精神科医・神田橋條治先生は、こう記されています。
「ヒトは、
生体とコトバ文化との併存を生きることで人となった。」
(神田橋條治著「精神医療面接のコツ」岩崎学術出版」)
寝ても覚めても、上記の至言が頭の中を巡っています。
と言うより、故意に巡らせています。なぜなら、鈍い頭の私は、
故意に巡らせていないと、至言の真意に到達できないからです。
あらゆる言語活動および言語と共にある全ての生活活動に際し、
それらの一つ一つが、又それら一連の流れが、
生体の求めるところに従っているのか?
コトバ文化の求めるところに従っているのか?
生体とコトバ文化の、どちらの割合が大きいのか?等々、
生体とコトバ文化との葛藤という視点が、
自身と他者の命を考える上で極めて重要な鍵となることを、
神田橋先生の御著書から学んでいる次第であります。



様々な障害と共に生きる方々が紡いだ詩と、
その詩にインスパイアされた各界の方々が創造したアートと、
二つが響き合って一つの世界を醸し出す作品展。

第24回NHKハート展in名古屋(~28日)に行ってまいりました。
視覚に障害があるにもかかわらず、
「顔を上げると
目いっぱいの 緑 緑 緑」
と、全身で緑を感じ、緑を謳われる方。
聴覚に障害があるため、コミュニケーションに悩み、
「まるで相手が氷の中にいるよう
氷の表面を私は掻く」
と嘆かれる方。
日常生活の中で、私自身が感じ得ないことを、
チカラの凝縮された言葉によって感じさせて貰える、
貴重な時間となりました。



ただ名古屋開催のハート展は、どういうわけか、
地下鉄駅の改札に隣接する、
地下通路「セントラルギャラリー」の壁に並べられいて

これは「ギャラリー」ではなく雑踏空間であります。
関東在住時、ハート展には何度も伺いましたが、
どこの会場でも、会場面積の大小に差こそあれ、
適切なスペースが設けられ、
訪れる人々が作品と向き合える空間作りが施されていました。
人通りの多い地下街通路の壁に作品を並べておけば、
通行人の眼に止まるだろう、という発想かも知れませんが、
そうした発想は、
商業広告や宣伝ポスターの類に対して為されるべきで、
障害者の方々が紡いだ〈言の葉〉と、
その〈言の葉〉と共に揺れる各界の方々との協同作品は、
千人が一回見ればいい、というようなものではなく、
一人が千回観て考える、という性質のもの。
もう少し落ち着いた空間で、
作品の数々と向き合いたかったなぁ、と思うものであります。



冒頭に引用させて頂いた神田橋條治先生の至言
「ヒトは、
生体とコトバ文化との併存を生きることで人となった。」
この〈コトバ文化〉を形成している「コトバ」・
ハート展で出会った「ことば」・
日々使用している「言葉」。
言葉の語源は、事実のほんの一端しか伝えられない・・・、
という意味を表す「事の端(ことのは)」だったと聞きますが、
それはともかく、コトバの始源というものを考えますと、
どうにも分からなくなります。
これは「蓮・はす・ハス」と呼び慣わされているものですが、

実は「蓮」でも「はす」でも「ハス」でもないのではないか、
そのように思えてきます。
ではLOTUSでしょうか?

それともサンスクリット語系のパドマでしょうか?





「ヒトは、
生体とコトバ文化との併存を生きることで人となった。」
(神田橋條治著「精神医療面接のコツ」岩崎学術出版」)
寝ても覚めても、上記の至言が頭の中を巡っています。
と言うより、故意に巡らせています。なぜなら、鈍い頭の私は、
故意に巡らせていないと、至言の真意に到達できないからです。
あらゆる言語活動および言語と共にある全ての生活活動に際し、
それらの一つ一つが、又それら一連の流れが、
生体の求めるところに従っているのか?
コトバ文化の求めるところに従っているのか?
生体とコトバ文化の、どちらの割合が大きいのか?等々、
生体とコトバ文化との葛藤という視点が、
自身と他者の命を考える上で極めて重要な鍵となることを、
神田橋先生の御著書から学んでいる次第であります。



様々な障害と共に生きる方々が紡いだ詩と、
その詩にインスパイアされた各界の方々が創造したアートと、
二つが響き合って一つの世界を醸し出す作品展。

第24回NHKハート展in名古屋(~28日)に行ってまいりました。
視覚に障害があるにもかかわらず、
「顔を上げると
目いっぱいの 緑 緑 緑」
と、全身で緑を感じ、緑を謳われる方。
聴覚に障害があるため、コミュニケーションに悩み、
「まるで相手が氷の中にいるよう
氷の表面を私は掻く」
と嘆かれる方。
日常生活の中で、私自身が感じ得ないことを、
チカラの凝縮された言葉によって感じさせて貰える、
貴重な時間となりました。



ただ名古屋開催のハート展は、どういうわけか、
地下鉄駅の改札に隣接する、
地下通路「セントラルギャラリー」の壁に並べられいて

これは「ギャラリー」ではなく雑踏空間であります。
関東在住時、ハート展には何度も伺いましたが、
どこの会場でも、会場面積の大小に差こそあれ、
適切なスペースが設けられ、
訪れる人々が作品と向き合える空間作りが施されていました。
人通りの多い地下街通路の壁に作品を並べておけば、
通行人の眼に止まるだろう、という発想かも知れませんが、
そうした発想は、
商業広告や宣伝ポスターの類に対して為されるべきで、
障害者の方々が紡いだ〈言の葉〉と、
その〈言の葉〉と共に揺れる各界の方々との協同作品は、
千人が一回見ればいい、というようなものではなく、
一人が千回観て考える、という性質のもの。
もう少し落ち着いた空間で、
作品の数々と向き合いたかったなぁ、と思うものであります。



冒頭に引用させて頂いた神田橋條治先生の至言
「ヒトは、
生体とコトバ文化との併存を生きることで人となった。」
この〈コトバ文化〉を形成している「コトバ」・
ハート展で出会った「ことば」・
日々使用している「言葉」。
言葉の語源は、事実のほんの一端しか伝えられない・・・、
という意味を表す「事の端(ことのは)」だったと聞きますが、
それはともかく、コトバの始源というものを考えますと、
どうにも分からなくなります。
これは「蓮・はす・ハス」と呼び慣わされているものですが、

実は「蓮」でも「はす」でも「ハス」でもないのではないか、
そのように思えてきます。
ではLOTUSでしょうか?

それともサンスクリット語系のパドマでしょうか?




