映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

靴みがき (ヴィットリオ・デ・シーカ)

2012年12月05日 08時43分38秒 | ヴィットリオ・デ・シーカ

(1946年 90分)
子供の人権擁護

第二次世界大戦後の混乱のなか、貧しいながらも、家族の生活を支え、かつ、自分達の馬を持つことを夢見て、必至にお金を貯める2人の少年.靴みがきだけではなく、アメリカ兵から貰ったチョコレートを、自分では食べずに売る、あるいは、悪と知りつつも、闇物資、盗品の売買の手伝いをする.確かに悪と言ってしまえばそれまで、けれども子供なりに必至になって頑張って生きている、その様子を、デ・シーカは決して暗いものではなく、はつらつとした姿に描いているのね.足の速そうな馬を見つけて、欲しくてたまらず、どうやって飼うか当てもないままに、買ってしまう.

親と死別、子だくさんに女手一つ、正確な言い方ではないかもしてないけれど、そうした家庭環境.本来、親に養われ勉強すべき子供たちが、自分の力でたくましく生きている.その子供たちに対する、大人達はと言えば、親は子供に生活費を縋り、警察は取り締まりによって、靴みがきの子供たちを単に追い払うだけでなく、道具を没収する.悪党は、密売の品物を届ける仕事と偽って、強盗に押し入る手先に使った.
劣悪な環境の少年院、あるいは刑務所ですか.所長はその環境を改善する努力をするどころか、消毒をしなければという所員の訴えをはねつける.

生活のみならず、子供の心を育てる力が、彼らの親にはない.ならば、社会全体が子供を守る、描かれたもので言い換えれば、社会的な地位のある人間が、率先して弱い子供たちを養護しなければならないはず.何年生きても、分かったふりをするだけで、何が大切かを考え理解しようとしない、一番大切な心を分からないなどと言っているものは、人間とは言えません.
私なりに順序立てて書けば、まず裁判官.描かれた言葉を借りよう「人でなしの、へぼ判事」.裁判の過程において、なんら、子供の心を理解しようとはしない.人の心を理解しようとしないから、だから、人でなし.
弁護士の一人は確かに雄弁な弁護をした.けれども、最初の面会の時、今一人の少年に弁護士が付かないことを知って、彼一人に罪をなすりつけるように勧めたのでした.
もう一人の弁護士は、マントを羽織るのに見事なほどに時間をかけて、これまた見事なほどに、何も弁護をしない.

さて、収容施設の所長.彼は少年院を、ここは刑務所だ、どうも、こう言い放ったようなのですが.拷問しているかに見せかけて、子供の自白を強いた.拷問は悪いから、そう見せかけただけ.それは違う.言いたくないことを言うとは、自分に嘘をつくことである.つまり、所長は子供に嘘をついて、子供に嘘を言わせた.その結果は、仲の良かった2人の少年の心を引き裂き、歪めていった.子供の心を苦しめれば苦しめる程、子供は心を歪めて行く.そして、大人によって歪められた子供の心が、最後の悲劇を引き起こす.

今一度書けば、社会的地位のある者ほど、社会全体に負うべき責任は重いはずである.

戦争の傷跡を引きずる大人たち、あるいは社会、そうした現実から、次の時代を担うべき子供たちの心を如何にして守るべきか、それを問い質す映画であり、少し後に撮られたロッセリーニのドイツ零年も同じことを描いている.ドイツ零年では冒頭の字幕で、子供の人権の擁護を目的とする、と、明確に断っています.


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