かくして二週間で辞表を出して辞めることになった。よく世間で言われる、トンデモ新入社員の行状そのものである。しかし私は思うのだけれど、こういう風に個人を類型に分けて見るやり方ってあまり意味がない。つまり別の類型では、震災で被災して精神的に打撃を受け、仮設に引きこもって酒びたりになっている、哀れである、という見方もあるわけで(私は酒は飲めませんけれど)要するに個人の本当の姿というのは、当たり前のことだが各人それぞれ違う。
そんなわけで今の私の立場としては、私、新入社員の味方です。という感じである。新入社員諸君が職場に違和感を感じるのは、それはある意味職場にとっては貴重なことであって、内部の人間にはわからないことが、先入観のない目にはよく見えるということはあると思う。異臭のする部屋に初めて入ると鋭敏に感じるが、中にいるうちに慣れてくるようなものである。それが本当に人間にとって有毒な悪臭であるのか、発酵・醸造のようなその場に独特の空気であるのかは別として、臭いという感覚は、本人も周囲も大切にしてもらいたいと思う。
などと何だか山口瞳か伊集院静のようなことを書いてしまうけれども、私としてはそれどころでなかった。ここニ三日はあちこちにお詫び行脚であった。自ら選んだ道とはいえ相当くたびれた。そうかと言って仕事をそのまま続けるエネルギーももう無いのであるから、進むも地獄退くも地獄である。
日曜の昼に辞職願を郵送し、月曜の朝に学校に電話をかけて副校長に通告し、そのまま部屋を出て街に逃亡した。ところが私の乗ったバスが、停留所で一時エンストしたにはいささか焦った。本当にこういうこともあるのだ。昔だったら船が嵐に遭ったみたいに、この中に神意に叶わない者がいると言って、占いで生贄にされる所である。
しかし日常の通勤客を満載したバスはまもなく動き出し、私がドトオルで溜息をついている所に、学校から電話がかかって、一度話に来るようにというお招きを頂いた。このまま行方不明になって捜索願でも出されても困るので、話を付けに行くことにした。
屠所の羊というのはこういう局面ではないかと思うが、校長室に連れ込まれて、校長と教頭にひたすらあやまって、もう続けられませんということを八方陳弁した。その間に、昨日ポストに入れた辞職願が届いたにはいささか驚いた。なにしろ近いから、八十円なのにほとんど速達のような速さで届く。
当然のことながら校長は私がそこまで思い詰めていたとは全く知らないから、深呼吸して気持ちを切り替えなさいみたいな事をおっしゃり、二日間時間を上げますと言われたが、私にとってもはや酸素の量の問題ではないのであった。実はこのはるか後、心が本当にぐらついた局面が一回だけあったのだが、もはや手遅れであった。
それは後で書くとして、今回の就職はもともと大学の教授からの斡旋であったから、教授のところにも挨拶に行かねばならないとは私も思っていた。校長も、これから先生の所に行っといで(この校長はなんとなく姐御調になることがある)と言われたので、またバスに乗って大学に行くことにした。
教授には既にメールで知らせてあったから、詳しくお話をして、お詫びをした。例の長の話をしたら、教授は全面的に同感してくださって、そんなことは教員としては許されないことだとおもうね、とおっしゃった。そして、そんな学校の内情もよく知らずに紹介して済まなかった、とまで言って下さって、なんだか婚家でいじめられて逃げ帰った娘のような感じだったが、私は非常に感動したのである。
それが一昨日の話で、うちに帰って夜になるのを待って、長文のメールを事務担当の教頭(この人は温和なキリシタンで人格者である)宛に送った。とにかく自分としてはこの学校で勤めて行く自信を失ったということに尽きる。
それで夜が明けて昨日になって、とりあえず今日は最後に仮設実家に説明に行こうかとおもった。何しろいちばん最初、土曜日に泣きながら母親に電話をしたのが事の始まりだから、詳しい事情を話しておかなければいけない。
ところがそこへまた教授から連絡が入って、話し忘れたことがあるからこれから来ないかという。昨日の一件でひそかに感動しているから一も二もなく承知したが、正直に言うといささか迷惑であった。話し足りないといえば当然、やはり辞めずに続けなさいということに決まっている。あるいは、これがいちばん断りにくくて困る展開だとひそかに思っていたのだが、常勤から非常勤に降格するから、授業だけは続けてくれという話でも学校からあったか。
しかし常に事柄を本質的に考察する教授がおっしゃったのは、今回の件でいちばん迷惑するのは生徒である。自分も教員の一人として、生徒を第一に考えるべきだとおもう。辞めるという意志はそれとして、切りのいい所まで続けてはどうか、というご意見であった。まあこう言っては何であるが、私は当事者だから、他人の考えそうなことは大体考え尽くしている。授業に穴が空き、担当者が変わって、いちばん迷惑するのは生徒に違いない。しかし物は考えようで、まだ新学期になって二週間も経たないうちだからこそ、辞めるなら今がよいのである。続ければ続けるだけ傷は深くなる。
昨日の夕方、私が帰った後に校長から教授に電話があって、いま抜けられると授業に非常な支障を来すから、せめて一ヶ月でも続けてもらえないかと言われたらしい。きわめて常識的な話で、反発を感じる私の方がつくづく分からず屋だと思うが、今の段階で心身ともに限界だというのに、一ヶ月続けてさらにボロボロになって、それではいさようならとなったら、私は一体どうなるの、ということである。
結局、私の感情がこじれてしまったんだろうなと思うけれど、とにかく本音と建前、虚飾の多い学校だったなと思う。私を説諭している時に、あなたの代わりは居ないのよ、などと校長は有難い言葉をおっしゃったが、学校を出て歩きだした私の頭には自然と、今ごろ校長は県教委から講師登録者の名簿でも取り寄せているだろう、という想像が来た。それには何の根拠もないが、やはり本音はせめて一ヶ月、である。
そんなわけで教授には改めて存念を申し述べて、精神的にも変調である、ということまでお話しして、では仕方がないねと諦めていただいた。しかしやはり自分の仕出かしていることは本来許されないことなのだと改めて思った。
――しかしふと思うのだけれど、世の中に「許されないこと」というのは色々あるものである。当然人殺しとか詐欺とか法律に触れることもあるが、たとえば不倫の恋とか、人の感じ方はいったいどうなんだろうと思う。私は今回自分の身に起きてみて、本当はいかんのだけれども、どうしてもこうするよりなかった、という感覚はよくわかったような気がするのである。
それで教授との再度の談判もぶじ終わって、昨日の午後はようやく仮設実家に行った。うちの親はあまり余計なことは言わない方だから、こういう時は有難い。完全に理解してくれるとは言えない点もあるが、それは他人でない甘えからであろう。
晩ご飯を頂いてうちに帰って来て、最後の大仕事として、ゴミ袋一枚持って、夜陰に乗じて学校に乗り込んだ。最後に私物を引き上げるためである。土曜のうちに、いちばん貴重だと思われる辞書三冊は持ち帰って、月曜の朝に副校長に通告した時に、あとの私物は全部ゴミにして下さいとは言ってあったが、やはり片付けまで誰かにさせたのでは申し訳ない。
メールを出した教頭に、昼すぎ大学から電話をして、最終的な確認はしたが、その時何の指示もなかったので、学校に行っていいものやら判断がつかない。たぶん生徒の前には二度と姿を現してほしくないだろうと思う。私も長はじめ先生方には会いたくない。
それで夜九時前に行ってみたが、驚いたことに生徒がまだちらほらと帰る所で、しかも折悪く、私の授業にいた男子生徒だったようで、校門の所で先生どこ行ってたんですかと声を掛けられて狼狽した。私の方では誰とも判別がつかなかったが、真っ暗な中で、しかもマスクまで掛けて姿をやつしていたのに、よくわかったものである。
唯一私が辞職を後悔したのは、実はこの時であった。一時間半の校長の話など、怖ろしいばかりで何ら私の心には響かなかったが、この何も知らない生徒の素直な反応はこたえた。二週間ばかりで、ここまで私という存在は浸透していたかと改めて思った。実はひそかに誇らしい思いもあって、例の長の理不尽な暴挙に関係なく、私ってけっこういい先生じゃないかと思う。
詰め込んで来たゴミ袋の仕分けをしながら、今からでも辞表を撤回しようか、と一瞬だけ思ったのは事実である。しかしもうすべては過ぎ去ってしまったのだ。覆水盆に返らず、ではないけれども、世の中には戻せないことというのがある。今さら無理に戻したとしても、傷んでしまった私の心身では続かないのはわかっている。これは大きな流れの中の、一つの美しい挿話として憶えておくべきものだ。
かくして世間並みの専任は二週間で夢と消え(しかし本当にこの二週間は悪夢のようだった)さすらいの非常勤は今日も行く。to be continued.
そんなわけで今の私の立場としては、私、新入社員の味方です。という感じである。新入社員諸君が職場に違和感を感じるのは、それはある意味職場にとっては貴重なことであって、内部の人間にはわからないことが、先入観のない目にはよく見えるということはあると思う。異臭のする部屋に初めて入ると鋭敏に感じるが、中にいるうちに慣れてくるようなものである。それが本当に人間にとって有毒な悪臭であるのか、発酵・醸造のようなその場に独特の空気であるのかは別として、臭いという感覚は、本人も周囲も大切にしてもらいたいと思う。
などと何だか山口瞳か伊集院静のようなことを書いてしまうけれども、私としてはそれどころでなかった。ここニ三日はあちこちにお詫び行脚であった。自ら選んだ道とはいえ相当くたびれた。そうかと言って仕事をそのまま続けるエネルギーももう無いのであるから、進むも地獄退くも地獄である。
日曜の昼に辞職願を郵送し、月曜の朝に学校に電話をかけて副校長に通告し、そのまま部屋を出て街に逃亡した。ところが私の乗ったバスが、停留所で一時エンストしたにはいささか焦った。本当にこういうこともあるのだ。昔だったら船が嵐に遭ったみたいに、この中に神意に叶わない者がいると言って、占いで生贄にされる所である。
しかし日常の通勤客を満載したバスはまもなく動き出し、私がドトオルで溜息をついている所に、学校から電話がかかって、一度話に来るようにというお招きを頂いた。このまま行方不明になって捜索願でも出されても困るので、話を付けに行くことにした。
屠所の羊というのはこういう局面ではないかと思うが、校長室に連れ込まれて、校長と教頭にひたすらあやまって、もう続けられませんということを八方陳弁した。その間に、昨日ポストに入れた辞職願が届いたにはいささか驚いた。なにしろ近いから、八十円なのにほとんど速達のような速さで届く。
当然のことながら校長は私がそこまで思い詰めていたとは全く知らないから、深呼吸して気持ちを切り替えなさいみたいな事をおっしゃり、二日間時間を上げますと言われたが、私にとってもはや酸素の量の問題ではないのであった。実はこのはるか後、心が本当にぐらついた局面が一回だけあったのだが、もはや手遅れであった。
それは後で書くとして、今回の就職はもともと大学の教授からの斡旋であったから、教授のところにも挨拶に行かねばならないとは私も思っていた。校長も、これから先生の所に行っといで(この校長はなんとなく姐御調になることがある)と言われたので、またバスに乗って大学に行くことにした。
教授には既にメールで知らせてあったから、詳しくお話をして、お詫びをした。例の長の話をしたら、教授は全面的に同感してくださって、そんなことは教員としては許されないことだとおもうね、とおっしゃった。そして、そんな学校の内情もよく知らずに紹介して済まなかった、とまで言って下さって、なんだか婚家でいじめられて逃げ帰った娘のような感じだったが、私は非常に感動したのである。
それが一昨日の話で、うちに帰って夜になるのを待って、長文のメールを事務担当の教頭(この人は温和なキリシタンで人格者である)宛に送った。とにかく自分としてはこの学校で勤めて行く自信を失ったということに尽きる。
それで夜が明けて昨日になって、とりあえず今日は最後に仮設実家に説明に行こうかとおもった。何しろいちばん最初、土曜日に泣きながら母親に電話をしたのが事の始まりだから、詳しい事情を話しておかなければいけない。
ところがそこへまた教授から連絡が入って、話し忘れたことがあるからこれから来ないかという。昨日の一件でひそかに感動しているから一も二もなく承知したが、正直に言うといささか迷惑であった。話し足りないといえば当然、やはり辞めずに続けなさいということに決まっている。あるいは、これがいちばん断りにくくて困る展開だとひそかに思っていたのだが、常勤から非常勤に降格するから、授業だけは続けてくれという話でも学校からあったか。
しかし常に事柄を本質的に考察する教授がおっしゃったのは、今回の件でいちばん迷惑するのは生徒である。自分も教員の一人として、生徒を第一に考えるべきだとおもう。辞めるという意志はそれとして、切りのいい所まで続けてはどうか、というご意見であった。まあこう言っては何であるが、私は当事者だから、他人の考えそうなことは大体考え尽くしている。授業に穴が空き、担当者が変わって、いちばん迷惑するのは生徒に違いない。しかし物は考えようで、まだ新学期になって二週間も経たないうちだからこそ、辞めるなら今がよいのである。続ければ続けるだけ傷は深くなる。
昨日の夕方、私が帰った後に校長から教授に電話があって、いま抜けられると授業に非常な支障を来すから、せめて一ヶ月でも続けてもらえないかと言われたらしい。きわめて常識的な話で、反発を感じる私の方がつくづく分からず屋だと思うが、今の段階で心身ともに限界だというのに、一ヶ月続けてさらにボロボロになって、それではいさようならとなったら、私は一体どうなるの、ということである。
結局、私の感情がこじれてしまったんだろうなと思うけれど、とにかく本音と建前、虚飾の多い学校だったなと思う。私を説諭している時に、あなたの代わりは居ないのよ、などと校長は有難い言葉をおっしゃったが、学校を出て歩きだした私の頭には自然と、今ごろ校長は県教委から講師登録者の名簿でも取り寄せているだろう、という想像が来た。それには何の根拠もないが、やはり本音はせめて一ヶ月、である。
そんなわけで教授には改めて存念を申し述べて、精神的にも変調である、ということまでお話しして、では仕方がないねと諦めていただいた。しかしやはり自分の仕出かしていることは本来許されないことなのだと改めて思った。
――しかしふと思うのだけれど、世の中に「許されないこと」というのは色々あるものである。当然人殺しとか詐欺とか法律に触れることもあるが、たとえば不倫の恋とか、人の感じ方はいったいどうなんだろうと思う。私は今回自分の身に起きてみて、本当はいかんのだけれども、どうしてもこうするよりなかった、という感覚はよくわかったような気がするのである。
それで教授との再度の談判もぶじ終わって、昨日の午後はようやく仮設実家に行った。うちの親はあまり余計なことは言わない方だから、こういう時は有難い。完全に理解してくれるとは言えない点もあるが、それは他人でない甘えからであろう。
晩ご飯を頂いてうちに帰って来て、最後の大仕事として、ゴミ袋一枚持って、夜陰に乗じて学校に乗り込んだ。最後に私物を引き上げるためである。土曜のうちに、いちばん貴重だと思われる辞書三冊は持ち帰って、月曜の朝に副校長に通告した時に、あとの私物は全部ゴミにして下さいとは言ってあったが、やはり片付けまで誰かにさせたのでは申し訳ない。
メールを出した教頭に、昼すぎ大学から電話をして、最終的な確認はしたが、その時何の指示もなかったので、学校に行っていいものやら判断がつかない。たぶん生徒の前には二度と姿を現してほしくないだろうと思う。私も長はじめ先生方には会いたくない。
それで夜九時前に行ってみたが、驚いたことに生徒がまだちらほらと帰る所で、しかも折悪く、私の授業にいた男子生徒だったようで、校門の所で先生どこ行ってたんですかと声を掛けられて狼狽した。私の方では誰とも判別がつかなかったが、真っ暗な中で、しかもマスクまで掛けて姿をやつしていたのに、よくわかったものである。
唯一私が辞職を後悔したのは、実はこの時であった。一時間半の校長の話など、怖ろしいばかりで何ら私の心には響かなかったが、この何も知らない生徒の素直な反応はこたえた。二週間ばかりで、ここまで私という存在は浸透していたかと改めて思った。実はひそかに誇らしい思いもあって、例の長の理不尽な暴挙に関係なく、私ってけっこういい先生じゃないかと思う。
詰め込んで来たゴミ袋の仕分けをしながら、今からでも辞表を撤回しようか、と一瞬だけ思ったのは事実である。しかしもうすべては過ぎ去ってしまったのだ。覆水盆に返らず、ではないけれども、世の中には戻せないことというのがある。今さら無理に戻したとしても、傷んでしまった私の心身では続かないのはわかっている。これは大きな流れの中の、一つの美しい挿話として憶えておくべきものだ。
かくして世間並みの専任は二週間で夢と消え(しかし本当にこの二週間は悪夢のようだった)さすらいの非常勤は今日も行く。to be continued.