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 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

『日本を今一度・・・』

2024-11-10 15:50:03 | 歴史
本日(令和6年11月10日)は “ 寅の日 ” ということで、

先程、信貴山名古屋別院・毘沙門寺を参拝してまいりました。


こちらは気ノ池の秋景。

気ノ森は常緑樹の割合が高いため、
水面が紅葉を映すエリアは限られています。
それにしても急に寒くなりましたね。
皆様、御体調など崩されませんように。

                 

坂本龍馬(1836~1867)は、
慶応3年11月15日(グレゴリオ暦では1867年12月10日)、
京都河原町の醤油商・近江屋の二階で非業の最期を遂げました。
命日も近いこと、
関東在住時に “ 想い ” ひとつで作った曲でありますが、
ひとときお楽しみ頂けましたら幸いに存じます。



                 

先日、若い命たちと共に社会の授業を受ける機会を得ました。
その日の内容は幕末史。
勝海舟(1823~1899)に続いて龍馬が取り上げられ、
その来歴や事蹟が駆け足で紹介されたわけですが、
そもそも龍馬のことを知らない彼ら、
「薩長同盟・大政奉還」等の言葉が初耳の彼女たち。
そんな若い命たちが、ふと目を輝かせる瞬間がありました。
それは、龍馬が姉の乙女(1832~1879)へ宛てた、
手紙の一節が紹介された時。

『日本を今一度 洗濯いたし申し候』

手紙には、その人の息遣いが表れ、
手紙には、その人の真影が滲むもの。

『日本を今一度 洗濯いたし申し候』

若い命たちが、ふと目を輝かせたのは、
“ 偉人 ” と伝わる人物が身近に感じられた上、
その昔、こんなことが言える人間がいたんだ・・・、
そのような想いが、心に灯ったからかも知れません。


“ 汝ら、自らの心を洗濯すべし、
 タイカイ、特にお前はな・・・ ”

皆様、良き日々でありますように!


               









11月と言えば・・・

2023-11-12 14:14:50 | 歴史
11月も半ばに差し掛かりました。

“ Waterfall Ⅲ ” ~ 瀧 其の参


                 

11月と言えば、
京都河原町通りに所在した醤油商・近江屋において、
坂本龍馬(1836~1867)が、
何者かの手によって暗殺された月。
今を去る156年前、時は幕末、
慶応3年11月15日のことでありました。

龍馬は、新しい国家体制に思いを馳せる中、
長崎から上京する船内で書いた「船中八策」を元にして、
大政奉還後、新たに「新政府綱領八策」を記しています。
この「新政府綱領八策」の末尾には、

“ 慶応丁卯 十一月 ”

と墨書されていて、
暗殺される直前辺りに書かれたことを伝えています。

坂本龍馬が、
幕末のヒーローだったのかどうか?
現代に語り継がれるような活躍をしたのかどうか?
特に近年、
そのような疑問を持たれる向きも多いと聞きます。
確かに歴史検証は大事なこと。

只、「新政府綱領八策」の内容は、
たとえそれが “ 独創 ” ではなかったとしても、
充分に時代を先駆けるものであり、
フィクションを読まずとも、
遺された資料や手紙の数々に当たれば、
その活動ぶり活躍ぶりは一目瞭然。

そもそも、活動も活躍もせず、
何ら特異な光芒を放つことのない人間には、
アンチが生じることもなければ、
暗殺の対象となることもありません。

“ ヒーロー ” かどうかは措くとしても、
幕末史における重要人物であったことには違いないと、
個人的には、そのように思います。

幕末当時、「藩」とは「国家」でありました。
薩摩藩と長州藩という、
敵対する二つの「国家」が手を結ぶなど、
誰も考えさえ出来なかったこと。
それを、
龍馬は「薩長同盟」として成就させました。

今なお世界各地では、
国と国が戦い、民族と民族が争い、
無辜の市民が血を流し命を落としています。

過去の経緯により対立せざるを得ない二者、
決して相容れないはずの二者は、
一体どうすれば歩み寄れるのか?

坂本龍馬と幕末史から学ぶことは尽きないと、
11月が巡る度、
龍馬への想いを新たにするものであります。

よさこい幻想 ~ 龍馬の歌 ~(作曲 早川太海)

皆様、良き日々でありますように!


               









名古屋城

2022-08-07 13:06:47 | 歴史
この堀は、手前から奥まで短いように見えましたが、
その距離は優にバス停2駅分ほど有りました。

この日の名古屋は、アスファルト上の気温40度という酷暑日。
歩くうち次第にボーッとしてまいります・・・、
いや、ボーッとしているのはいつものこと、申し上げたいのは、
この日訪れた場所が、いかに広大かということであります。


目的の場所に辿り着くまでに、

こうした重厚な門を幾つかくぐり、


巨大な石垣建築を堪能しながら、

奥へと歩を進めてゆきます。


すると見えてまいりました。

既にお気づきのことかと存じます。
え?、気づくも何も既に本日のブログ題に書いてある?
アァそうでした!
因みに、手前に写っているのは “ マルバチシャ ” の樹。
(「丸葉萵苣」と書かれ「萵苣(ちしゃ)」の一種)

というわけで名古屋城であります。
当地に転居して5年、ようやく訪れることが出来ました。

慶長15年(1610)に築城計画が立てられ、
慶長17年(1612)に建設が本格化、元和元年(1615)に完成。
以来300年以上に亘り尾張名古屋の空に聳え立ち、
昭和20年(1945)太平洋戦争末期の空襲により焼失。

現在の名古屋城天守閣は、

昭和30年代に鉄筋コンクリートで復元されました。

石垣は、下部から上部へ向けて弓なりに反る構造で、
「扇勾配(おうぎこうばい)」と呼ばれるもの。

こうした石積みにすることで加重が分散され、
石垣崩落の一因となる「石のせり出し」現象、
通称 “ はらみ ” を抑えることが出来るのだそうです。

それにしても、石による構造物というのは不思議。

エジプトのピラミッド、ペルーのマチュピチュ、
メキシコのテオティワカン、イギリスのストーンヘンジ、
カンボジアのアンコールワット、イースター島のモアイ群、
アナトリアのギョベクリ・テペ等々、

考古学者により、石の調達および運搬方法は解明されようとも、
そこには一抹の “ 疑問 ” が残り “ 謎 ” を感じざるを得ません。

“ 疑問 ” や “ 謎 ” は措くとしても、
実際にこうした巨大石造建築物の前に立ちますと、

建造時に払われたであろう途方もない “ 労力 ” というものに、
身が竦むとでも申しましょうか、名状しがたいものを覚えると共に、
あらためて「“ 石 ” とは何か?」ということを想います。

地球は木星のような「ガス型惑星」ではなく「岩石型惑星」なので、
そもそも地球は “ 石造り ” と申せましょう。
つまり “ 石(石材)” は地球材の最たるものであり、“ 石 ” には、
溶岩球として誕生して以来46億年の歴史が宿っていて、
“ 石 ” を用いることは、地球そのものを用いることかと思います。
そこで、
採掘・運搬・加工・建築といった様々な行程や、その流れを、
地球そのものである “ 石 ” の変容と考えてみますと、
“ 石 ” を用いて造られた建造物や構築物というものは、
「岩石型惑星」である地球が、その姿かたちを変えたもの、
言わば “ もうひとつの地球 ” といういう風にも思われてきます。

古代文明を今に伝える世界各地の巨石建造物は、
太古の人々が、地球から地球を切り出して創造しようとした、
“ もうひとつの地球 ” ・・・などと埒もない妄想ではありますが、
名古屋城の石垣と、堀跡に転がる夥しい “ 石 ” を眺めるうち、

“ 石 ” に宿る力や不思議さというものに、
ついぞ感じたことのない魅力を覚えるものでありました。

                 

帰路に通りがかった名古屋市役所の屋上部も、この通り。



地下鉄「市役所前」の出入り口も又、この通り。

城の周辺には、名古屋城のシンボルに因んだ新しい商業施設、
“ 金シャチ・ゾーン ” も展開されていました。
名古屋城については、その再建計画および維持管理等々、
市政を二分する論争や賛否を分つ問題も伝えられていますが、
それもまた名古屋城在ればこそ。
それらの全てを含めて、昔も今も、

『尾張名古屋は城で保(も)つ』

ということでありましょう。


「オミャーサンノコト、イッツモミマモットルデヨー、
 オソガイコトアラセンテ、イキヤーテ!ススミャーテ!」
何となくイタリア語のようでもありますが名古屋弁であります。
翻訳致しますと、

「あなたのことを、龍神がいつも見守っているので、
 恐れることはありません、生きよ! 進め!」

皆様、良き日々でありますように!


               









杉田玄白のマネジメント力

2021-06-06 15:41:49 | 歴史
昨日(2021年6月5日)の千種公園。

どの品種も、ほぼ満開であります。


週末しか訪れることは出来なかったものの、

三週に亘って御覧頂きましたユリの数々。


このピンク色の“ アルブフェイラ ”なる品種が、

今週は花期を迎えていました。


同じピンク系のユリでも、こちらはまた異なる品種。

確か“ ボードウォーク ”だったと記憶しますが、
間違っておりましたら申し訳ありません。

                

江戸時代・中後期の医師、前野良沢(1723~1803)は、
鎖国体制下の日本にあって、46歳からオランダ語を学び始め、
江戸と長崎において短期間の講義を受けた後、
ヨハン・アダム・クルムス(1689~1745)が著わした、
オランダ語・解剖学書「ターヘル・アナトミア」を、
3年5ヶ月という長年月をかけて翻訳・編集し、
「解体新書」として世に出したことで知られています。

「ターヘル・アナトミア」翻訳にまつわる艱難辛苦の数々は、
前野良沢と共に作業に当たった杉田玄白(1733~1817)の、
「蘭学事始」に明らかにされています。

外国語の習得や理解が極めて困難な時代に、
邦語であってさえ難解な医学専門書を訳出しようとする試みは、
流木にまたがって太平洋を横断するようなものであり、
装備の無いまま厳冬期のヒマラヤ登頂に挑むようなもの。
加えて最も問題となるのが、
鎖国体制下において洋書を翻訳し出版すること自体が、
国禁に触れる犯罪行為と見做され、ひとつ間違えば、
命にかかわる刑罰の対象となること。

その辺りの危うさを充分に認識していた杉田玄白は、
翻訳作業に携わった桂川甫周(1751~1809)の縁故を頼りに、
まずは将軍家の大奥に要約版「解体新書」を献上し、
また京都の公家たちにも同じものを配布するなどして、
一種の“ 売り込み ”工作を図り、事前に評判を取り付けつつ、
後々問題が生じた場合に備えて布石を打ってゆきます。

「解体新書」の要約版を、あらかじめ大奥に献上するあたり、
玄白先生が人心世情に通じていた人物であったことが窺われます。
こうした歴史の流れを俯瞰して、
整形外科医・川嶌眞人先生は、このように記されます。

『このようにして本が国禁に触れないための
 周到な根回しをしてようやく出版に漕ぎつけた。
 江戸時代に外国語の解剖書を翻訳するという
 パイオニア精神の旺盛な前野良沢の所業を生かすには、
 杉田玄白のようなマネジメントとしてのコーディネートがなければ
 出版を成し遂げることは
 到底できなかったのではないかと思われる。』
 (引用元:川嶌眞人著「前野良沢とパイオニア精神」/
  臨床スポーツ医学 33巻2号 / 文光堂)

前野良沢が時代に先駆けて挑んだ「解体新書」出版。
その挑戦が偉業であることに間違いありません。
只、偉業を偉業たらしめた力の一つに、
杉田玄白の“ 根回しのチカラ ”、現代に言うところの、
“ マネジメント能力 ”があったのだということを、
上記引用元の玉稿に教わりました。

良沢先生を“ アーティスト ”、玄白先生を“ マネージャー ”、
などとお呼びしては、冗談が過ぎると叱責も受けましょうが、
いつの時代、どのような場所にあっても、
“ モノ作り ”と“ モノ売り ”とが両輪となって機能しなければ、
“ モノ ”という車両が動くことはないものと思われます。

〈創造・アート・クリエイティブ〉の領域を「才」、
〈収益・マネジメント・マーケティング〉の領域を「財」、
という風に想ってみますと、やはり本来的に望ましいのは、
「才財相乗・才財協同・才財和合」の世界でありましょうか。

                

千種公園を訪れた方々は、
ユリ園に入ると皆一様に「ワァー」と声を上げたきり、

あとはもう只々感に堪えないといった表情で、
カメラ片手に園内を巡っておられます。


私自身を含め、人々のそうした姿を見るにつけ、
花の力とは、つくづく偉大なものと思います。

花には、人々を喜ばせようとか感動させようといった、
意図や魂胆など微塵も有りはしません。
にもかかわらず、人々は喜びを覚え感動に心を震わせます。
それは作為なきがゆえにこそ生まれる“ 偉大さ ”の為せる業。
真の“ 偉大さ ”とは、おそらくそうしたものなのでしょう。


うつろいゆく花の在りよう、総じては自然界の在り方すべてを、
至上の音楽、至高の楽譜と受け止めて生きることの喜びは、

その“ 偉大さ ”に打たれる喜びであろうかと思います。


               






山脇東洋の言葉

2021-04-04 12:31:44 | 歴史
『理 或いは顛倒すべくも、
 物 いずくんぞ誣いるべけんや。
 理を先にして物を後にすれば、
 則ち上智も失う無き能わぬ也。
 物を試みて言を其上に載すれば、
 則ち庸人も立つ所ある也 』

1754年(宝暦四年)、日本で初めての人体解剖を行った医師、
山脇東洋(1705~1762)は、それから5年後の1759年(宝暦九年)、
解剖から得た知識を「蔵志(ぞうし)」として出版します。

上掲の言葉は、その「蔵志」の中に記されたもの。
「顛倒(てんどう)」は、間違い、誤りの意。
「誣(し)いる」は、嘘をつく、あざむくの意。

「〈理〉は、時として間違うことがあるけれど、
 〈物〉は、嘘をつかない。
 〈理〉を先にして〈物〉を後にすれば、
 学識に秀でた人物であっても失敗を免れることができない。
 〈物〉を試して、そこから得られた知識を積み重ねれば、
 凡庸な人間であっても世の中の役に立つであろう。」

概ね、このような意味でありましょうか。
東洋先生が人体解剖を行い、実際に人間の内臓がどのような配置で、
どのように繋がっているのかが明らかになるまで、
日本の医学は、中国古来の生命論や身体観に由来する、
「おそらくこうだろう」といった曖昧な仮説に基づいたものでした。

1700年代には、長崎を経由して西洋の解剖学書が入手可能となり、
東洋先生は、自ら行った解剖によって実際に見た人間の内部と、
手に入れた西洋の解剖学書に載せられた人体解剖図とが、
驚くほど一致することに大きな感動を覚えると同時に、
それまで習い信じてきた中国伝来の観念的な人体内部像が、
あまりにも真実とはかけ離れたものであることに愕然とします。

冒頭に引いた「蔵志」の言葉は、
そうした背景から絞り出された言葉であることを想いますと、
〈理〉とは、おおよそ理論・理屈の〈理〉、
つまりは観念的・抽象的な机上の論を指し、
〈物〉とは、おおよそ実物・現物の〈物〉、
つまりは実地体験・実践経験を意味するものと思われます。
すると先の言葉は、

「理論・理屈や机上の論というものには誤りが生じるけれど、
 実際に自分の眼で見、自分の耳で聞いたことに誤りはない。
 理論に縛られ、或いは仮説や学説に捉われて、
 実地・実修・実践・実学をおろそかにすれば、
 優れた人物といえども間違いを犯す恐れがある。
 実際に挑み、行い、自分で実験し、実態を調べたりして、
 そうした試行錯誤の中から得られた実智に基づいてゆけば、
 誰しもが有用・有益なものを築き上げることができる。」

そのようなメッセージとして受け取れようかと思います。

               

精神科医・神田橋條治先生は著書の中で、こう語っておられます。

『わたくしは、
 種々の理論が彫琢精錬されていくのを目にするたびに、
 パーキンソンの法則を連想する。
 組織は完成の瞬間に機能を停止する。
 理論とて同じであるように思える。』

理論は自らの整合性と美しさを求めて完成へと突き進み、
その作用によって、いつしか理論は、

『実用性から遠ざかり、
 ただ論争というコトバ文化の場での力だけが強まる。』
    (神田橋條治著「精神療法面接のコツ」岩崎学術出版社)


音楽療法士・笠嶋道子先生も又、インタヴューに答えて、

『私もいろいろな理論を勉強しましたが、
 実践をしている人が書いたものでないのは、
 実際の現場には当てはまらないことが多かったですね。』

『確かに理論は必要ですが、
 実践の中から生まれた理論でなければ意味がありません。』
  (笠嶋道子著「そのままのあなたでいい」一橋出版株式会社)

神田橋先生の言葉も、笠嶋先生の言葉も、
今を去ることおよそ300年前に東洋先生が「蔵志」に記した、

『理 或いは顛倒すべくも、
 物 いずくんぞ誣いるべけんや。』

と、どこか通底し、響きあうもののように感じます。

               

〈理〉を理念・理想、〈物〉を現場・現実としてみた時、
東洋先生の言葉は医学を超え、
人間存在や社会病理といったものにも当てはまる気がします。

政府機関のパワーハラスメント相談員が、
部下の男性に対してパワハラを繰り返していた。
一流とされる企業のセクシャルハラスメント対策委員が、
部下の女性に対してセクハラを繰り返していた。

こうした事件が連日のように報道されていますが、
こうしたことは今に始まったことではありません。
古来より、
高尚な理念や高潔な理想を声高に唱える個人や組織に限って、
その実情や現場の実態は、およそ嘆かわしいもの。
総じて、
「理を先にして物を後に」しているがゆえに起きる災い、
と言えるかも知れません。

以上の事をあれこれ考え合わせてみますと、
東洋先生が伝えたいこととは、つまるところ、

「論より証拠」

では私自身はどうなのか?
これが哀しいかな、どうも〈理〉や〈論〉が先走り、
〈物〉すなわち〈実〉や〈証拠〉がおろそかになる傾向にあり、
東洋先生の言葉を自戒とするものであります。