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コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

飯盛山(福島県会津若松市)

2012-12-11 19:26:12 | その他

2012年10月27日 福島県

飯盛山 

福島県会津若松市

「飯盛山」という名前の由来は、この山が飯を盛ったような形なので、この名前が付けられたという。江戸時代後期、戊辰戦争に際して新政府軍と幕府方の会津藩の間で発生した会津戦争に際して、会津藩では藩士子弟の少年たちで構成される白虎隊と呼ばれる部隊が結成され抗戦するが、そのうち士中二番隊が「戸ノ口の戦い」において敗走し撤退する際に飯盛山に逃れ、鶴ヶ城周辺の武家屋敷等が燃えているのを落城と錯覚し、もはや帰るところもないと自刃した地でもある。中腹には、日本では大変珍しい木造建築物栄螺堂 (さざえどう)(旧正宗寺三匝堂)がある。上りと下りで同じ道を通らず抜けられるという仕組みで、国の重要文化財に指定されており、頂上からは会津若松市内が一望できる。

 ▲さざえ堂▼

 

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若松城(会津若松城)(鶴ヶ城)100名城

2012-12-09 19:19:56 | 100名城

2012年10月27日 福島県

若松城(会津若松城)(鶴ヶ城) 100名城

松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町1-1にあった城である。地元では一般的に鶴ヶ城といい、地元以外では津若松城と呼ばれることも多い。文献史上では黒川城(くろかわじょう)、会津城とされることもある。国の史跡としては、若松城跡の名称で指定されている。若松城は旧市街地の南端に位置し、郭内(武家屋敷)と町屋敷が外濠で隔てられ、さらに郭内の内側に内濠を有する梯郭式の平山城である。城跡は都市公園鶴ヶ城公園となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されている。2010年(平成22年)から、黒瓦だった天守の屋根瓦を明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元する工事が行われ2011年(平成23年)3月に竣工した。Wikipediaより抜粋

▲天守閣からの磐梯山

 

2012-12-09 19:19:56

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会津武家屋敷・滝沢本陣 (福島県会津若松市東山町)

2012-12-07 20:41:24 | 建築物(洋館以外)

2012年10月26日 福島県

会津武家屋敷

福島県会津若松市東山町 

津武家屋敷は江戸時代の会津藩家老西郷頼母の屋敷を中心に、福島県重要文化財である旧中畑陣屋や数奇屋風茶室、藩米精米所などの歴史的建造物が軒を連ねる屋外博物館(ミュージアムパーク)です。江戸中期の和洋建築の枠を集めて造られた38部屋ある家老屋敷では各部屋をどの様に使用していたかをろう人形を使ってリアルに再現しています。館内には会津歴史資料館、会津の代表的な仏画を中心に展示した美術館・青龍の他、会津・福島の名品を揃えた総合売店・郷工房古今や会津の伝統的な郷土料理を召し仕上がって頂けるレストラン・九曜亭などが併設されています。

▲御成の間

▲書院壱の間

 

 

▲風呂場

▲水車を利用した臼 

 

滝沢本陣 

旧滝沢本陣(きゅうたきざわほんじん)は、福島県会津若松市にある会津藩の本陣跡。国の史跡に指定されている。現存する建物のうち、主屋および座敷は、旧滝沢本陣横山家住宅(主屋・座敷)として国の重要文化財に指定されている。滝沢本陣は、旧若松城下から白川、江戸に至る旧白河街道沿いにあり、滝沢峠の城下側の上り口にある。現存する建物は1678年(延宝6年)に建てられ、その頃から、会津藩主が白河街道を通る際の休息所として使用された。その後、歴代会津藩主の参勤交代をはじめ、領内巡視、藩祖保品正之をまつる土津神社の参詣の際に休息所として利用された。戊辰戦争時には、藩主松平容保の出陣によって陣屋となり、座敷には当時の戦闘による弾痕刀傷などが残る。

   

 


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大内宿(重要伝統的建造物群保存地区)~福島県南会津郡

2012-12-06 17:42:52 | 重要伝統的建造物群保存地区

2012年10月26日 福島県

大内宿 重要伝統的建造物群保存地区

福島県南会津郡下郷町大字大内

 

南会津の山中にあり、全長約450mの往還の両側に、道に妻を向けた寄棟造の民家が建ち並ぶ。江戸時代には「半農半宿」の宿場であったが、現在でもその雰囲気をよく残し、田園の中の旧街道沿いに茅葺民家の街割りが整然と並ぶ。大内宿本陣跡には、下郷町町並み展示館がある。民宿や土産物屋、蕎麦屋などが多数立ち並ぶ。特に蕎麦に関しては、高遠そばの名で知られており、箸の代わりにネギを用いて蕎麦を食べる風習がある。 Wikipediaより

▲本陣:屋根の修理中でした。

▲ここで高遠そばを食す。大内宿の名物「ネギ蕎麦」はありませんでした。

 

 

2012-12-06 17:42:52

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本陣跡(御嵩宿)~旧中山道を歩く(16回目)

2012-12-03 08:02:42 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>大井宿(恵那駅)~御嵩宿(駅)
2012年12月01日 16回目 

本陣跡(御嵩宿)

天下分け目の戦い「関が原の戦い」に勝利した徳川家康は、早速街道整備に取りかかり、慶長6年(1601)に東海道を整備後、慶長7年(1602)中山道の整備に着手した。御嶽宿本陣であった野呂家には、慶長7年2月24日付けの「御嶽宿伝馬掟朱印状」が届けられている。後に江戸から49番目の宿場となる御嶽宿はいち早く宿場として指定された。 御嵩観光協会

 

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和泉式部廟所(岐阜県可児郡御嵩町井尻)~旧中山道を歩く(16回目)

2012-12-03 08:01:15 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>大井宿(恵那駅)~御嵩宿(駅)
2012年12月01日 16回目 

和泉式部廟所

 岐阜県可児郡御嵩町井尻

石碑には「ひとりさえ渡れば沈むうき橋にあとなる人はしばしとどまる」の歌が刻まれている。平安女流歌人の一人。 じゃらんnetより

和泉式部は、平安時代を代表する女流文学者の一人といわれ、和歌をこよなく愛し数多くの歌を残した一方で、恋多き女性としても知られています。波乱の人生を歩んだ彼女は、心の趣くままに東山道をたどる途中、御嵩の辺りで病に侵されてしまい、鬼岩温泉で湯治していましたが、寛仁3年(1019)とうとうこの地で没したといわれています。
碑には「 ひとりさへ 渡ればしずむむ うきはしに あとなる人は しばしとどまれ」という歌が刻まれています。

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牛の鼻欠け坂~旧中山道を歩く(16回目)

2012-12-03 08:00:08 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク>旧中山道>大井宿(恵那駅)~御嵩宿(駅)
2012年12月01日 16回目 

牛の鼻欠け坂

 

「牛坊(うしんぼ)牛坊 どこで鼻かかいた 西洞(さいと)の坂で かかいた」という言葉が残るように、ここ西洞坂(さいとざか)は牛の鼻欠け坂とも呼ばれ、荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な登り坂でした。中山道全線を通してみると、ここ牛の鼻欠け坂あたりを境にして、江戸へと向かう東は山間地域の入り口となり、京へと続く西は比較的平坦地になります。したがって地理的には、ちょうどこのあたりが山間地と平坦地の境界線になっているのも大きな特徴といえます。 御嵩町

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