『顔のないヒトラーたち(原題;Im Labyrinth des Schweigens)』を観てきた。
ドイツは第二次大戦後にニュルンベルク裁判で国際裁判で裁かれ、加えて西ドイツでは再度自分たちを自分たちで裁くというフランクフルト裁判を行っているのは知っていた。
日本もそうすべきなんじゃないかな?と思っている。
この作品はその二回目の裁判を起こすまでのある検事の物語。
「ヒトラーは死んだ」
「ナチスなど過去のものだ」
戦後十数年間もそんな時代が存在していたのは驚き。アウシュビッツすら知らないのだ。
臭い物には蓋。
触らぬ神に祟りなし。
つまり、そういうことだったんだろう。
国民全体が薄々感づいていながら、それでも平穏に暮らしているところを、つつくのだから大変だ。
周りは一人とて味方はいない。ラドマン検事はそれでも「正義」を振りかざす。
「僕がやっていることは正義なんだ」と。
翻って同じ敗戦国の日本を見てみる。
日本は党にという単位で見ることは出来ない。だって、当時は大政翼賛政権状態。極端な話、国民全員が党員状態だった。
極東裁判もサラッと受け入れた。悪い奴は戦犯として裁いて全て終わりにした。
分かりやすいのだ。
そして戦後、一切の疑念はない。もちろん一部の有識者たちは問題があると思っていただろうけど、世論は無反応。
まして、検事が戦争犯罪に関する裁判を起こすなんて、考えることすらなかったんだろう。
極東裁判で何が悪かったの?悪い奴を絞首刑で殺したんだから良いじゃない。
天皇陛下万歳!と言っていたのが、あっという間にギブミーチョコレートになった。
そして、今の現状。右翼だ左翼だ中道だ、とまだ揉めている。
他国への戦争責任に対して、どうするのかさえ時の政権で右往左往する。臭いものの蓋が時々あいたりする状態だ。
極東裁判は一体何だったんだろうか?
ニュルンベルク裁判と極東裁判はどちらも戦勝国が敗戦国を裁くという、いわば見せしめの裁判の色が強い。
だが、フランクフルト裁判は違う。西ドイツが自身で自身の戦争を整理し、判断し、裁いた。
元はSS達を裁くことが主眼だったのかもしれない。政府要職からナチスを排除する。それが目的だったのだろう。
だが、それでことが解決するわけではないとラドマン検事達は気付く。
何があったのか。
アウシュビッツで何があり、どうしてそうなったのか。どこで間違ったのか。
ナチス党は世界一民主的であると言われたワイマール憲法下で正式な手続きを経て政権を握った。間違ったのはヒトラーじゃない。
顔のない、薄ぼんやりとした国民一人一人だったのだろう。
彼らは個人としては善良で、優しい人間だった。
そんな人たちが、集団となり創発として極悪になった。
チクロンを購入する。
ユダヤ人達を部屋に押し込む。
チクロンを発煙させる。
分業化されることで大量虐殺はただの作業になる。言わば悪の希釈。
しかし、全てを一人でやれば殺人だ。
ラドマン検事は間違え、悩み苦しみ、その上で言う。
「僕は僕の正義に従うまでです」
彼は、気付いたのだと思う。
絶対の正義などどこにもない、と。
自分の正義を信じるしかない。一人一人に正義があり、それを大量に重ね合わせることで見かけの正義が産まれる。
フランクフルト裁判は、アウシュビッツで何が行われたのかを引きずり出した。国民が知らない、隠された真実。そのつなぎ合わせで浮かび上がる事実。
裁判の中で、裁かれた人々。法が生きていたとは言え、戦時下の心理状態で正常な判断を求めることが正しかったんだろうか?
裁いたラドマン検事は、正義を代表できたのだろうか?
そして、何が正義だったのだろうか?
僕たちは今、正義の中で生きているんだろうか?
「目と、耳と、心を大きく開いて世界を見なさい」(『聯合艦隊司令長官 山本五十六』より)
見たいものを見て、聞きたいものを聞く。ネット社会になってからより情報は氾濫し、取捨選択をせねばならないようになった。片寄った情報でものを見る、聞くのは、心が閉じているのではないか。
僕はそれを正義だとは思えない。
「間違いは誰にでもある。完璧な人間なんていないさ。私を除いてはね」と同僚は茶化しながら失敗し荒れ、職を放棄すらしたラドマン検事を慰める。彼は椅子に座り、大量の資料に向かう。そうやって間違いを修正する。
間違いは修正すればいい。
僕は思う。大抵の失敗や間違いは修正できる。面倒くさいだけで。
ただ、殺人だけは修正不可能だが。
それでも、失敗し痛い目を見て、それでも真実を見ようとするのなら、それは正義に一歩近づくことなのではないだろうか?
日本は戦争を忘れようとしている。
戦後レジームの脱却。戦後である今をどうやって脱却するのだ?
レッドパージが目的で設立された自衛隊の前身の警察予備隊の存在はどうするのだ。赤が弱体化している今、バランスは右よりだろう。今、戦後レジームを抜けてしまっていいのか?
戦争はやってはいけないものだ。
人を殺し、己も殺す行為だ。
僕もそう思う。戦争は忌むべき行為だ。殺人は死者に赦しを請えないから最も忌むべき行為なのだ。
分かっている。
でも、本当の戦争の姿を知らないのだ。
空襲や被爆者達が良く口にするのは「臭い」だ。僕は戦争の臭いを知らない。その情報だけでもかなりの要素が欠けている。
1945年8月6日のことを知らない子供達が増えていると聞く。当然9日のことも知らないだろう。
僕らは知らず知らずのうちに、フランクフルト裁判から遠のく方向に進んでいるのかもしれない。
ヒトラーは死んでいない。その陰はそこかしこにある。
ドイツだけじゃない。日本だけじゃない。世界中のどこかにいる、顔のないヒトラーたち。
僕はその中に入らず、「心を開いて」生きていけるだろうか。
ドイツは第二次大戦後にニュルンベルク裁判で国際裁判で裁かれ、加えて西ドイツでは再度自分たちを自分たちで裁くというフランクフルト裁判を行っているのは知っていた。
日本もそうすべきなんじゃないかな?と思っている。
この作品はその二回目の裁判を起こすまでのある検事の物語。
「ヒトラーは死んだ」
「ナチスなど過去のものだ」
戦後十数年間もそんな時代が存在していたのは驚き。アウシュビッツすら知らないのだ。
臭い物には蓋。
触らぬ神に祟りなし。
つまり、そういうことだったんだろう。
国民全体が薄々感づいていながら、それでも平穏に暮らしているところを、つつくのだから大変だ。
周りは一人とて味方はいない。ラドマン検事はそれでも「正義」を振りかざす。
「僕がやっていることは正義なんだ」と。
翻って同じ敗戦国の日本を見てみる。
日本は党にという単位で見ることは出来ない。だって、当時は大政翼賛政権状態。極端な話、国民全員が党員状態だった。
極東裁判もサラッと受け入れた。悪い奴は戦犯として裁いて全て終わりにした。
分かりやすいのだ。
そして戦後、一切の疑念はない。もちろん一部の有識者たちは問題があると思っていただろうけど、世論は無反応。
まして、検事が戦争犯罪に関する裁判を起こすなんて、考えることすらなかったんだろう。
極東裁判で何が悪かったの?悪い奴を絞首刑で殺したんだから良いじゃない。
天皇陛下万歳!と言っていたのが、あっという間にギブミーチョコレートになった。
そして、今の現状。右翼だ左翼だ中道だ、とまだ揉めている。
他国への戦争責任に対して、どうするのかさえ時の政権で右往左往する。臭いものの蓋が時々あいたりする状態だ。
極東裁判は一体何だったんだろうか?
ニュルンベルク裁判と極東裁判はどちらも戦勝国が敗戦国を裁くという、いわば見せしめの裁判の色が強い。
だが、フランクフルト裁判は違う。西ドイツが自身で自身の戦争を整理し、判断し、裁いた。
元はSS達を裁くことが主眼だったのかもしれない。政府要職からナチスを排除する。それが目的だったのだろう。
だが、それでことが解決するわけではないとラドマン検事達は気付く。
何があったのか。
アウシュビッツで何があり、どうしてそうなったのか。どこで間違ったのか。
ナチス党は世界一民主的であると言われたワイマール憲法下で正式な手続きを経て政権を握った。間違ったのはヒトラーじゃない。
顔のない、薄ぼんやりとした国民一人一人だったのだろう。
彼らは個人としては善良で、優しい人間だった。
そんな人たちが、集団となり創発として極悪になった。
チクロンを購入する。
ユダヤ人達を部屋に押し込む。
チクロンを発煙させる。
分業化されることで大量虐殺はただの作業になる。言わば悪の希釈。
しかし、全てを一人でやれば殺人だ。
ラドマン検事は間違え、悩み苦しみ、その上で言う。
「僕は僕の正義に従うまでです」
彼は、気付いたのだと思う。
絶対の正義などどこにもない、と。
自分の正義を信じるしかない。一人一人に正義があり、それを大量に重ね合わせることで見かけの正義が産まれる。
フランクフルト裁判は、アウシュビッツで何が行われたのかを引きずり出した。国民が知らない、隠された真実。そのつなぎ合わせで浮かび上がる事実。
裁判の中で、裁かれた人々。法が生きていたとは言え、戦時下の心理状態で正常な判断を求めることが正しかったんだろうか?
裁いたラドマン検事は、正義を代表できたのだろうか?
そして、何が正義だったのだろうか?
僕たちは今、正義の中で生きているんだろうか?
「目と、耳と、心を大きく開いて世界を見なさい」(『聯合艦隊司令長官 山本五十六』より)
見たいものを見て、聞きたいものを聞く。ネット社会になってからより情報は氾濫し、取捨選択をせねばならないようになった。片寄った情報でものを見る、聞くのは、心が閉じているのではないか。
僕はそれを正義だとは思えない。
「間違いは誰にでもある。完璧な人間なんていないさ。私を除いてはね」と同僚は茶化しながら失敗し荒れ、職を放棄すらしたラドマン検事を慰める。彼は椅子に座り、大量の資料に向かう。そうやって間違いを修正する。
間違いは修正すればいい。
僕は思う。大抵の失敗や間違いは修正できる。面倒くさいだけで。
ただ、殺人だけは修正不可能だが。
それでも、失敗し痛い目を見て、それでも真実を見ようとするのなら、それは正義に一歩近づくことなのではないだろうか?
日本は戦争を忘れようとしている。
戦後レジームの脱却。戦後である今をどうやって脱却するのだ?
レッドパージが目的で設立された自衛隊の前身の警察予備隊の存在はどうするのだ。赤が弱体化している今、バランスは右よりだろう。今、戦後レジームを抜けてしまっていいのか?
戦争はやってはいけないものだ。
人を殺し、己も殺す行為だ。
僕もそう思う。戦争は忌むべき行為だ。殺人は死者に赦しを請えないから最も忌むべき行為なのだ。
分かっている。
でも、本当の戦争の姿を知らないのだ。
空襲や被爆者達が良く口にするのは「臭い」だ。僕は戦争の臭いを知らない。その情報だけでもかなりの要素が欠けている。
1945年8月6日のことを知らない子供達が増えていると聞く。当然9日のことも知らないだろう。
僕らは知らず知らずのうちに、フランクフルト裁判から遠のく方向に進んでいるのかもしれない。
ヒトラーは死んでいない。その陰はそこかしこにある。
ドイツだけじゃない。日本だけじゃない。世界中のどこかにいる、顔のないヒトラーたち。
僕はその中に入らず、「心を開いて」生きていけるだろうか。
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