映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

映画『異邦人』- LO STRANIERO - (監督 ルキノ・ヴィスコンティ、原作 アルベール・カミュ)

2016年05月07日 08時05分04秒 | ルキノ・ヴィスコンティ
『異邦人』- LO STRANIERO - イタリア、フランス
公開 1967年 101分
監督 ルキノ・ヴィスコンティ LUCHINO VISCONTI
原作 アルベール・カミュ ALBERT CAMUS

出演
マルチェロ・マストロヤンニ MARCELLO MASDTROIANNI
アンナ・カリーナ ANNA KARINA



笑わない子
子供に耐えきれないほどの苦しみ悲しみを与えると、笑わなくなってしまう.
子供は苦しみ悲しみを理解して耐えるのではなく、単に心の奥底に押さえつけて耐えることしか出来ない.笑うと、無理矢理押さえつけている苦しみ悲しみが、押さえきれなくなって一緒にでてきてしまう.悲しみを押さえるが為に喜びも感じないようにするしかなく、結果として、無感動な生き方をすることになる.
笑わない子は、実は泣かない子、泣くことが出来ない子である.


不満と満足
社長からパリへの転勤の話があった時、彼は学生時代までは野心を持っていたと言った.お金が続かなくなったためであろう、中退しなければならなくなって、自分の満足のいく将来が失われた時、満足を求めないと同時に不満も抱かない、言い換えれば何事にも感動を抱かない生き方をするようになったらしい.
おそらく、母親の生活力から学費が続かなくなって中退することになったのであろうが、彼は母親に不満を言っても無駄なことが良く分ったので、何も言わずに耐えたのだと思われる.
同様に、母親を養老院に入れたことに関しても、自分の稼ぎに合わせて出来るだけの事をしたのであり、その事に関して母親から不満を言われる筋合いはないと、彼は考えていた.
母親の稼ぎに合わせて学校を中退した、それが為に自分の稼ぎも限られることになったのであり、結果として、養老院に入れるしかなくなったことに不満を言われたとしたら筋違いであろう.裁判で検事は、母親を養老院に入れたことに対して、薄情者、親子の愛情がないと責めたてたが、だったら子供の学校を続けさせることが出来なかった母親も、子供への愛情がないと言わなければならない.

人は何時かは死ぬ、70まで生きても、30で死んでも同じ.本当にそうならば、30から70までは死んでるのと同じことに、生きている価値が無いことになる.今日一日が単に過ぎ去ればよい、彼は生きている価値を何も見いだすことが出来ない、そうした日々を過ごしていた.

母親が死んでも、別段悲しいとも感じなかった.なんでもいいから早く葬儀を済ませて家に帰りたかったのであろう.
好きな女が出来て身体を求め合っても、結婚生活の夢を抱くことは出来なかった.
彼は、悲しい感情も、楽しい感情も、どちらも押し殺して生きていた.それが為に、相手がナイフを構えて向かってこようとしたとき、何も考えることも無く、4発の銃弾を撃ってしまった.好きな女が出来ても楽しい結婚生活を想い描くことが出来なかったように、人を殺すことに対して、悲しい感情を抱くことが出来なかったと言ってよいであろう.

『最後に言うことはないか?』、裁判長に問われて、
『殺意はなかった』と、彼は言い張ったのだが.....

一番の有罪の決め手になったのは、友人の男に騙されて、娼婦の女に手紙を書いたことであろうか.この時も、彼は友人に騙されたとは言わなかった.あくまでも友人だと思っていると言った.

満足を求めない変わりに、決して不満も口にしない男だった.それが為に、死刑になってしまったと言ってよいであろう.
教誨師は嘘つきであった.『あんたが来たら明日は執行の日だ』と言うと、『きっと上告が認められる』と嘘を言った.そして、神を信じろ、死後の世界を信じろ、嘘を信じろと彼を責め立てた.が、彼は自分なりに真実を述べたけれど、死刑になろうとしているのである.そんな話は聞きたくない、帰ってくれと言って当然である.

彼は、真実を述べたにもかかわらず、検事、裁判官、教誨師、誰も彼を理解しようとしなかった.死刑の執行を待つ怯えた日々を過ごす内に、彼は真実を理解しようとしない者達に対して、押さえきれない不満を抱くようになっていた.その結果、同時に、生きることへの満足を求めるように、好きな女と一緒に暮したいという夢を抱くようになっていた.
彼の母親も同様であったようだ.死期が近づいていることを自覚する歳になって婚約者を見つけていた.生きる夢を抱いていた.もっと生きたいと望んだのだ.
おそらくは、彼が学校を中退したときから、彼の母親も、彼と同様に、無感動な日々を送ってきたのであろう.

さて、もう一度元に戻って.
彼は無感動な日々を過ごしていた.生きる望みを抱かない、生きる価値のない日々を過ごしていた.それが為に、何も考えることなく4発の銃弾によって殺人を行ってしまったのである.
その彼が、死刑執行を前にして、生きたいと望んだ.生きる価値を見つけ出した彼を殺そうとする、死刑とはそう言う行為であった.
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2019年10月30日追記

1.ムルソーが言っていることを、理解出来るかどうか?.
2.理解できるのならば、彼の言っている事が、正しいかどうか.
と、どうしてもこのように考えがちになるのですが、上の二つの項目は置いておいて、彼が裁判で嘘をついていたかどうか?.
こう考えれば、彼は裁判で真実を述べていた、あるいは真実を述べようとしていたと言えるはず.

教誨師
教誨師は嘘つきであった.『あんたが来たら、明日は執行の日だ』と言うと、『きっと上告が認められる』と嘘を言った.そして、神を信じろ、死後の世界を信じろ、嘘を信じろとムルソーを責め立てた.
ムルソーは自分なりに真実を述べたけれど、死刑になろうとしているのである.教誨師に対して、そんな話は聞きたくない、帰ってくれと言って当然である.

教誨師は、数時間後に死刑が執行されることを知っていて、ムルソーに嘘をつくように強要した.教誨師は嘘をついて死んで行けと言ったのである.嘘をついてはいけない.正しいいことを言って生きて行かなければならないのは、誰にでも分ること.と、考えれば、裁判で真実を述べようとしたムルソーは生きて行かなければならなかった.....死刑にしてはならなかったと言える.


現実の裁判とは.....
綺麗事の謝罪の言葉を並べて、判事の心象を良くして情状酌量を求めて、少しでも罰を軽くしようとする.
要するに、嘘つきによって行われるものなのです.

では、裁判で真実を述べるとどうなるか.
『光市母子殺害事件』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%B8%82%E6%AF%8D%E5%AD%90%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
『異邦人』も『光市母子殺害事件』も同じ結果になった.
真実を述べている事を理解されず、供述の内容を理解されず、死刑になりました.

『光市母子殺害事件』の弁護団を、当時、橋下徹は批判しました.
綺麗事の謝罪の言葉を並べて、判事の心象を良くして情状酌量を求めて、少しでも罰を軽くしようとしないから、死刑になるのだ、と.
橋下徹は、罰を軽くするには嘘をつくことが当然だ、と、言ったのです.

以前に、ミスを犯した航空管制官の裁判がありました.
ヨーロッパではこのような裁判は、ミスを犯した者を処罰するのではなく、同じ間違いを繰り返さないために、罰則は軽くして真実を述べることを求めるのが当然になっているのですが、日本では厳罰を求刑しました.

『光市母子殺害事件』では、被告が被害者に対して残酷な供述をしました.確かに真実を述べたからと言って、被害者感情を逆撫でするだけだったかもしれない.けれども、嘘をついていては間違いなく何も分らない.真実を述べても何も分らないかもしれないけれど、ひょっとしたら何か分るかもしれない、その程度の意味しかないかも知れないけれど、けれども、真実を述べる事を、正しいこととして評価しなければならないはずである.




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