映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

映画『自転車泥棒』 - LADRI DI BICICLETTE - (ヴィットリオ・デ・シーカ イタリア)

2012年12月05日 19時16分13秒 | ヴィットリオ・デ・シーカ
自転車泥棒 - LADRI DI BICICLETTE -
1948年 イタリア 85分

監督  ヴィットリオ・デ・シーカ VITTORIO DE SICA
製作  ヴィットリオ・デ・シーカ VITTORIO DE SICA
原作  ルイジ・バルトリーニ LUIGI BARTOLINI
脚本  チェザーレ・ザヴァッティーニ CESARE ZAVATTINI
    スーゾ・ダミーコ SUSO D'AMICO
撮影  カルロ・モンテュオリ CARLO MONTUORI
音楽  アレッサンドロ・チコニーニ ALESSANDRO CICOGNINI

出演  ランベルト・マジョラーニ LAMBERTO MAGGIORANI
    エンツォ・スタヨーラ ENZO STAIOLA
    リアネーラ・カレル LIANELLA CARELL
    ジーノ・サルタマレンダ




父親は追い詰められ困り果てた末、とうとう自転車を盗んでしまいました.父親も自転車泥棒、若者や老人と同様に自転車泥棒になってしまったのです.....
けれども、彼は自転車を返し、そして泣いて詫びました.彼はきちんと自分の犯した罪を悔いたのですが、それに対して、老人は、若者は、自転車を返したのか、一言でも詫びたのか.
身よりのない老人であっても、あるいは、持病を持った若者の場合であっても、自分の犯した罪を詫びることは出来たはずである.けれども彼らは、自転車を返しもしなければ、詫びもしなかった.つまり彼らには、罪を犯したという自覚がなかったのだと言わなければなりません.

親子は、自転車を探す道すがら高級レストランで食事をしました.その時父親は、子供に自分の給料の計算をさせました.周りで食事をしている人達を見回しながら、彼らは自分の何十倍もの収入があるのだ、と、話しました.当時のローマにも、自転車の一台や二台盗まれても、ちっとも困らないお金持ちが沢山いたのです.

雨の中、同乗した清掃車が人にぶつかりそうになって、運転手は歩行者を怒鳴り付けました.悪いのはどちらなのか?、自分のやっていることを良く考えろ.
若者が逃げ込んだ売春宿の女将は、『この店はローマでも有名な店だ』と自慢しました.が、売春宿が自慢できる仕事なのかどうか、自分のやっていることを良く考えろ.
老人よ、若者よ、自分のやっていることがどういうことか、良く考えろ.自転車の一台ぐらい盗まれても困らない収入のある人間が、ローマにはいくらでも居る.それなのに、貧乏人から盗むからこんなことになるのだ.盗むんならもっと良く考えて盗め.
























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泥棒を描いた映画は、非常に難しい問題を解決しなければなりません.つまりは、泥棒がちゃんと映画を観なければ、目的を達成できないのです.この作品はどうなのでしょうか?.

第二次世界大戦後のイタリアも日本も、似たような状態であったと思われます.日本では闇屋が横行し、食料、生活物資の多くを闇屋に頼りました.闇物資を手に入れなければ生きては行けませんでした.
裁判官も同様で、捕まった闇屋をもっともらしい判決文を宣いながら、自分も闇物資の食料を食べていました.人を裁く以前に自分を裁け、全くその通りであり、闇物資を食べていては人を裁くことはできないと、餓死した裁判官がいました.

『自転車泥棒』と同じ頃、日本では黒沢明が『野良犬』を撮っています.お巡りさんは良い人で泥棒は悪い奴、ま、そこまではよいとしても、『戦争が悪いと理由にして、泥棒をする奴はもっと悪い』などと言っていました.
黒沢明も闇物資を食べていたのは間違いのないはず.皆、戦争が悪いから闇物資を食べていたのです.

この映画の老人は教会の施しを受けて生活している.若者も病気に苦しんでいて、自転車を盗んだからと言って、優雅な暮らしをしているわけではない.野良犬の犯人だって同じであったはず.皆、貧乏のどん底に居るのでこんなことになってしまうのであり、貧乏人同士で虐め合うような事をしていてはいけない.



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