『脳男』を観てきた。
善と悪とは対立する関係でありながら、正義という言葉の下においては、根幹が同じものになる。
なぜなら、正義は絶対的な位置にあるものではないからだ。
正義をなすための善。
正義をなすための悪。
だから、完全なる善も悪も無い。
裁判は法に照らして悪を裁く。
法が正義となる。
だが、法は最大公約数的な正義の集大成だ。
だから、悪が取りこぼされる時があり、善が割を食う時がある。
疑わしきは被告人の利益に、だ。
脳男は正義を持たない。己の中に絶対的な善を持ち、悪をなす。
脳男は人としての感情が欠落し、その振る舞いは機械のようだ。
だが、相対的で最大公約数的な正義よりも、絶対的で排他な善、あるいは悪をなすことは人間らしさなのではないだろうか。
彼は、本能的な人間らしさを具現化した男のようにも僕には見えるのだ。
善と悪とは対立する関係でありながら、正義という言葉の下においては、根幹が同じものになる。
なぜなら、正義は絶対的な位置にあるものではないからだ。
正義をなすための善。
正義をなすための悪。
だから、完全なる善も悪も無い。
裁判は法に照らして悪を裁く。
法が正義となる。
だが、法は最大公約数的な正義の集大成だ。
だから、悪が取りこぼされる時があり、善が割を食う時がある。
疑わしきは被告人の利益に、だ。
脳男は正義を持たない。己の中に絶対的な善を持ち、悪をなす。
脳男は人としての感情が欠落し、その振る舞いは機械のようだ。
だが、相対的で最大公約数的な正義よりも、絶対的で排他な善、あるいは悪をなすことは人間らしさなのではないだろうか。
彼は、本能的な人間らしさを具現化した男のようにも僕には見えるのだ。