井上靖先生のもうすでに絶版になった本(随筆集)を某図書館でもう何十回も借りては読んで返している。
昨年、当ブログにて紹介した。その後、金沢を舞台に『めいぷるアッシュ日々是好日』のpon1103さんが、四高時代(現金沢大学)の井上靖先生の柔道部での出来事と先輩、同級生との別離について語った、この本の中の「雪の原野」について原文をブログに掲載してくださった。
人生には別離がつきものだが、戦争で仲間を亡くした別離があまりに突然に襲ってくる表現しようのない慟哭を静かにありのままに語ってらっしゃる。あまりに感動的で言葉にできない切なさがある。
この本のどこを読んでも素晴らしい随筆なのだが、とりわけ「別離」と「人生について」と「近時寸感」の箇所は心に迫って来て何度読んでも感動する。
p112の「人生について」の光陰矢の如しから一部紹介させていただく。
『人生というものが、従ってまた人間というものが解らないからこそ、文学者の立場はあるのであり、いかに解らないかを書くのが文学者の仕事と言ってもいいかと思う。だから古今東西の文学の傑作は例外なく、人生の底知れぬ大きさを、不可解さを、神妙さを取り上げて、読者に感動を与えている作品である。この作品を読めば、人生というものが解るといったような大文学作品はない。
その解らない人生というものへ、次々に人間は入って行く。父が入り、子が入り、この子供が入って行く。そして、父が解らないように、子供も解らず、子供のまたその子供も解らないのである。人生以外の知識というものは先生が生徒に与えたり、父親が子供に与えたりすることはできるが、人生に関する知識だけは誰にも与えることはできない。
それぞれが体験を通じて自分のものにすることができるだけである。人生というものは解らないが、七十年生きれば七十年の、八十年生きれば八十年生きただけの人生知識というものは持てるに違いないと思う。
人生に対するその人なりの解釈である。万人には通じないかも知れないが、その人なりの人生解釈は持てるだろうと思う。しかし、あくまでもその人の人生解釈であるに過ぎない。
いずれにせよ、私はこれからどれだけか解らない人生を突っ走らねばならない。しかし次の走者にバトンタッチする時は、人生肯定者でありたいと思っている。ー 光陰は矢のようだ。しかし、人生の山河はいかに荒廖(こうりょう)たるものであろうと、十分走り切るに足る価値があるものだと、力を込めて、バトンを渡したいと思うのである。』
今の歳になったからなんとなく解ることがある。仕事や研究をリタイアしたら、またいつか井上先生の小説読めることを楽しみに心待ちにしています。
人生のバトンか、もうすこしだけ思いっきり走らせてください。