『岸辺の旅』を観てきた。
寄生獣、二匹の旅。
ではなく、夫婦の物語。
3年前に家を出ていった夫は、死んで帰ってきた。
とりあえず、白玉団子を食べた。
「君に見せたい、きれいな物が沢山あるんだ」と夫は言った。
妻はそれに乗っかった。
夫婦は旅に出た。
過去を過去のものとするための旅。
過去は取り戻せない。
過去は取り返してはならない。
それは過去にあるべきものだから。
本来、死んだ人間のことは忘れることが、死んだ人間に対する最大の敬意の払い方だ。
死んだ人間は過去のもの。
死んだ人間は悲しまない。喜ばない。何も感じない。
死んだ人間が喜んでいるとか、悲しんでいるとか、そう感じているのは生きている自分であり、死者は何も思わないのだ。
だから、土に埋めたんだろう?焼いたんだろう?鳥に食わせたんだろう?
いつまでも、今を死者の所為にしてはいけない。
妻は色々な死者を目にする。夫の力に当てられていたのかもしれない。死んだと気付いていない者、誰かの想いで現れた者、そして生者といたいと願う者。
そのたびに思う。死者と生者を分けるものとは何か、と。
死者の夫は確かにそこにいて、人と話し、仕事を手伝い、食べ、酒を飲む。
生者の妻はその隣で確かにそこにいて、人と話し、買い出しをして、料理を作り、食べ、嫉妬する。
他の死者たちもそうだ、行動する。願望がある。欲望がある。
死者が死者たる拠り所は何だ?
生者が生者たる拠り所はどこにある?
確実になった過去にいる夫。
不確実な未来を持った妻。
長かろうが短かろうが、人生には時間制限がある。
「また、会おうね」
「うん」
それが夫婦の最後の会話。
夫の魂はどこに行ったのだろう?あるとするならあの世なのか?
そして2人が再会するとすれば、それはあの世なのだろう。
永遠に閉じ込められた過去。あの世とはそんな所なのかもしれない。
妻は歩き出す。
岸辺を夫婦はずっと歩いていた。
あの世とこの世を分ける、三瀬川のほとり。
夫は川の向こうに行った。
もう、夫の無事を祈る必要はない。
三瀬川の岸辺を背にして、彼女は1人で歩いていく。
「お待たせ」
「ほんとだよ。ずいぶん待ったよ」
「また、会えたね」
「うん」
夫婦の次の会話は、きっとそうやって始まる。