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 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

休眠打破(きゅうみんだは)

2017-11-26 16:30:55 | 日常
気の森に生きる樹々の多くは常緑樹ですので

錦秋というわけにはまいりません。

それでも場所によっては

晩秋のかがり火とでも申しましょうか



落葉樹の絶唱を聴くことができます。

               

気ノ池のほとりに佇んでおりますと、
桜の枯れ葉が一枚、また一枚と降って来ます。
枯れ葉は私の坊主頭を撫で、みすぼらしい肩に触れ、
ふわりと地上に還ります。

その一枚によって行われた光合成の活動量が、
どれくらいのものであったのかは分かりませんが、
そこから生産された酸素は大気に溶けて、
間違いなく私を生かしてくれました。

日常生活ではほとんど意識することのない、
太陽系のシステムと異種生命体の緻密な働きとが、
私たちの存在を根底から支えていることの不思議さと有り難さ。
晩秋は、
自然に対する感謝と謙下の心を新たにする季節でもあります。

               

一年の営みを終えた枝葉の付け根には

既に来春の開花に向けた蕾が力強く上を向いていました。

桜は、その命の営みにとっては試練となる冬という季節が、
寒ければ寒いほど、厳しければ厳しいほど、
春の巡りに大きな花を数多く咲かせるといいます。

〈休眠打破〉として広く知られている桜の生態は、
別の環境を望んでも自らは移動できない宿命を負った植物が、
置かれた環境を最大限に利用して命の存続を図る働きの一つ。

人も又、たとえ気に染まない環境であろうと、
先ずはその環境から学べることを学び、
自分だけの価値と意味とを沈黙の内に紡いでゆくことが、
大切なことなのかも知れません。

逆境によって目覚め、ストレスを開花のエネルギーに変える。
〈休眠打破〉という、進化の過程で獲得された植物活動からは、
しなやかな強さと静かな闘志を教えられます


皆さま、良き日々でありますように!






              









よさこい幻想 ~ 龍馬の歌

2017-11-19 13:31:00 | 音楽
今年は、坂本龍馬没後150年。

先週の「よさこい幻想~お龍(りょう)の歌」に引き続き、
今週は「よさこい幻想~龍馬の歌」をお届けさせて頂きます。

今を去ること10年以上前、
想いひとつで作曲したものにつき、至らない楽曲ではありますが、
そこは御容赦を願いまして、録音当時まだ20歳を過ぎたばかりの
若きテノール奏者から溢れ出る歌のチカラを、
お楽しみ頂ければと思います

それにしても10年を越える歳月というものは、
私自身がそうであるように演奏家の方も転居をなされ、
御連絡等を差し上げられない状況を生むものであります。

諸般の事情を勘案し、
拙曲の公開が当時お世話になった演奏家の方にとっては
不愉快になる場合も有り得ることを恐れ、
お名前の表示および記載等は控えさせて頂きました。

よさこい幻想 ~ 龍馬の歌 ~



               

さてワタクシめのマナコは、
歴史上の定説や先入観というもので曇りにくもり、
坂本龍馬は暗殺されたものと思い込んでおりました。

もっともこの思い込みには、
英雄や重要人物の生涯に訪れる〈暗殺による最期〉という
アルコール度数の高い物語性に酔いたい・・・
そんな気持ちも多分に含まれています。

しかしながら先日、
碩学・中村彰彦先生がお書きになった記事を読み、
酔いから醒め、眼から鱗が落ちる思いに。
その記事がこちら

「さる慶応二(一八六六)年一月二十一日、
 薩長同盟締結に立ち会った龍馬は、二十三日、
 長府藩士三吉慎蔵とともに伏見の船宿寺田屋に宿泊。
 伏見奉行所の捕吏たちに踏みこまれたが、 
 二人をピストルで射殺して伏見の薩摩藩邸に逃れた。
 京都見廻組が龍馬を追跡し、ついに斬ったのは
 その罪を咎めてのことであり、暗殺ではない。」
(引用元:中日新聞連載/中村彰彦「幕末・明治の残照」87)

事件の容疑者と捜査機関というシンプルにして明快な構図。

私の凡眼は出来事の枝葉に迷い、
碩学の慧眼は事象の根幹を見透します。


皆さま、良き日々でありますように!




              









よさこい幻想 ~ お龍(りょう)の歌

2017-11-12 14:58:01 | 音楽
今年は、坂本龍馬没後150年のメモリアルイヤー。
10年以上前の音源で恐縮ではありますが、
ご視聴頂けましたら幸いに存じます。

「よさこい幻想 ~ お龍(りょう)の歌 ~」


ソプラノは、家城涼子さん。
チェロは、佐藤千鶴子さん。

つたない楽曲・寒々しい録音環境にもかかわらず、
豊かな音楽精神で楽曲に命を賜りましたことを、
今もって深く感謝申し上げております。
ありがとうございました。

               

巷間よく知られた事ながら、
お龍さんは龍馬亡きあと土佐に身を寄せるものの、
生活習慣の違い・龍馬の実家を含む諸々の人間関係に疲れ果て、
ひとり土佐を離れます。

その後、各種職場で働きつつ再婚なさり、
名前も「ツル」と改めておられます。

しかし新しい伴侶との生活は、
どうやら幸せとは程遠いものだったようで、
晩年は酒量が増え、酔う度に

「うちはなぁ、坂本龍馬の妻やったんや・・・」

そんなクダを巻いておられたそうです。

坂本龍馬と結び合った日々を心の支えとしておられたことが、
切なくも甘やかな痛みを伴って伝わってきます。

               

お龍さんは、激動の幕末から近代日本の黎明期にかけてを、
様々な御苦労を経験されながらも、たくましく生き抜き、
その生涯を全うされました。

翻って現代、
家庭にあっては夫の親・兄弟・親戚との関わりに悩み、
職場にあっては仕事と人間関係に心身を擦り減らし、
社会にあっては男性優位という壁にタメ息をつく、
そうした女性は多くおられると思います。

言わば現代社会を生きる〈お龍さん〉たち。
その存在に、畏敬の念と感謝の心を捧げるものであります。


皆さま、良き日々でありますように!



              









「午後8時の訪問者」

2017-11-05 13:35:31 | 映画
ジェニーは、小さな診療所を切り盛りする若き女医。
医師としての腕の良さと医療従事者としての真摯な姿勢とで、
ジェニーの診療所にはひっきりなしに患者さんが訪れます。
そのせいか彼女は少し疲れ気味。

その日、いつも通り午後7時に閉診し、
研修に来ている医学生へアドヴァイスを施すものの、
心を閉ざす研修生との間に些細な感情の行き違いが・・・と、
そんな中、午後8時に診療所のドアブザーが鳴ります。

研修生はドアを開けようと立ち上がりますが、
ジェニーは、彼に対する苛立ち紛れに言い放ちます。

「診察時間を過ぎているのだからドアを開けなくていい!」

翌日、診療所近くの川べりで少女の遺体が見つかります。
警察による周辺防犯カメラの映像解析により、
少女は死亡推定時刻直前の午後8時、何らかの助けを求めて
診療所のドアブザーを鳴らしていたことが分かりました。

その事実を知ったジェニーは後悔します。

「あの時、ドアを開けていたら、
 少女は死なずに済んだかも知れない」

少女は身元不明のまま、荒れた無縁塚に埋葬されます。
自責の念に駆られるジェニーは事件の真相を探りますが、
その過程で浮かび上がって来るのは、
人間が持つ表と裏・社会が抱える光と影・日常に潜む真実と嘘。
そして意外な事実が明らかに。

物語の終盤、犯人と思われる人物Aと対峙するジェニー。
Aは開き直り、彼女に訴えます。
「あれは事故だったんだ。事件を蒸し返して何になる。
 少女は身元不明なのだし、既に死んでいる。」

ジェニーは即座に言い返します。
「少女は私たちの中に生きている。」

               

私たち人間は、
日常において様々な選択を迫られながら生活しています。
昼食に何を食べるか?というような小さな選択から
何の職業に就いて生きてゆくか?というような大きな選択まで、
数ある選択肢の中から一つだけを選ぶことしか出来ません。

「あの時、もしドアを開けていたら・・・」

割り切れない思いを引きずり続ける女医ジェニーの姿は、

「あの時、もし違う学校に入学していたら」
「あの時、もし違う会社に入社していたら」
「あの時、もし違う誰かと結婚していたら」

そんな想いを抱く多くの人々の姿と重なります。

               

つえが手放せない御高齢の患者さんを介助しながら、
慎重に2段の段差を降り、そこでゆっくりと向きを変え、
右手の診察室に入ってゆく静かなラストシーン。

淡々とした流れの中に深い淵をのぞかせる小品。
名匠ダルデンヌ監督によるベルギー=フランス映画
「午後8時の訪問者」


秋の夜長。
皆さま、良き日々でありますように