。
つまり「毘沙門」であろうと「琵沙門」であろうと、
当てられた漢字自体には何ら意味はないのであります。
それは例えば、
「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」という表記また然りで、
もしも漢字に意味があるとしてしまえば、
「南無阿弥陀仏」なる言葉は、
「南に阿弥陀仏は無い」という、とんでもない誤解を生むことに。
概ね「南無」とは、
「尊敬して委ねる」という意味のサンスクリット語“ ナモ ”が、
先の“ ビシャモン ”と同様、中国で音写され漢字を当てられたもの。
時代が下るにつれ「帰依」という訳語が一般化しました。
仏教者の中には、
この「南無」を、独自に「南夢」と書かれる方もおられます。
只これはこれで、かえって漢字の意味が立ち、
誤解の生じる怖れ無きにしも非ず・・・という気がします。
むしろ一周回って、
「南無阿弥陀仏」は「なむあみだぶつ」や「ナムアミダブツ」、
「毘沙門」は「びしゃもん」や「ビシャモン」と、
平仮名やカタカナで表記する方が、シンプルかつ平易でありながら、
仏教の本源と自在かつ豊かに往来できるのではないか?
などと埒もないことを想ってみたりもします。
何にせよ仏教は、インド、中国、日本・・・と、
異なる言語の国々を伝わってきた為、国際色豊かであると同時に、
どこか「教えの伝言ゲーム」といった側面があり、
誤解や曲解が多発する危うさを孕んでいると申せましょう。



名古屋市美術館で開催中(~9月5日)の

“ グランマ・モーゼス展 ”に行ってまいりました。
御承知置きの通り、“ グランマ・モーゼス ”こと、
アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス(1860~1961)が、
本格的に絵を描き始めたのは、70歳を越えてからのこと。
80歳の時に初の個展が開催され、
徐々にアメリカ内外に作品の魅力が知られるようになり、
やがて大きな名声を博すことになりますが、
モーゼス本人は、一介の農婦であることに誇りを持ち続け、
101歳で亡くなる数か月前まで、絵筆を執り続けます。
今回の展覧会は、
最初期から最晩年に至るまでの多くの作品を拝観でき、
また丁寧な解説によって、独学のモーゼスならではの描画技法や、
絵画に込められた想いの数々を知ることが出来、
大変見応えのある展覧会でした。
19世紀後半から20世紀前半における、
アメリカ農村部の風景や暮らしぶりが活写された絵画の数々は、
観るものをして、ほのぼのとした気持ちにさせてくれますが、
それは“ グランマ・モーゼス ”の温かな筆致によるもの。
よくよく心を凝らして絵画を眺めておりますと、
そこに描かれているのは、大自然の厳しさ、大自然への畏敬、
自給自足の大変さ、村内の人と人との結びつき等々、
けっして「ほのぼの」では済まされない事象の数々。
農作業、牧畜、養鶏はもとより、木々の伐採から家づくり、
砂糖づくり、ローソクづくり、中には七面鳥の屠畜場面もあり、
モーゼス自身が回想しているように、それは働きづめの日々。
それでもモーゼスが描く絵の中の人々に悲壮感はなく、
それぞれが充実感を持ちながら働いているように見えるのです。
この辺りについて、成城大学・名誉教授の千足伸行先生は、
社会学者フェルディナント・テンニース(1855~1936)が提唱した、
“ ゲマインシャフト ”“ ゲゼルシャフト ”の概念を用いて、
分かりやすく説いておられます。
『ゲマインシャフトとは血縁的、地縁的関係に基づく家族、
村落などを指し、そこで支配的なのは情緒的、感情的な絆である。
これに対するのがゲゼルシャフトで、特定の目的、
利害関係などにより成立する契約社会を言い、
会社、企業体などがその典型である。』
(千足伸行「グランマ・モーゼスの失楽園」/
グランマ・モーゼス展・公式図録より/以下の引用は全て同書)
とされた上で、
『モーゼスが終生描いたのはニューヨークやボストンのような
大都会とは無縁の鄙びた農村であり、人々が古い絆で結ばれた
血縁的、地縁的社会(ゲマインシャフト)であった。
生き馬の目を抜くめまぐるしい近代都市からは一世代も二世代も
遅れた、時間が止まったようなスローテンポの世界であった。』
そして
『今となっては失われたモーゼス的世界は、
「何をあくせく明日をのみ思いわずらう」の現代人とは無縁の、
ある種の惜別の情と郷愁なしに見られない
失楽園(パラダイス・ロスト)と言えようか。』
との卓見を以って、モーゼスの世界を讃しておられます。



現代社会(ゲゼルシャフト)は成果主義・等価交換を基本とし、
人間が生産性や効率性、何よりも経済的価値で評価されるため、
便利ではあってもどこか空しく、
快適ではあってもどこか空しく、
情報は多く収集できてもどこか空しく、
仲良く働いているようでもどこか空々しさを抱かざるを得ない社会。
引き換えて、
古い絆で結ばれた血縁的、地縁的社会(ゲマインシャフト)は、
不便ではあるけれど空しくはない社会、
大変ではあるけれど空しくはない社会、
煩わしくはあるけれど空しくはない社会、
という風に捉えることが出来るかも知れません。
先に私は、モーゼス絵画世界の中の人々は、
「それぞれが充実感を持ちながら働いているように見える」
と書きました。
厳しい自然の中、農作業を始めとする労働に伴う苦労は多かれど、
全体として幸せな感じが伝わってきて、換言するならば、
モーゼス絵画には“ 空しさ ”が見当たらず、
“ 空々しさ ”を感じないのであります。
私自身を含め現代社会を生きる人々が、
モーゼス世界に「惜別の情と郷愁」を感じるのは、
無理からぬことなのでありましょう。



高齢期から大輪の花を咲かせた・・・という、
明るいイメージで語られがちなモーゼスですが、
10人のお子さんを出産されるも、5人が夭逝し、
67歳の時には夫トーマスを、72歳の時には次女アンナを、
89歳の時には末息子ヒューを、98歳の時には長女ウィノナを、
見送っておられます。
その時々の心境たるや如何ばかりかと思いながら拝観しましたが、
これが最晩年になればなるほど画業益々進展す、といった感じで、
何か大きな力が絵画に溢れてゆくように感じられました。
もしかしたらそれは、
喜びも悲しみも全てを受け入れてゆく力なのかも知れません。
会場には、完成された作品としては最後の絵画とされ、
言わばモーゼスの絶筆と言われる作品が掲げられていました。
題名“ Rainbow ”~「虹」、モーゼス100歳。
その題名の通り、画面中央に立つ高い木の遥か向こうの空に、
大きな虹が描かれています。
虹は、雨が降ったあとに現れるもの。
あなたの人生に、どれほど雨が降ろうとも、
あなたの人生が、どれほど荒れた天候であろうとも、
それらの全ては、虹の出現に必要なもの。
虹は希望。
あなたの人生には、あなただけの虹が、必ずかかる。
100年という旅路の果てに描かれた虹は、
モーゼスから人々に贈られたメッセージと心得ます。






大和盆地の西側を南北に走る山系に差し掛かったところ、
山系を構成する或る山の中において毘沙門天を感得します。
驚きつつも戦勝を祈願し、その願いが叶った為、
太子はその山を「信ずべき、貴ぶべき山」と称賛され、以来、
“ 信貴山(しぎさん)”と呼ばれるようになったと伝わります。
その信貴山に建立された朝護孫子寺は、毘沙門天を祀って千四百年。
現在に法灯を伝えています。
その信貴山の名古屋分院・毘沙門寺。

境内には人の気配なく静まり返っていました。
上掲写真、鐘緒の持ち手部分に御注目下さい。

通常“ ビシャモン ”は「毘沙門」と書かれますが、
ここでは「琵沙門」と刻まれているのが御覧頂けるかと思います。
これは「毘」でも「琵」でも、どちらでも構いません。
そもそも“ ビシャモン ”とは、
古代インドで信仰されていた財宝神“ ヴァイシュラヴァナ ”。
この“ ヴァイシュラヴァナ ”が、
中央アジアを経て中国に入り“ ピーシャーマン ”と音写され、
そこに後付けで、ある意味「適当に」漢字を付与したまでのこと。
つまり「毘沙門」であろうと「琵沙門」であろうと、
当てられた漢字自体には何ら意味はないのであります。
それは例えば、
「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」という表記また然りで、
もしも漢字に意味があるとしてしまえば、
「南無阿弥陀仏」なる言葉は、
「南に阿弥陀仏は無い」という、とんでもない誤解を生むことに。
概ね「南無」とは、
「尊敬して委ねる」という意味のサンスクリット語“ ナモ ”が、
先の“ ビシャモン ”と同様、中国で音写され漢字を当てられたもの。
時代が下るにつれ「帰依」という訳語が一般化しました。
仏教者の中には、
この「南無」を、独自に「南夢」と書かれる方もおられます。
只これはこれで、かえって漢字の意味が立ち、
誤解の生じる怖れ無きにしも非ず・・・という気がします。
むしろ一周回って、
「南無阿弥陀仏」は「なむあみだぶつ」や「ナムアミダブツ」、
「毘沙門」は「びしゃもん」や「ビシャモン」と、
平仮名やカタカナで表記する方が、シンプルかつ平易でありながら、
仏教の本源と自在かつ豊かに往来できるのではないか?
などと埒もないことを想ってみたりもします。
何にせよ仏教は、インド、中国、日本・・・と、
異なる言語の国々を伝わってきた為、国際色豊かであると同時に、
どこか「教えの伝言ゲーム」といった側面があり、
誤解や曲解が多発する危うさを孕んでいると申せましょう。



名古屋市美術館で開催中(~9月5日)の

“ グランマ・モーゼス展 ”に行ってまいりました。
御承知置きの通り、“ グランマ・モーゼス ”こと、
アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス(1860~1961)が、
本格的に絵を描き始めたのは、70歳を越えてからのこと。
80歳の時に初の個展が開催され、
徐々にアメリカ内外に作品の魅力が知られるようになり、
やがて大きな名声を博すことになりますが、
モーゼス本人は、一介の農婦であることに誇りを持ち続け、
101歳で亡くなる数か月前まで、絵筆を執り続けます。
今回の展覧会は、
最初期から最晩年に至るまでの多くの作品を拝観でき、
また丁寧な解説によって、独学のモーゼスならではの描画技法や、
絵画に込められた想いの数々を知ることが出来、
大変見応えのある展覧会でした。
19世紀後半から20世紀前半における、
アメリカ農村部の風景や暮らしぶりが活写された絵画の数々は、
観るものをして、ほのぼのとした気持ちにさせてくれますが、
それは“ グランマ・モーゼス ”の温かな筆致によるもの。
よくよく心を凝らして絵画を眺めておりますと、
そこに描かれているのは、大自然の厳しさ、大自然への畏敬、
自給自足の大変さ、村内の人と人との結びつき等々、
けっして「ほのぼの」では済まされない事象の数々。
農作業、牧畜、養鶏はもとより、木々の伐採から家づくり、
砂糖づくり、ローソクづくり、中には七面鳥の屠畜場面もあり、
モーゼス自身が回想しているように、それは働きづめの日々。
それでもモーゼスが描く絵の中の人々に悲壮感はなく、
それぞれが充実感を持ちながら働いているように見えるのです。
この辺りについて、成城大学・名誉教授の千足伸行先生は、
社会学者フェルディナント・テンニース(1855~1936)が提唱した、
“ ゲマインシャフト ”“ ゲゼルシャフト ”の概念を用いて、
分かりやすく説いておられます。
『ゲマインシャフトとは血縁的、地縁的関係に基づく家族、
村落などを指し、そこで支配的なのは情緒的、感情的な絆である。
これに対するのがゲゼルシャフトで、特定の目的、
利害関係などにより成立する契約社会を言い、
会社、企業体などがその典型である。』
(千足伸行「グランマ・モーゼスの失楽園」/
グランマ・モーゼス展・公式図録より/以下の引用は全て同書)
とされた上で、
『モーゼスが終生描いたのはニューヨークやボストンのような
大都会とは無縁の鄙びた農村であり、人々が古い絆で結ばれた
血縁的、地縁的社会(ゲマインシャフト)であった。
生き馬の目を抜くめまぐるしい近代都市からは一世代も二世代も
遅れた、時間が止まったようなスローテンポの世界であった。』
そして
『今となっては失われたモーゼス的世界は、
「何をあくせく明日をのみ思いわずらう」の現代人とは無縁の、
ある種の惜別の情と郷愁なしに見られない
失楽園(パラダイス・ロスト)と言えようか。』
との卓見を以って、モーゼスの世界を讃しておられます。



現代社会(ゲゼルシャフト)は成果主義・等価交換を基本とし、
人間が生産性や効率性、何よりも経済的価値で評価されるため、
便利ではあってもどこか空しく、
快適ではあってもどこか空しく、
情報は多く収集できてもどこか空しく、
仲良く働いているようでもどこか空々しさを抱かざるを得ない社会。
引き換えて、
古い絆で結ばれた血縁的、地縁的社会(ゲマインシャフト)は、
不便ではあるけれど空しくはない社会、
大変ではあるけれど空しくはない社会、
煩わしくはあるけれど空しくはない社会、
という風に捉えることが出来るかも知れません。
先に私は、モーゼス絵画世界の中の人々は、
「それぞれが充実感を持ちながら働いているように見える」
と書きました。
厳しい自然の中、農作業を始めとする労働に伴う苦労は多かれど、
全体として幸せな感じが伝わってきて、換言するならば、
モーゼス絵画には“ 空しさ ”が見当たらず、
“ 空々しさ ”を感じないのであります。
私自身を含め現代社会を生きる人々が、
モーゼス世界に「惜別の情と郷愁」を感じるのは、
無理からぬことなのでありましょう。



高齢期から大輪の花を咲かせた・・・という、
明るいイメージで語られがちなモーゼスですが、
10人のお子さんを出産されるも、5人が夭逝し、
67歳の時には夫トーマスを、72歳の時には次女アンナを、
89歳の時には末息子ヒューを、98歳の時には長女ウィノナを、
見送っておられます。
その時々の心境たるや如何ばかりかと思いながら拝観しましたが、
これが最晩年になればなるほど画業益々進展す、といった感じで、
何か大きな力が絵画に溢れてゆくように感じられました。
もしかしたらそれは、
喜びも悲しみも全てを受け入れてゆく力なのかも知れません。
会場には、完成された作品としては最後の絵画とされ、
言わばモーゼスの絶筆と言われる作品が掲げられていました。
題名“ Rainbow ”~「虹」、モーゼス100歳。
その題名の通り、画面中央に立つ高い木の遥か向こうの空に、
大きな虹が描かれています。
虹は、雨が降ったあとに現れるもの。
あなたの人生に、どれほど雨が降ろうとも、
あなたの人生が、どれほど荒れた天候であろうとも、
それらの全ては、虹の出現に必要なもの。
虹は希望。
あなたの人生には、あなただけの虹が、必ずかかる。
100年という旅路の果てに描かれた虹は、
モーゼスから人々に贈られたメッセージと心得ます。





