彼が書いたのだから、私はもう書かなくても良い。良かった、と思った。
2015-11-26
20歳の頃、ル・クレジオに出会った。
ほどなく彼の哲学の書とでも言うべき「物質的恍惚」が出版された。
私は直ぐに購読した。
驚いた。
もう一人の僕が居る。…
この世界には、もう一人のあなたがいるという…
私は正にその事を強烈に実感したのである。
彼が書いたのだから、私はもう書かなくても良い。
良かった、と思った。
私は私の人生を生きてゆけば良い。
北京大学の哲学科を卒業して日本に学び、日本に帰化した石平さんの心を一番動かしたのが、京都だった事、出会いは嵐山だったこと、
それから彼が京都を歩き続けた時間は、私と全く同様だったと言っても過言ではなく、私は、石平さんも、この世界にいる、もう一人の私でもあったのだと思うほどなのだ。
以下は、先日、まえがきを紹介した、彼の本、私はなぜ「中国」を捨てたのか、のp201からである。
嵐山で言葉を失う
私にとってはたいへん意外なことだったが、1988年の春に日本に来てまもなく、感動的な出会いが私を待っていた。
日本に来たのはこの年の4月だった。
そして5月のある日曜日、私の日本留学に助力してくれた中国人留学生の親友が日本人の彼女と一緒に、私を京都観光へと案内してくれた。
日本に来て、初めての物見遊山である。
今でも鮮明に覚えているが、それは5月の小雨の降る涼しい日であった。
親友が案内してくれたのは、観光名所の嵐山、嵯峨野周辺だった。
もちろん、その時の自分は「あらしやま」と聞かされても、どういうところかまったく知らなかった。
かの周恩来が、日本留学時代に見物に行って詩を詠んだ場所だと親友が言うので、まあ、多少風光明媚な観光地の一つではなかろうかと、漠然と思いながら案内役の二人に付き従った。
阪急電車の嵐山駅から歩くこと数分、一本の川(桂川)のほとりにたどり着いた。
そして、一面の景色が目の前に広がったその瞬間、私は息をのんだ。
新緑に抱かれる山々が、乳いろの山霧にかすんでいる。
山の麓からは、青く澄んだ川の水がゆったりと流れてくる。
古風な形をもつ一本の橋が、清流の上に優雅にまたがり、川の向こうには伽藍らしき屋根が幾つか、煙雨の中でかすかに見えている。
それはそのまま、一幅の水墨画のような恍惚境であった。
私はしばらく言葉を失い、二人の連れの存在も忘れた。
ただ目を細めて、静かに、心ゆくまでうっとりと、目の前の景色を眺めていた。
もちろん、それは自分が生まれて初めて目にした、嵐山の5月の小雨の景色である。
しかしどういうわけか、それを見知らぬ異国の風景として眺めている感覚が、まったくなかった。
いや、むしろ、どこかで見たような、懐かしい思いだった。
夢の中で見たのか、想像の中で見たのかよく分からないが、それは間違いなく、自分の心がごく自然にその中に融け込むような「なじみ」の風景である。
この稿続く。