MARUMUSHI

映画とかTwitterとかとか。

『バクマン。』。

2015-10-03 22:52:21 | 映画日記
『バクマン。』を観てきた。

面白い。
マンガで勝負するシーンをペンや鉛筆を武器に見立てた演出。
ストーリーが頭を駆けめぐる様。
そして、紙をマンガへと変貌させる、その課程の見せ方、そして音。
どれをとっても、映像効果として、短くても多く伝える撮り方が素晴らしい。

最初は些細なきっかけで、そこに恋心が拍車をかけ、そして先に行く彼女を目指してさらに加速する。
ライバルは、天才ではない。彼はただのマーカーだ。
彼らが狙うのはさらにその先。
先に行った彼女だ。
自分たちが追いつけなかった彼女だ。

「マンガは読者に読んでもらって、初めて完成するんだ」
マンガのキャラクターは僕たちに心を感じさせる。
痛みを感じさせる。喜びを、笑いを、そして悲しみを感じさせる。
それは漫画家がマンガに魂を吹き込んだからだ。
魂があるものとは心を通じ合わせることが出来る。
テクニックはその魂を与えるツールだ。
絵が上手くても魂がなければ、ストーリーがどんなに優れていても魂がなければ、キャラクターは動き出さない。読者と心を通じ合わせることは出来ない。

「あーあー。ヘタクソだなぁ。言ったでしょ?僕なら君より上手く描けるって」
「止めてください。それは、僕たちのマンガです」


「俺のバクチに、つきあってくれ」


描くんだ。
間に合うか間に合わないかじゃない。
彼女に手が届くか届かないかじゃない。
キャラクターに、自分たちのマンガに、魂を吹き込むため。そして、その魂で読者の心に、魂に語りかけるために。
友情・努力・勝利。
それはマンガではない。現実に確かに存在することを伝えるために。

血反吐を吐くほどの力を込めてジャンプして、勝利に僅かに触れた後、天才を一瞬追い抜いた後、彼らは降下していく。

そして、天才は遠く先に行ってしまった。
そして、彼女はさらに先に行き、声というツールで魂を吹き込み続けている。
そして、彼らは晴れて無職となった。




「実はもう話はできてるんだ」
「聞かせろよ」
楽しそうに彼らは話し始める。
楽しそうに彼らはペンを動かし始める。
彼らはもう、元には戻れない。
苦しみ、焦燥、落胆。それを知ってなお、自分たちはマンガに魂を吹き込み続けたい。
死ぬまで格好良かった、おじさんみたいに。

ライバルに勝つんだろう?
彼女に自分のマンガに、さらに魂を吹き込んでもらうんだろう?
そして、彼女と結婚するんだろう?

ウォーミングアップは終わった。
Gペンの使い方は分かった。
セリフの付け方も分かった。
トーンの貼り方も分かった。
そして、勝利の掴み方のコツも。


さぁ、本番だ。
マンガに、魂を吹き込もう。



『屍者の帝国』。

2015-10-03 02:13:22 | 映画日記
『屍者の帝国』を観てきた。
泣けた。
皆が魂を求める。失われた魂を取り戻そうとし、自分にかけている魂を得ようとし、魂を書き換えることで真の平和を作り出そうとし、愛する者を取り戻すために魂を得ようとする。

「これがあなたの求めるものです。目を背けることは許されませんよ」
「それは技術が足りないだけだ!目を背けたのはあなたの方だ。手を伸ばせば21グラムの魂に手が届いたかもしれないんだぞ!」

死とは何か?
あるいは命とは何か?
なぜか生あるものは、命を作ることが出来る。
それが至上命題だと言ってもいい。
自分の命を捨ててまで子を産まんとする生物も少なくない。
死に際に命を生む種も少なくない。とにかく皆、命を作ろうとする。

それでも、命を定義付けることは21世紀になっても、まだ出来ずにいる。
魂、心。
非常によく似ていて、その境目は不明瞭。
でも、明らかに違うと感じさせるこれらの言葉。これが命の定義を乱す原因ではないだろうか?

心は他との関係性の中で発生するものだ。
例えばペット。あるいは子供の頃の人形。
僕らは彼らに心がある、と思っている。
でも、あるのは心があると思っている自分だけなのだ。
だから、心は関係性の中でだけ生じるもので、”ある”ものとは言いにくい。

では、魂は?
魂の重さは21グラム。
小学生の時にオカルト本で知ったとき、思ったより軽いのだな、と思った。
魂は確かに”ある”ものだと僕は思っている。この21グラムの根拠は薄い。再現性も悪い。そして犬では生前と死後で変化がないなど疑わしいところだらけだ。でも、無いとした論証がない以上、ある可能性が今は高いように感じる。
物語の中では魂の存在は歴とした存在になっている。そして、その脱け殻に疑似霊素なるものをインストールすることで死者を屍者とし使役している。
なのにワトソンはフライデーの友人だった頃の魂を取り戻そうとする。身体から抜け出し散逸してしまった魂をどうやって戻すのだ?
仮に魂は抜ける人と抜けない人とがいるとしたらどうだろう。そして彼らはその理論を実証しようとしていたのだろうか?
生前の残りわずかな命の中で、魂の行方を探していたんだろうか?

魂が抜けない人にとっては、疑似霊素のインストールは、死者でありながら魂を上書きされ、屍者になったということになる。
つまり、手を伸ばせば、彼の、フライデーの魂はそこにあるのだ。
ワトソンは何度も何度も手を伸ばす。必ず21グラムの魂がある。その可能性を絶対に捨てない。
「フライデー、私が見えるか?」
「答えてくれ、フライデー」
ワトソンは屍者との間に心を感じている。そして屍者にも心を感じてほしいと願っている。
己の技術を目一杯使いながら、フライデーをパートナーとして使い続ける。絶対に諦めない。
だが、屍者の究極の技術は、余りに危険すぎた。世界を終わらせかけたヴィクターの手記。
ワトソンはそれを破壊も出来ず、利用することも出来なかった。
でも、諦めなかった。彼はヴィクターの手記と旅の記録ともに屍者となる。
フライデーだけを生者に近づけるのではなく、己が死者に近づく。
そうすれば。あるいは。

フライデーが屍者として目覚めたとき、ワトソンが命令したのは、「これから起こる全てを記録しろ」だった。
映画には出てこないのだが、ワトソンが疑似霊素を自分に書き込む際、原作ではフライデーに最後の命令を下す。
「フライデー。行動記録の任を解く。ー御苦労だった」
フライデーの屍者としての最大の任務は、記録を取ること。
ペンを走らせ、ページをめくり、記録をとにかくとり続ける。
では、役割を終え、疑似霊素が消えると何が残るのか?
死者としてのフライデーの魂と屍者としての肉体だ。
それは、生者としてのフライデーに極めて近いものではないだろうか。

ヴィクターの手記をインストールした屍者となったワトソンは、違ったワトソンになっている。ワトソンの魂を持った屍者。
旅を共にした全ての者が彼のその姿を見守る。
もちろんフライデーも。

ワトソン、私たちが見えるか?
ワトソン、教えてくれ。
君の見ている世界を。


 
 

2015年10月02日のつぶやき

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