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 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

広目天

2025-05-04 15:47:38 | 仏教関係
5月に入りました。
季節としては晩春に当たるのでしょうが、

体感としては初夏の陽気であります。


ゴールデンウィークを楽しまれている方々も多いことと思います。

早川も昨日(令和7年5月3日)から4連休ではありますが、
諸般の事情により家の中に籠らざるを得ず、
“ 黄金 ” 週間というわけにはいかなくなりました。


ならば陽光降り注ぐ写真の数々は何なのか?と申せば、

どれもが先月参拝時のもの。


家の中に籠らざるを得ないとは言え、
これも連休明けからしっかりと働くための、
体調を整える良い機会と捉えてみますと、

何となく有り難く感じられてまいります。

                 

話は変わって「広目天(こうもくてん)」であります。

造像として有名なのは東大寺戒壇院に鎮まる広目天像。
8世紀に作られ国宝に指定されている塑像については、
尽きせぬ想いがあり、あらためて書かせて頂くとして、
本日は広目天とは何者かという辺りを少し。

広目天はサンスクリット名 “ ヴィルパークシャ ” 。
原義は「様々な目つき、種々の眼差し」で、
特には「険しい目つき、鋭い眼差し」の意。
その理由は、
広目天の役目が、悪しき者、ヨコシマな者、外道等々、
世界に害悪を為す者を監視することにあるからとされます。
世界を守護するため「広」く「目」を配るがゆえに「広目天」。
つまり「みる」ということに特化した尊格と言えますが、
この「みる」ということを、
見る、観る、視る、診る、看る・・・と解いてみますと、
広目天は、世界に害悪を為す者を監視するに留まらず、
私たち一人一人の生き方、生きざま、心根、信条、
死生の在りよう等々、それら全てを「みている」存在、
という風にも思われてまいります。

広目天は、
四天王の一尊として西方を司っているわけですが、
どういった眷属を率いているかと言えば、
これが “ 全ての龍族 ” 。
確かに広目天を拝む際に唱える祈りの言葉の中には、
“ ナーガ・ジハタエイ ” 、

『龍族の王よ』

とあります。
「龍 = 水」と観想してみますと、広目天は “ King of water ” 。
私たち一人一人は、
水に見られ、水に観られ、水に視られ、水に診られ、
水に看られている、ということかも知れません。

広目天の梵字は “ ヴィルパークシャ ” の “ ヴィ ” ですが、
龍神や龍王等々、龍族を表す梵字は “ na / ナ ” 、
“ ナーガ(龍)” の “ na / ナ ” であります。
見よ、観よ、視よ、診よ、看よ

皆様、良き日々でありますように!


               








毘沙門天の奥さんには・・・

2025-04-27 17:54:15 | 仏教関係
本日(令和7年4月27日)は「寅の日」ということで、

先ほど信貴山・名古屋別院・毘沙門寺を参拝してまいりました。

毘沙門天王には “ 吉祥天 ” という奥さんがいるわけですが、
一説に、この吉祥天女尊には「黒闇天・黒耳天(こくにてん)」
等々と呼ばれる妹さんがいると伝わります。

姉の吉祥天が福徳光明をもたらすのとは対照的に、
妹の黒闇天は、その物騒な名前からも察せられるように、
貧苦貧困をもたらす、いわゆる “ 貧乏神 ” なのだとか。
この姉妹は、いつも一緒、どこでも一緒。
“ 光 ” あるところ “ 影 ” あり、
“ 影 ” あるところ “ 光 ” ありと、
そういった辺りが説かれているようにも思われます。

只、どのように仲睦まじい姉妹といえども、
いついかなる時も一緒というのは考えにくいので、
吉祥天女の一側面として黒闇天女が在り、
黒闇天女に見えて本当は吉祥天女ということかも知れません。
或いは又、“ 人 ” というのは哀しい哉、
経済的に潤うと精神的に涸れること無きにしも非ず。
という具合に吉祥天と黒闇天という姉妹神を巡っては、
アレコレと想像を膨らませることが出来そうです。

とは言え、正直申し上げて薄徳の我が身などは、
出来るならば貧苦は勘弁してほしいと願う者。
財運をもたらす吉祥天を拝んでも、
貧苦をもたらす黒闇天が一緒なら「意味ないじゃん」、
などとバチアタリなことを思ったりもするのでありますが、
そうした世俗の思いに応えるべく、

『実際、吉祥天に祈願する場合、
 必ず黒耳天も供養し、おとなしくしてもらう。
 その際、「般若心経」と大随求菩薩の真言を唱える。
 この真言を唱える者に、
 黒耳天は悪さをしないとされるからだ。』
(引用元:大森義成「仏尊のご利益・功徳事典」学習研究社)

といった黒耳天・黒闇天への対応策も用意されてます。
引用文中『大随求(だいずいぐ)菩薩』の「大随求」とは、
「人々の求めに随(したが)って大自在」の意。
心願成就・滅罪増福に霊験あらたかな尊格とされ、
京都、清水寺の随求堂に祀られる秘仏としても、
よく知られたところでありましょうか。

今こうして書いていて脳裡に甦りしことあり。
あれは確か四半世紀ほど前、清水寺を訪れた際のこと。
随求堂の堂内壁面に設えられた大念珠を頼りとして歩む、
“ 胎内巡り ” を行ったのですが、胎内巡りの途中個所に、
大随求菩薩の梵字『ハラ』の一字が、
真っ暗闇の中に浮かんでいました。

想えば暗闇の中で出会う光は、どんなに小さくとも有り難く、
トンネルを出たあとの光は、痛いほどに眩いもの。
黒闇天とも黒耳天とも呼ばれる一見ネガティヴな尊格は、
実は般若心経や大随求菩薩との御縁を深めるための、
ある意味 “ 方便 ” の尊格とも考えられます。

そもそも吉祥天の妹であり、毘沙門天を義兄と仰ぐ尊格が、
衆生に貧苦貧困を与えるはずが無いと個人的には思います。

何にせよ、吉祥天と黒闇天。
仲良し姉妹神が人々にもたらすものには違いあれど、
どちらにも意味があり、どちらも必要で、
どちらも有り難いもの・・・、
そんな風に想えたら幸せなのかも知れませんね。


龍珠に浮かぶのは大随求菩薩の梵字『ハラ』
大随求菩薩はサンスクリット名 “ マハープラティサラー ” 。
随求を意味する “ プラティサラー ” の “ プラ ” が音写され、
『ハラ』とされたと伝わります。

皆様、良き日々でありますように!


               









螺旋の明王

2025-02-09 14:21:28 | 仏教関係
お寒うございます。

本年(令和7年)の干支が “ 巳 ” ということもあり、
仏教に説かれる尊格と “ ヘビ ” との関係が折に触れて想われ、
年明けブログでは、その辺りについて浅慮を巡らせました。

本日は、五大明王の中の一尊に触れてみたいと思います。
御承知置きの通り、京都・教王護国寺(東寺)講堂の内部には、
立体曼荼羅によって表された密教世界が広がっています。
そこは荘重荘厳、神秘深閑、時空超越、威儀無双・・・、
早川の乏しい語彙力では到底言い表せない圧倒的空間。
その圧倒的空間を圧倒的空間たらしめている要因の一つが、
忿怒の動態すさまじき五大明王でありましょう。

それら明王の中に、
手首足首を始め全身の各所に蛇を巻き付けた尊格がおられます。
その名、

軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)

軍荼利明王の「軍荼利」とは、
サンスクリット語の “ クンダリ ” が音写されたもので、
「とぐろを巻くもの / 螺旋を有するもの」の意。
語源語幹を同じくする “ クンダリーニー ” は、
一説にヒンズー教の女神とも謂われ、
時に「雌の蛇」として顕現するとも伝わります、
古代インドの身体観においては、
人間の体内に “ チャクラ ” と呼ばれるエネルギー叢が7つ存在し、
女神 “ クンダリーニー ” は脊椎の最下部 “ 第1チャクラ ” に、
とぐろを巻いて眠っていると観想されました。

密教学の泰斗にして種智院大学学長をお務めになられた、
故 頼富本宏先生(1945~2015)は、
軍荼利明王について、

『直接のイメージとしては、
 後世、タントリズムの流行とともに大きく取り上げられた
 クンダリーニー・ヨーガと無関係ではないと思われます。』
(引用元:頼富本宏「すぐわかるマンダラの仏たち」東京美術刊)

と綴られています、
巷間耳にする “ クンダリーニー・ヨーガ ” なるものは、
脊椎基底部に「とぐろを巻いて眠っている」蛇を覚醒させ、
頭頂部に在るとされる “ 第7チャクラ ” に到達させることで、
女神 “ クンダリーニー ” と融け合い、
至福の境地を得ることを目指すメソッドなのだとか。

『そういう点では、軍荼利明王は、
 この蛇のエネルギーを象徴したものであるとともに、
 蛇を必須の飾りとするシヴァ神の要素を
 如実に表現した尊格と考えられます。』(前掲書)

“ クンダリーニー ” が、どういうものなのか?
様々な人が様々な解釈を施しておられるようで、
無学の早川にはよく分かりません。
また古代インドの身体観は神秘的に過ぎ、
“ チャクラ ” や “ クンダリーニー ” 等々の言葉は、
言葉の響き自体が魅惑的かつアルコール度数が高く、
不徳の我が身が摂取量を誤れば酩酊状態に陥る危険があり、
個人的には遠巻きに眺める程度に留めております。

只、例えば東寺の講堂に参拝し、
平安時代の承和6年(839)に造像されたと伝わる、
かの軍荼利明王を見上げつつ手を合わせておりますと、
これが不思議なる哉、
“ チャクラ ” や “ クンダリーニー ” の何たるかを知らずとも、
唯そこに “ クンダリ ” という純度の高いエネルギーが、
「とぐろを巻くもの / 螺旋を有するもの」という意味のままに、
渦を巻きながら立っていることが実感されます。

尤も、それは一面八臂にして全身に蛇体の螺旋を纏い、
“ 三鈷大瞋印(さんこだいしんいん)” と呼ばれる印を結び、
忿怒の形相すさまじい姿から発せられる異様な覇気、
その覇気に打たれることで生じる妄想の類いかも知れません。

・・・ならばと開き直って、
その妄想を妄想のままに膨らませてみますと、
私たちの太陽系が在る天の川銀河の形態、
私たちの体内で働いている遺伝子の構造、
竜巻や渦潮、カルマン流を始めとする自然現象、
花びら、松かさ、オーム貝等々に内在する数列、
素粒子がベータ崩壊時に描く軌跡・・・と、
私たちの世界には “ クンダリ ” が渦を巻きながら遍満し、
“ チャクラ ” だの “ クンダリーニー ” だのは知らずとも、
そもそも宇宙という存在、世界という事象、生命という現象、
その脊柱の基底部には螺旋が鎮まっている。

ハァ・・・妄想が過ぎてしまいました。
本当はですね、今年の干支である蛇と、
蛇を全身に纏う軍荼利明王との関係にサラリと触れた後、
古代エジプト文明で神聖視された蛇と、
古代エジプト王朝で王族・貴族が取った両腕交差のポーズ、
そうしたものの幾つかが言わば「記憶の旋律」として、
もしかしたら軍荼利明王から微かに聴こえてくるのでは?
といった辺りを彷徨うつもりでありました。

もはや紙幅も尽きましたゆえ、
軍荼利明王は “ 螺旋の明王 ” として一旦棚の上に置き、
聞けば本年(令和7年)6月末から、
豊田市博物館に「古代エジプト展」が巡回するそうなので、
この目で歴史的遺物の数々を拝観してから仕切り直します。


“ Dragon dynamics Ⅱ / Kundali ”
~ 龍体力学 其の二 / 螺旋 ~

皆様、良き日々でありますように!


               









謹賀新年 2025

2025-01-05 15:44:55 | 仏教関係
皆様、明けましておめでとうございます。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。


今年令和7年の干支は “ 巳(み)” であります。

“ 巳 ” とは、すなわち「ヘビ」。


早川が年末年始において多くの時間を過ごした、

気ノ池・気ノ森には、


マムシを始めとした幾種類かの蛇が生息しています。

尤も今は冬期ゆえ、お目にかかることはありません。

                 

“ 巳 ” なり「ヘビ」なりに関しては論考百出しておりますので、
拙筆が何を今さらの感ではありますが、
そこはそれ “ 巳 ” と言えば「弁才天」ということで、
その辺りを少々。

御承知置きの通り、弁才天の起源は古代インドに遡り、
古代インド神話「リグ・ヴェーダ」において、
河川の女神として登場します。
その河川の名前が「サラスヴァティー」。
弁才天女尊のサンスクリット名が “ Sarasvati ” なのは、
それゆえのこととされています。

ならば弁才天を表す種字(梵字)は、
尊名「サラスヴァティー」の “ サ ” であろうと思いきや、
これが “ ソ ” 。

(徳山暉純「梵字手帖」木耳社刊より転載)
これは弁才天の徳性が音楽を始めとする技芸全般にあり、
「妙なる音楽」とか「善なる調べ」といった時の、
“ 妙 ” や “ 善 ” を表す梵字が “ ソ ” だからと伝わります。
(参考書籍:染川英輔「曼荼羅図典」大法輪閣刊)

さて「弁才天と蛇」という関係性を想う時、
真っ先に浮かぶのは “ 宇賀神弁才天 ” でありましょうか。
宇賀神弁才天は、
日本で感得された “ 宇賀神(うがじん)” なる神と、
インド由来の河川神 “ 弁才天 ” とが習合を果たした尊格ですが、
そもそも宇賀神とは「謎の神」。
と申しますのも、

『宇賀神の素性が、実ははっきりしていない。
 穀霊や食物神である「宇迦之御魂(うかのみたま)」
 「倉稲魂(うけもち)」「保食神(うけもちのかみ)の
 ウケ、ウカから派生したというのが一般的な説だが、
 両者の共通点が乏しいのだ。』
(引用元:「神仏習合の本」学習研究社刊)

といったところに加えて、この弾けた異形ぶり。

(大阪・本山寺所蔵・江戸時代17~18世紀、
「水~神秘のかたち」展図録より転載)
実に宇賀神とは、
とぐろを巻いた蛇体を持つ老翁なのでありました。
「謎の神」たるゆえんと申せましょう。

この人頭蛇身の宇賀神を頭の上に載せた弁才天を、
特に “ 宇賀神弁才天 ”(あるいは “ 宇賀弁財天 ” 等)、
と呼ぶのでありますが、
この尊格の功徳を説いた経典というのが、
「仏説即身貧転福徳円満宇賀神将菩薩白蛇示現三日成就経
(ぶっせつそくしんひんでんふくとくえんまんうがじんしょう
ぼさつびゃくじゃじげんさんにちじょうじゅきょう)」

経題、ながっ!・・・と突っ込ませて頂いた上で、
では一体このお経の主題は何なのか?と申せば、
ズバリ “ 貧転(ひんでん)” 。
あぁどうか「貧」を「転」じて富貴裕福へと導き給え。
これは洋の東西、時代の古今を越えて、
現実を生きる人間にとって切実な願いかと思われますが、
その願いに応えるべく編纂されたのが、
「仏説(中略)白蛇示現三日成就経」なのであります。

お経には、
宇賀神弁才天(経典では宇賀神将菩薩)の縁起来歴と共に、
拝む際に唱えるべき祈りの言葉や作法などが説かれつつ、
もし供物を整え尊崇の念を以て拝む者がいるならば、
宇賀神弁才天は “ 白蛇 ” の姿をとって現れ、
その人の住居の戊亥の隅(北西の角)に鎮まって、
経済的に困窮しないよう守護する等々が謳われています。
ここで明らかにされているのは、
“ 白蛇 ” は弁才天のシンボルであるということ。
ことし令和7年 “ 巳 ” の年が、
弁才天女尊と御縁の深い年回りであるということが、
何となく察せられてまいります。

それにしても仏教とは不思議なものですよね。
一方では、極めて高尚かつ難解な哲学を展開して、
人間はどう在るべきかという形而上の問題を追求し、
一方では、どう在るべきか・・・などより、
とにかく今日明日を凌げる “ お金 ” が欲しい、
そういった俗世の願いに向き合う。
ひとくちに「仏教」とは言うものの、
このカヴァー領域の広さはどうでありましょう。

                 

先に “ 宇賀神 ” の異形を御覧頂きましたが、
大森義成師は、こう綴っておられます。

『宇賀神の御姿は人頭蛇身である。
 蛇は仏教では我欲煩悩の象徴である。
 しかし、人頭それも老翁であるのは、
 老賢者すなわち智恵を表しているのである。
 つまり、智恵をもって煩悩をコントロールする姿が、
 宇賀神の尊容なのだと言える。』
(引用元:大森義成編著「現世利益のお経」原書房刊)

実際「仏説(中略)白蛇示現三日成就経」では、
古代インド説話を下敷きとし、
祇園精舎(寺院)を釈迦に寄進した須達(スダッタ)が、
なぜ広大な精舎を寄進できるほどの長者になれたのか?
その理由について、
宇賀神弁才天を拝んだことは元よりとして、
それよりも何よりも、
須達が自らの財産を多くの人々に惜しみ無く分け与え、
どんな時も自分の富を独り占めにしなかったこと、
それが一番の理由であるとしています。

何事も独占しない。
何事も独裁しない。
まずは心の長者であれ。

弁才天という福徳の女神が奏でる教えの核は、
案外その辺りにあるのかも知れませんね。


“ NIGI - MITAMA ”
~ 揮え 振るえ 和御魂 ~

皆様、良き日々でありますように!


               








再会

2024-12-08 16:01:43 | 仏教関係
粗末な書棚を眺めておりますうちに、
何となく目に留まり手に取りましたのは、

関東在住時に訪れた「水 ~ 神秘のかたち」展の図録。
サントリー美術館で開催された際に購入したものですが、
こうパラパラとページをめくっておりましたら、
期せずして “ 石山寺縁起絵巻 ” と再会しました。
「再会」と書きましたのは、
本年(令和6年)夏、石山寺に参拝した折に、
“ 石山寺縁起絵巻/石山寺所蔵本 ” の一部を目にしていたがゆえ。
“ 石山寺縁起絵巻/石山寺所蔵本 ” は重要文化財指定であります。

図録に掲載されているのは、
“ 石山寺縁起絵巻/サントリー美術館所蔵本 ” で、
江戸時代後期の文人画家:谷文晁(1763~1840)による模本。
希代の絵師が精魂を傾けた作品は印刷物にしてなお鮮烈喨喨、
胸に迫るものを醸しています。

巻ノ第二に描かれるのは、

石山寺の歴海(れっかい)和尚が、
境内にある龍穴ノ池で孔雀明王の密法を修し、
それに呼応して龍王が次々に現れる様子。
(「水 〜 神秘のかたち」展図録より転載)
先に「再会」と記しましたのは、
石山寺参拝時に心惹かれた歴海和尚との再会を含みます。

とは言え「歴海」なる人物については、
石山寺縁起絵巻に登場する密教僧という以外、
早川は不勉強にして知識を持ちません。
そもそも実在したのかどうか・・・。
只、石山寺を参拝し八大龍王社に拝を為し、
しばし龍穴ノ池に佇みつつ伝説に想いを馳せた身なれば、
今また和尚と再会したのは、何かの “ 縁 ” 。

石山寺の本尊は如意輪観世音菩薩でありました。
妙法蓮華経・観世音菩薩 普門品(ふもんぼん)第二十五、
通称「観音経」の中で謳われる世尊偈(せそんげ)には、

『弘誓深如海(ぐぜいじんにょかい)
 歴劫不思議(りゃっこうふしぎ)』
(誓いの深きこと海の如くにして、
 劫を歴るとも思議しえず。)

「観世音菩薩が “ 人々を救う ” として立てた誓いは、
 あたかも海のようで、想像できないほど深いもの。」

と謳われています。
『弘誓深如海』の「海」、
『歴劫不思議』の「歴」、
二文字の並びを入れ替えて「歴海」。

もしかしたら「歴海」という僧名には、
その辺りの願いといったものが込められているのかも・・、
いや、これは早川の勝手な想像であります。


“ Don't worry. You'll rise up!”
~ あなたはだいじょうぶ ~

皆様、良き日々でありますように!