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日本の韓国併合が世界の植民地政策と徹底的に違うところとは? 

2022年12月13日 11時56分19秒 | 全般

2014年8月まで朝日新聞を購読していた私は渡部昇一氏が本物の大学者であることを全く知らなかった。
朝日新聞を購読していた殆どの人も同様だったはずである。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。

p223-p233

日本の韓国併合が世界の植民地政策と徹底的に違うところとは? 
日露戦争から5年後の明治43年(1910)8月22日、日本は大韓帝国を「韓国併合二関スル条約」に基づいて併合した。
これにより、韓国皇帝は大韓帝国の統治権を日本の天皇に譲与することになった。
これが「日韓併合」(韓国併合)である。 
しかし、この韓国併合は日本が決して積極的に進めたものではなかった。
むしろ予想外の展開といえるような出来事であった。
これには前段階がある。
日本は日露戦争直後の明治38年(1905)11月、大韓帝国と第二次日韓協約を締結した。
これによって韓国が日本の保護国になることが決まった。
そして韓国統監府を置き、伊藤博文が初代統監として就任することになった。 
日本にとって韓国の併合は重い負担を背負い込むことになるため、伊藤博文は韓国を併合することに反対していた。
もしも韓国を併合して日本が朝鮮半島を防備するとなれば、その負担はたいへんなものになる。
これに加えて特に産業らしい産業もない朝鮮半島に工業を興し、インフラを整備するとなれば、これはおおごとである。
日露戦争に勝ったとはいえ、日本はヨーロッパ列強のような植民地経営をする状況になかった。
伊藤にはそれがよくわかっていたのである。 
ただ、いつまでも韓国の外交がぐらぐらしたままでは日本の国益が損なわれることになる。
実際、日清戦争にしても日露戦争にしても朝鮮問題がその主因となっている。
そこで韓国が近代化して富強になるまでの当分の間、外交権だけ預かればよいのではないか、という方針が出され、韓国を日本の保護国にすることになった。
韓国もそれを承諾し、日韓協約が結ばれたのである。                         
ところが韓国は、協約に基づいて日本が外交権を預かっているにもかかわらず、1907年(明治40年)にオランダのハーグで開かれていた平和国際会議に密使を送り、自国の外交権回復を訴えた。
しかし、これは出席していた各国から総スカンを食って、韓国は会議への参加を拒絶されている。
さらに、明治42年(1909)10月26日に、伊藤博文がハルビン駅で韓国人テロリストの安重根によって暗殺されるという事件が起こった。
これによって、日本国内の世論は一気に韓国併合へと傾き、翌年、正式に併合することになるのである。
これに対して国際社会の反応はどうだったかというと、各国とも朝鮮半島が不安定な状態にあるのは利益に反するという意見で一致しており、イギリスもアメリカも、むしろ積極的に日本の韓国合併を勧めていた。
ただアメリカは、韓国併合を認める見返りにアメリカのフィリピン支配を完全に認めることを求めた。
一方、イギリスは、同盟国の日本が強いほうがシナ大陸の利権を守りやすいということで韓国併合に賛成していた。 
しかし、アメリカ、イギリスから勧められたとからといって、日本はすぐに飛びついたわけではない。
ロシアや清国も含めた各国の意見を十分聞いて、1か国も反対することのないことを確認したうえで併合を決めたのである。
当時出版された、ポピュラーではあるが権威もあるブリタニカの11版を見ると、韓国併合について「植民地化(colonization)」という言葉は使っていない。
「annexation」といっている。
annexationとは、例えばイギリスだと、イングランドとスコットランドの土地関係の問題に使う言葉である。
colonizationが劣った国から収奪するという意味になるのに対し、annexationはくっつき合って同等の国になろうとすることを意味する。
イングランドとスコットランドの関係は、イングランドがスコットランドを植民地化したとはいえない。
日本と韓国の関係はそれと同じだと見なしていたのである。 
事実、日本は非常に短期間で韓国に大幅に施政権を移している。
日本の県会議員に相当する議員は非常に早い段階でほとんど全員韓国人になっているし、県知事に相当するような人も出てきている。
その頃、韓国のほうにも併合運動を進める動きがあった。
当時の韓国で最大の政党が合併論に賛成していたのである。
その理由として当時よく使われたのは、「日韓同祖論」という考え方であった。
日本も韓国も先祖は同じだ、というわけである。これは部分的には正しいと思う。
少なくとも百済と古代の日本は同祖論といってもいい関係にあったはずである。
そのようなことで日韓両国は合併したわけだが、韓国がほかの世界の植民地と徹底的に違うところは、日本がたいへんな金を持ち出して韓国を日本と同じレベルまで引き上げようと努力している点である。
小中学校をつくって義務教育を施し、大学をつくり、専門学校をつくり、それまでほとんど知られておらず、したがって使う人のいなかったハングルまで教えている。
また、韓国の王家は末代まで王のままで、皇太子は皇太子のままで変わらなかったし、韓国の正式な両班、すなわち伝統的な貴族はそのまま日本の華族になった。
こうしたことは、ヨーロッパの植民地では決して起こり得なかった。
インドやビルマの貴族がイギリスの貴族になることはあり得ないし、インドネシアの集落の長がオランダの貴族になるなんて考えられない話である。
だから、韓国併合を日本による韓国の植民地化と考えるのは明らかな間違いである。 
韓国併合は日本の敗戦とともに終わり、その期間は三十数年にすぎない。
その間に人口も物産も飛躍的に増大した。
わずか三十数年だから溶け合わない部分もあっただろう。
しかし、もしそれが五十年だったら、あるいは百年だったら、両国の差はイングランドとスコットランドの関係のようになっていたかもしれない。
日本のめざしたのはそういう両国の関係であった。
それが当時の世界情勢の中で両国の国益にかなう残された唯一の道であると信じていたのである。

 



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