映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

処女の泉 (イングマール・ベルイマン)

2012年12月06日 05時45分15秒 | イングマール・ベルイマン

(1960 89min)

憎しみと罪
順序は逆ですが、まずカーリンを殺した兄弟から.彼らは単に悪い、誰がどう考えても悪いやつらということで考えるものはない.けれども一番下の子供は、何も悪くなかった.彼には罪はありません.

インゲリ.
彼女はカーリンを憎んでいました.これは彼女自身がそう言っていることです.憎しみと罪の絡みで考えてみると、彼女の罪はカーリンが襲われるのを見ていながら、憎しみから救うのを躊躇ったことにあります.これも、彼女自身が父親に告白することであり、描かれたとおりと言えます.
そして、この点で付け加えれば、彼女はカーリンに不幸が訪れるように、悪魔か何かに祈ったみたいですが、まともな人ならその所為でカーリンが強姦に襲われたとは考えないはず.当たり前のことですが宗教は関係ありません.いくら憎い相手であっても、襲われ殺されるのを、観てみぬ振りをしたのは許されない.インゲリの、憎しみと罪の絡みは、これでよいでしょうか.

父親.
法治国家では復讐は許されない事かもしれませんが、時代背景は犯罪者を裁く法律その他が整っていない頃の事、法治国家ではないのですから、復讐という行為が良い事か悪いことか、この点は考えないことにします.カーリンを殺した兄弟二人は、この場合復讐によって殺されても仕方がないとしておきます.書き加えれば、父親は兄弟二人に対して一人で立ち向かった.身を清め彼自身が死ぬ覚悟で立ち向かったと考えて良く、卑怯なものは何もありません.
問題は一番下の幼い子供まで殺してしまったことにあります.食事中の様子とか、上の二人からこの子が殴られていた事とかから、皆にもこの子に罪がないのは分かったはずであり、事実、母親はこの子をかばいました.なのに父親は衝動的にこの子まで投げ殺してしまったのです.この行為は復讐ではなく、単に憎しみの所為に他なりません.憎しみから罪のないものを殺してしまった、ここに罪があると言えます.

信仰と罪.
インゲリはカーリンに不幸が訪れるように悪魔に祈りましたが、決してその所為であの兄弟に襲われ殺されたのでなく、父親もそんな事は分かっているから、インゲリの告白を聞いてそれ以上に責めることはありませんでした.神様に(悪魔に)お願いしても現実に罪を犯すことはできません.(人の不幸を願うことは心の中であってもいけないことですが)
インゲリは悪魔に祈って罪を犯したのではなく、襲われるカーリンを憎しみから見殺しにしたことに罪があり、そしてその罪は「自分が悪い.あの兄弟は悪くはない」と父親に告白することによって、許されるものがあったと思われます.

さて、父親の場合は.非常に信神深い一家でなのですが、彼は殺人を犯しました.憎しみから罪を犯したのは、インゲリも父親も、違いはありません.そしてインゲリが信仰心で罪を犯したのでないのと同様に、信仰深い父親ではあるのですが、信仰によって罪が許されることはないと言えます.
そして、その事は父親自身が一番よく解っている事であり、もし、父親が神に祈って許されるならば、インゲリは悪魔に祈れば許されることになる.インゲリは自分に罪を告白したからこそ許された.
では、一体自分はどうしたら良いのか、天に向かって(神に向かって)「私には分からない」.


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