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MARUMUSHI

映画とかTwitterとかとか。

『はいからさんが通る 前編 紅緒、花の17歳』。

2017-12-11 21:59:23 | 映画日記
『はいからさんが通る 前編 紅緒、花の17歳』を観てきた。
#はいからさんが通る #はいから

キャラクターデザインが公開されたときに「大丈夫かコレ」と思ったけれど、今の少女漫画タッチに書き換えただけのことで違和感はなかった。
昔、TVアニメでやってたよな、『はいからさんが通る』。
と思って調べてたら確かになってて、1979年放映で見たことないはずやけどなんか見たことあるんよな。。。

ものすごい勢いで話が進んでいくのでついていくのがけっこう大変だけども、もともとドタバタもののコメディーなのでまぁ雰囲気としては良いと思う。
けど、こんなに重い話やったっけ。。。そうか、時代が大正やから日露戦争の只中になってくるんやな。そしてこの前編では結婚するまでいかずに終わるんか。。。
運命の出会いと思えた人。戦争が引き裂くその仲。そして運命の再開と、更なる苦境、か。。。
これは確かに“当時の”少女漫画には受けがいい内容やな。
でも、はいからさんなのは女学生時代ぐらいのもんな気が。。。いや、波乱万丈な生き方という点では働く女性のはしり、はいからさん、なのかもしれんな。

ここから、ネイティブに話が進んでいくのか、何か捻りが入ってくるのかわからんけども、来年公開の後編がどうなるのか。。。
不安でもありながら楽しみではある。

それにしても、
いつだって 大キライは 恋のはじまり。
というキャッチフレーズは良いと思うね。


『Destiny 鎌倉ものがたり』。

2017-12-10 23:29:32 | 映画日記
『Destiny 鎌倉ものがたり』を観てきた。
#鎌倉ものがたり #DESTINY鎌倉ものがたり
輪廻という考え方を僕は受け入れないけれど、それでもこれは良い。

夫婦は何度も何度も同じ魂を伴侶として選び続けた。そして何度も何度も同じ魔物に邪魔をされ、何度も何度もそれをくぐり抜けてきた。
面白いのはこのことは全て込み込みで運命になっているということだ。
同じ魂を選ぶことも、同じ魔物に邪魔されることも、それをくぐり抜けることも。
妻は、夫を助けるために魔物と婚姻の宣誓書を書こうとする。
「わたしは、あなたの、妻になることを、永久に、誓い…」
とそこで言い淀み、助けが入るのだけれど、
「わたしは、あなたの、妻になることを、永久に、誓いません」
と言えばもう二度と魔物に襲われることはなくなる。なのにそれを言わない。
言ってしまえば、運命を変えてしまうから。
ひょっとしたら、次に同じ伴侶を選ぶことが出来なくなるかもしれないから。
それをどこかでわかっているのかもしれない。
そう考えると、魔物もかわいそうだ。
「もう誓いません、っていってくれよ!!」という気持ちも出てくるんじゃないだろうか?
随分残酷な運命に巻き込まれてしまったものだ。
時分が魔物側なんだとしたら、運命論はないと思いたくなる。

安藤サクラ演じる死神が好き。こんな役もできる人なんや、と思った。
死神が特定の人物に肩入れしたり、同情したりしちゃって良いのかとも思うけど、キャラクターを持った死神がいたって良いと思う。
死神じゃないけれど、僕が書いた悪魔は紳士的な態度を取るように設定した。恐ろしいと思われているモノは存外思った感じと違うのかもしれないな。




『ひかりのたび -dream of illumination-』。

2017-11-27 21:16:11 | 映画日記
#ひかりのたび #dream of illumination #ひかり
『ひかりのたび -dream of illumination-』を観てきた。

光は色々なものを映し出す。
映し出されるものは、その角度で色々な表情を見せる。
カッコイイ、カッコ悪い。優しい、怖い。かわいい、不細工。
どんな風に光を受けても物事が一刀両断で分けられれば楽だけれど、実際はそうじゃない。
善だけど悪。悪だけれど善。光の当たり方で人はコロコロと変わる。どっちが本物か?いや、どっちも本物じゃない。そもそも人に本物も偽物もない。ひかりの当たり方次第だ。

不動産ブローカーを父に持つ女子高生。彼女は父の仕事の業の深さを彼女なりに理解し、彼女なりにそれが自身に同影響するかも理解している。
父は良い人でも悪い人でもない。
娘を思い、全力で守ろうとする。幸せを願う。父ならば不自然なことじゃない。
でも、彼のやっている仕事は敵を増やす。街中を敵にするかもしれない。
田舎に行けば行くほど、町は閉鎖的になる。外から来た者はやはりよそ者とみられてしまう。父はそれの町を巧妙なやり方で切り売りする。海外のブローカーにも。そのやり方を町の人間はどうしても認められない。「代々守ってきた土地」という考え方があるからだ。でも、閉じた町を開き、町を再開発することも1つの考え方だ。どっちが良いとか悪いとかではない。ひかりのあたりかた次第で変わるのだ。

僕は思う。
町の有り様なんて、あるべき形に、あるべきようにしかならないのではないか、と。
ブローカーがどんなに頑張ろうが、町長がどんなに頑張ろうが、結局町の形はあるべきようにしかならないのだ。不動産ブローカーとしてそのことを知っていて、町長はそのことを認められない。それだけのことなんじゃないだろうか。
だから、机を拳で叩き呪うように声を搾る町長の姿に、不動産ブローカーはこういうのだ。
「大丈夫ですよ」と。
あなたが思うほど、悪い状況にはならない。
そして、わたしが思うほど、わたしは世界のことを知らない。
限定された場所にだけひかりは当たっている。わたしたちが見ているものは狭い範囲でしか物事を見ることは出来ないのだ。
だから、大丈夫ですよ。

町のレストラン。そこでバイトする娘の姿を、ぼんやりと眺めながら眠ってしまった父。
ふと目覚めた父は、水の入ったコップをひっくり返してしまう。あわてる父。
それを見て笑う娘。滑稽なものを見たという笑顔。
その姿を見て笑う父。
女子高生でもブローカーでもない二人の姿。
娘と父。それをはっきりと浮かび上がらせるひかり。
Dream of illumination
父が娘に見た光。これからもずっと続く、ひかりのたび。


全編モノクロという思いきった手法。
この作品に色はいらない。色という情報はむしろ邪魔になる。光と影があればそれでいい。
志田彩良の年の割には達観した考え方と同時に年齢相応の魂の揺らぎの表現が観ていて純粋さを感じる。
高川裕也は、慇懃無礼とも言える態度やフリをする態度。仕事をゲームと割り切っているような大人の気味の悪さが上手い。

舞台挨拶では、高川裕也さんは面白いオジサンです。悪い人ではない(とおもいます)。
澤田サンダー監督は多分シャイです。ずっと高川さんの顔を見て喋ってたのが印象的でした。



『南瓜とマヨネーズ』。

2017-11-19 19:25:08 | 映画日記
#南瓜とマヨネーズ
『南瓜とマヨネーズ』を観てきた。

魚喃キリコの作品と出会ったのは大学の時。
最初に読んだのは「blue」だった。今でも、一番好きなのは「blue」だ。
「南瓜とマヨネーズ」は読んだ時、分からない、の感想しか出てこなかった。
わかるんだけど。やわらかいSad Endなんだな、というのはわかるけど。

人は多面的な多色体。
時々刻々と見せる向きを変えるし、長い時間で見れば面の形も色も変わっていたりする。
どんなに尽くしても、噛み合わなければ、それは自分自身への言い訳になる。
別にそれでもかまわないとも思う。だから、惹かれ合ったり離れてしまったりするわけで。

恋愛にウンチクを述べられる人間じゃないけど。
近ければ幸せで楽しい。でも、見なくてはいけないものを見落とす。
遠ければ孤独で寂しい。でも、見なくてはいけないものの全体を見ることができる。
別れた恋人。離婚した夫婦。僕はそういう2人がこの2つの距離を持っているように思う。
お互いのいい面も悪い面も弱い面も全部知っていて、それに何処まで近づいて良いかも知っている。サポートするタイミングも知っている。
そんな最強のパートナーだ。
広田レオナと吹越満夫妻みたいな感じで。

20歳そこそこの自分では分からなかった35歳の自分がわかったことだ。

なんにもわかってないけど。




全然関係ないけど。
MOVIX京都のシアター4前のベンチでポップコーンをぶちまけちゃった人。
スミマセン、と何回も謝ってくれましたが、あれは半分、僕が悪かったので、こっちこそスミマセンでした。
館内スタッフを呼んだってことで勘弁してください。


『亜人』。

2017-11-14 18:42:47 | 映画日記
#亜人
『亜人』を観てきた。

作品から少し離れた話。
『亜人』探究心について。
純粋科学的好奇心。
北神伝綺。木島日記。
学窓会。
無論、これらは全て作り物。人体実験、非人道的社会実験、何でもあり。

「実際の人間で実験を行う。これはやってみたい行為だ」
純粋な好奇心で、人は人を丸太としか見れなくなる。
ナチス・ドイツのヨーゼフ・メンゲレの人体実験。
大日本帝国の九州大学生体解剖事件。
アメリカのMKウルトラ計画や原爆学級。
よくよく考えたら、今みんながやっている予防接種だって最初は人体実験だ。

亜人と呼ばれる人種が本当に現れたとして、
何をしても死なず。傷ついても死ねばリセットされる、その体質。
ミンチになっても死なない。
粉微塵にされても死なない。そして、リモートで動く分身を発動させる能力。
彼らを目の前にして、科学はそして科学者は、実験をやめることが出来るだろうか。

丸太として見ることしかできなくならないだろうか。

「彼らを研究すれば、今、あなたの病を治す薬が出来ます」
そう言われて、研究の支援をやめられるだろうか?
あなた、を、あなたの子供、に置き換えたらどうだろうか?
「彼らは何をしても死にません。病気に感染したとしても、殺してしまえば元に戻るんです」
どうだろうか?

亜人を最初から人としてみていれば、人として社会が飲み込んでいれば、この作品のような事態は起きなかった。
亜人などという便利な存在はおそらく存在しない。今後生まれることもない。
でも、亜人たちを「社会的に認めない」という感覚は絶対に消えない。
最近話題になっている、学生の頭髪の色の問題。些細な、いや些末な事かもしれないけれど、あれだって「社会的に認めない」の問題だ。だって、「頭髪を染めることを禁じる」校則が「黒髪にするために染める」というところまで陥ってしまっている。
もっと怖いなと思うのは、問題になっている髪の色を持つ子を誰も支援しない子どもたちだ。
「彼女が黒に染めるなら、私は茶色に染めます」「じゃぁ、僕は坊主にします」ぐらい言ってもいいと思う。
思考停止という言葉を大げさに使うけれど、要は日本のムラ社会が問題なだけだ。
そうして、「社会的に認めない」に当てはめられなかったものは排除される。

『亜人』は単なるエンターテイメント作品だから、高速の銃撃戦、頭脳戦を楽しむためにある。
だけど、観終わったあとで、身の回りの「認められない者たち」=「亜人」のことをちょっと考えてみると良いと思う。