にゃんこと黒ラブ

猫達と黒ラブラドール、チワックスとの生活、ラーメン探索、日常について語ります

平時と非常時(内田樹研究室より)

2020-11-20 20:41:00 | 日常

 今日は将棋の王将戦挑戦者決定リーグ戦の最終一斉対局だ。これから帰ってLIVE映像を見る。永瀬王座が広瀬八段に勝てば全勝で挑戦権を得る。

 もし一敗すれば、羽生九段VS豊島竜王の勝者とプレーオフの対局が待っている。羽生先生はつい先日、髄膜炎で高熱出されて入院治療して退院したばかり。

 くれぐれもご無理されないでくださいと思っても、ここ一番の重要な対局が王将戦予選リーグと竜王戦第4局と続くから無理しないわけがない。トップ中のトップ棋士との対局ですから‥‥。










 内田樹研究室より抜粋(長文お許しを)
『平時と非常時』2020-11-04

(前略)
 平時と非常時では判断基準が変わる。
平時の判断基準を非常時にも持ち込むことを「正常性バイアス」と呼ぶ。自分の身にとって不利益な情報を無視しり、リスクを過小評価する心的傾向のことである。特に、自然災害や災害のときに逃げ遅れの原因となる。

 平時から非常時への「スイッチの切り替え」は難しい。コロナ感染拡大でも、「自分は感染していない。感染しても軽症で済む。他人に感染させることはない」というふうに考える正常性バイアスが働く。必ず働く。

 だが、非常時というのは正常性バイアスがもたらすリスクが劇的に高まる事態のことなのである。だから、どこかで平時から非常時にコードを切り替えて、正常性バイアスを解除しなければならない。

 問題は「正常性バイアスを解除する」というのがどういう振る舞いのことか、よくわかっていないということである。それを「いたずらに恐怖する」「過剰に不安になる」というふうに解釈すると、正常性バイアスの解除は困難になる。

 いかにも「格好が悪い」し、どう考えても「生きる力を高める」振る舞いではないように思えるからである。恐怖や不安に取り憑かれて浮き足立っている人間と、非常時にもふだん通りに落ち着いている人間のどちらが「危機的状況を生き延びられるか?」と考えたら、誰でも後者だと思う。

 『史上最大の作戦』では、ノルマンディー上陸作戦で最悪の戦場となったオマハビーチで、ドイツ軍の機関銃掃射をうけながら葉巻をくわえて海岸を歩くノーマン・コータ准将の姿が活写されている。彼の落ち着いた適切な指示によって連合軍兵士は防御線の突破に成功するわけだが、彼はどう見ても恐怖心に取り憑かれているようには見えない。だが、彼は「正常性バイアス」に固執していたからそうしたわけではない。歴戦の軍人としてちゃんと「非常時」へのスイッチ切り替えを行なっているのである。それは「自分が見ているものだけに基づいて状況を判断しない」という節度を持つことである。

 正常性バイアスの解除とはいたずらに怖がることなく、自分が見ているものだけから今何が起きているかを判断しない。自分が現認したものの客観性、一般性を過大評価せず、複数の視点から寄せられてる情報を総合して、今起きていることを立体視することである。

 「主観的願望をもって客観的情勢判断に替える」というのが正常性バイアスの実態である。主観をいったん「かっこに入れて」、複数の視点から対象を観察する知的態度のことを「正常性バイアスの解除」と呼ぶのである。

 私が見かける「コロナマッチョ」たち(マスクをすること、ソーシャルディスタンスをとること、頻繁に手指消毒すること、人が密集する場を忌避することなどを「怖がり過ぎだ」と嘲笑したり、叱責したりする人たち)の共通点は「私の周りでは死者も重症者もいない」というところから推論を始めることである。

 「私の周り」で現認した事実をもってさし当たり「客観的事実」であるとみなす態度は、他人からの伝聞を軽々には信じないという点では現実主義的であるし、成熟した大人の態度でもあると言える。けれども、これは「正常性バイアス」のひとつのかたちである。

 正常性バイアスは「非常事態というのはなかなか起こるものではない」という判断としては適切だが、自分の個人的な感覚や知見の客観性を過大評価するという点では適切でない。

 こういう人に対して、ふだんからものごとを複眼的にとらえる知的習慣を持っている人がいる。自分の現認したことはあくまでも個人的、特殊な出来事であり、そこからの推論は一般性を要求できないという知的節度を持つ人は、いわば日常的に正常性バイアスの装着と解除を繰り返していることになる。こういう人は非常時になっても「驚かされる」ということがない。

 非常時というのは、「自分以外の視点からの情報の取り込みを一気に増大させないと、何が起きているのかよくわからない状況」のことである。だが、日常的に「自分以外の視点からの情報の取り込み」を行っている人にとっては、これは「スイッチの切り替え」というよりは、「目盛りを少し右に回す」くらいの動作を意味する。

 だから、そうすることにそれほど激しい心理的抵抗を感じずにすむ。日常的に「他者の視点」から目の前の現実を眺める仕事に慣れている人間が、最も非常時対応に適しているということになる。(後略)






  
 平時と非常時のスイッチの切り替え、対処の心構えと行動をすぐに対応することは難しいが、なるほど安全性の感覚を自分の感覚に固執しないことが危機を脱する知恵なのだと内田氏に教えられた気がする。

 複合的な視点か、それらを総合できる視点が備われば良いのだけれどそれは簡単にはできないだろう。普段からそういう柔軟な見方をしていないとなかなか身につかないと思う。