古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

享保の頃 熊本藩の銭遣い

2017-12-24 19:53:41 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年十月廿二日 

小国表銭遣之儀 日田郡之並を請 弐拾六文遣に通用せしめ候処に頃日は彼方も弐拾四文遣に成り候につきその通り 通用仕り度由 宮原町別当書付御郡奉行衆より相達され候につき その通り 取沙汰屹度候ようにと申し遣し候事

 

享保四年十一月十二日

 

一 久住銭遣之儀御近領之並を請只今迄壱匁ニ弐拾六文之通用にて候処 近き比御近領も弐拾四文遣ニ相成り候につき其通り通用仕度由 久住尉助書付 御郡奉行衆より相達されにつき久住表の儀は御近領の並を受け申す事に候間 例之通り沙汰仕られ候よう申し出られ候事

 

 上記2文書は藩札の事を言っているので藩札が分からないと、なんの事やら分からなくなります。熊本藩の藩札は原則領内でしか通用しないはずですが、実際には近領の日田、竹田あたりでも通用していたことがこの古文書から分かります。

 藩札にも銭との交換レートがあり、上記宮原町別当及び久住尉助(御惣庄屋)の伺いはこれまで1匁26文だったものが今回24文に値下がりしたのでそのように運用したいが、それで良いかというもの、家老の決裁はそれを追認するものです。熊本藩の藩札の名目レートは1匁70文ですから24文とは随分と下落したものですが、これは藩当局の増刷に次ぐ増刷の結果です。また藩札は独特の単位を持っていて「銭〇匁」と表記していました。「匁」というのは銀の単位で銭の単位ではないのに、銭〇匁という呼び方で銀と銭を結びつけたのです。

 これは「銭匁勘定」と言って金銀銅3貨制の外にあって、これを遣って決済することを「銭遣い」と称しました。


霜宮神社・内牧天神の祭礼

2017-12-23 21:43:54 | 享保年間の熊本藩古文書

霜神社。ここは火焚き神事で有名です。

内牧天神社

享保四年九月廿一日

 一 阿蘇谷内牧手永村々の者共霜宮並びに内牧天神社へ風霜留之立願結び置き候に付 願解き之為鶴崎に居り候手すし廻しを雇い右神社内一日宛願解仕り度き由 御惣庄屋内牧弥右衛門書付 御郡奉行衆より仰付けられ候に付 例書相添へ御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 此の文書で目を引くのは鶴崎から手すし廻しを雇っていることです。手すし廻しは手品師のことで、これも大西村傀儡師一座の者と思われます。この地域では人形浄瑠璃よりも手品に人気があったのでしょうか。或いは浄瑠璃の上演は多人数の興行になるので木戸銭が高くなるという事情があったのかもしれないですね。いずれにしても稲刈りが済んで次第に深まる秋の一日、手品見物を楽しむ人々の晴れやかな表情が想像されます。


家老決裁

2017-12-23 12:41:30 | 享保年間の熊本藩古文書

 上掲文書は享保四年九月廿一日付の細川家の家老決裁文書ですが、上掲画像のような体裁でした。上記文書は写本なので印形がありませんが正本にはハンコも押してあるのでしょう。

 御郡方の役人が決裁を仰ぐための文書(覚書)を家老屋敷へ持参して決裁を受けます。

 壱岐様というのは米田壱岐、大膳様は有吉大膳、求馬様は松井求馬、元禄15年から享保20年まで家老職、蔵人様は溝口蔵人。

 


鶴崎剣八幡と大西村傀儡師

2017-12-21 22:29:34 | 享保年間の熊本藩古文書

正保2年(1645)細川家によって創建された。 御祭神:誉田別命 例祭日:春季大祭・4月上旬。ここの祭礼は喧嘩祭と呼ばれる春期大祭が有名。

永青文庫にある古文書から剣八幡社の祭礼の記事を翻刻文にして掲載します。

享保四年八月廿四日

一 鶴崎剣八幡宮祭礼毎歳九月十五日にて候 宮下の氏子共火伏風留之宿願結置候 願解の為大西村に居り候傀儡師雇い去年も芝居興行仕候 当年も去年の通り傀儡師を以て晴天十日 見世物御免下され候様と鶴崎町年寄り共書付 御郡奉行衆より差出し申され候に付御郡方衆御談じ 添書仕らず候に付 右書付相添え御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 例によって少し解説を試みると、秋の例祭は9月15日に火伏風留を祈願する祭りとして執行れていたようです。その願解の日に大西村から傀儡師を雇い人形浄瑠璃を上演しただけでなく、この文書にはありませんが、大阪から役者を呼んで歌舞伎なども上演していたようです。

 さて、ここでは祭り興行に至る主催者側(藩側)の事務手続きの流れについて説明します。発議は「鶴崎町年寄共」の願書です。年寄共というのは別当、庄屋などの職にある役人のこと。この願書を御郡奉行が更に上級の御郡方へ上申、御郡方役人は添書を付けてこれを家老へ伺うという手続きを経て決裁されます。 

 御郡方役人及び家老は熊本にいますが御郡奉行以下は現地鶴崎にいます。これは現代の役所の機構でいえば本庁と出先の関係になるようです。御郡奉行の職場は現地にありますが彼等はそこに居住しているわけではなく、住居は熊本城下にあり、2人の郡奉行が交替で現地へ出張して業務を処理していたのです。今日から見れば随分ゆっくりとした体制ですが、それでちゃんとやれたのですね。御郡方は4家老の決裁を伺うのですが、家老は夫々の屋敷におり、そこまで決裁を貰いに通っていたわけです。


久住町 平摩大明神

2017-12-21 00:22:58 | 享保年間の熊本藩古文書

住神社の創建は古く大化年間には既にあったと言われているが、戦国期の戦禍によって社殿は消滅した。江戸時代になって加藤清正が社殿を再建し、細川氏に引き継がれた。同社は旧直入郡一帯の氏神として尊崇され、藩政期は平摩大明神と称していた。

江戸期の町起こし平摩大明神の祭礼・・

 今の久住町は大分県竹田市に属していますが、藩政期は熊本藩領で久住手永の在町でした。在町というのは村が行政区一般である中で特に市の立つような家並みの集合した所を村と区別して町と呼んだらしい。在町が村と違うのは町別当という役職が置かれ町ならではの行政手法が用いられたところにあるようです。甲佐町、御船町、隈庄町、隈府町、高森町等みな在町でした。

 過日、平摩大明神の祭礼に関する古文書を発見しました。読んでみると、これがなかなか面白いので以下に翻刻文を掲載します。古文書のコピーを掲載出来ると良いのですが、著作権等の煩わしさを忌避して翻刻文のみとしました。

 享保四年八月廿四日

一、久住氏神平摩大明神祭礼、毎歳十一月初卯ノ日に相勤申事に候 然る処に久住町の者共 連々勝手逼迫仕り町並之取繕も成し難く困窮に及び候 祭礼の節は寒気強く見物人も少なく難儀仕り候 に付 近年は九月ニ至つて見世物願い奉り御免成られ候 其の助力を以て町並み取り繕い御年貢をも支え無く相仕廻い申す儀に候 之に依り当年も去年の通り見世物御免成し下され候はば鶴崎に居り候傀儡師を雇い見世物仕り度き由 久住町別当 庄屋並びに御惣庄屋書付を御郡奉行衆より差出し申され候に付御郡方衆添書き相添え御家老中え相廻し願いの如く仰せ付けられ候事

 少し解説を試みてみます。享保4年というのは1719年、熊本の殿様は4代宣紀、江戸の将軍は8代吉宗。この神社の祭礼は11月初めの卯の日に行われて来ましたが、旧暦11月は今の暦でいえば12月に当たり、標高の高い久住町では祭りをやっても「寒気強く見物人も少なく・・」という有様はその通りだろうと思われます。折から天候不順による不作が重なって「勝手逼迫仕り町並之取繕も成し難く困窮に及び候 」というところに陥ったのです。そこからの脱出策として人寄せ作戦を想いついたわけですが、そのためには11月の祭礼を2ヶ月前倒しすること、これは何事も前例に縛られていた当時の政治感覚からは思いも寄らぬことで、すんなり実現した訳ではないと思われます。そこに領民及び町役人の必死の嘆願があって藩を説き伏せ、遂に祭りの繰り上げ実施がなりました。そして「鶴崎に居り候傀儡師を雇い見世物仕り度・・」のアイディアが功を奏し「其の助力を以て町並み取り繕い御年貢をも支え無く相仕廻い申す儀に候 」というような成功を収めたのでした。

 鶴崎の傀儡師というのは人形浄瑠璃を演じる一座で鶴崎の大西村を拠点にしていました。熊本府内へも出張公演することもあるくらいで当時人気の一座だったのです。これを興行することで他領からも見物人が集まり、その人たちの落とすお金で町の財政が改善したのです。

 


鶴亀句会 12月例会 2017-12-15

2017-12-19 10:56:38 | 鶴亀句会

会日時   2017-12-15  10時

句会場        パレア9F 鶴屋東館

出席人数   9人(内不在投句1人) 

指導者    山澄陽子先生(ホトトギス同人)

出句要領  5句投句 5句選   兼 題  霜

世話人    近田綾子 096-352-6664 出席希望の方は左 へ。

次 会   1月20日(金)10時パレア9F 兼題 初

山澄陽子選

霜柱踏み竹馬に乗りし頃      茂 子

フィナーレの余韻に歩くイヴの街  小夜子

産みたての卵の温し霜の朝      〃

懐かしき母のかめ煮や節料理     〃

霜柱蹴散らし登校男の子       興

遠回りして霜の夜を送らるゝ     〃

霜柱踏めばぐわさりと崩れけり   礁 舎

短日の蝶に心を寄せてをり      〃

笹鳴きを右に左に磴登る       〃

暮れ迅し電飾点るビルの壁      〃

日だまりに溶けてゆくかに木守柿  優 子

盲導犬前へ前へと暮れの街      〃

初霜に野菜の旨み増してくる    順 子

キラキラと朝日を浴びる屋根の霜   〃

物陰を飛出す野良や霜の朝     綾 子

ベランダのつるし柿もむ背伸びして  〃

鳥たちの動き見易き冬木かな    武 敬

落葉踏み立往生の電車かな      〃

遠ざかる鉄路のきしみ霜の夜    安月子

朝霜に打ち拉がれし菜畑かな     〃

[先生の句]山澄陽子

旅立ちの吾に凜々と霜の聲

黄落や日を得て金となりにけり

籬より訪ねて来たり虎落笛

神還り給ひ火の山煙濃し

爪弾きの三味の漏れくる花八ツ手

 


明治42年頃の熊本の遊びどころ  料理屋 附 待合

2017-12-08 09:15:46 | 熊本の遊びどころ

一日亭  二本木町17番 電話162番 女将 三浦じん子

 熊本の地旗亭多けれども、最も古くして最も大なるものは、二本木遊廓内の一日亭本店と為す。一日亭といへるは、元熊本城内(今の予備病院の構内)に在りし、家老松井佐渡の別邸なりしが、明治4年廃藩置県の後、長崎生まれの緑屋栄造といへる者これを譲り受けて京町本町に移し、翁屋と称し初めて料理屋を営みしが、その後更に坪井の立町に移りて、旧称の一日亭を称へ、明治10年西南戦争にて、全市兵燹に罹りしとき、同亭もまた類焼し、戦い終はるの後、今の二本木町に遊廓を公許さるると同時に、同所に移り新たに巨屋を構へて盛んに営業し、引き続き今日に至れり。同亭は遊廓の内にあれども、境内広ければ喧噪ならず。開豁にして清雅なる後庭を控へて、大小十数の客室あり、その最も大なるものは多人数の集会に適し、小なるものは友朋三五浅酌するに妙に、別に数軒の離亭及び茶室あり、愛妓と真猫の楽しみもよからん。

(よろこぶ)亭  山崎町47番地 電話145番 主人 女将 三浦ゑい子

 調理の美と包丁の翠とを以て有名なるものにして、客室は左まで多からねども、四五十人位は集会し得べき席もあり、孰れも瀟洒たる庭園に望み、清潔にして典雅なり。仲居も丸髷姿の中年増を選み、はしゃがざるも懇切に、そのもてなしの雅にして万事俗に陥らざるは粋人の最もよろこぶところなり。同亭は一日亭の支店なり。

静養軒  手取本町55番地  電話31番  女将 東せい子

 当地第一流の旅館研谷支店に隣し、広大なる庭園を有せるはこの料亭なり。同所は元当藩の門閥家、俗に長塀有吉といへる旧邸なりしを以て、庭園甚だ広くして幽雅に、一方はこんもりとして昼なほ小暗き老樹を以て蔽はれ、中に大なる蓮池あり。池を還りて所々に小亭を構へ、本館また集会席、西洋室其他数室を有す。料理は和洋両種とも客の需めに応じ孰れも美味に、殊に西洋料理は当地においては此処に優るものなし。

三 浦 春日町799番地 電話 特長20番838番 女将 三浦やす子

 万事東京風の翠をこらして、凝りた料理を食わせるなり。客室も東京風の廊下風にしつらへ、床の懸幅や置物から食器類まで凝りに凝りて客をしてアツと言わはせんば止まず。庭園も坪井川の碧流に望み枕みて閑雅にして、諸般の設備大いに風流紳士に適し、門前車馬の響き絶たず。

一 休  京町2丁目132番地 電話158番 女将 森しげ子

 開業日猶浅しと雖も、眺望の絶佳なると、土地の閑静なると、包丁の美なるとを以て次第に盛名を博せり。地は京町の高台に在るを以て望界甚だ広く、居ながらにして遠くはあその噴火より近くは竜田の翠色坪井の万甕を眸裏に収め、眺望の佳なる此の楼に及ぶものなし。女将は西券でならした芸娼お繁といふ女宰相なり。得意料理は木の芽田楽。

京常楼  山崎町20番地 電話139番 主人 山下常次郎

 熊本税務署の向ふに在り。主人京都の人にして、明治23.4ねん頃沖縄より来たりて、草葉町に料理を営み次第に隆盛に赴けるを以て、今の所に店構へしたるなり。主人自ら包丁を執り一意薄利を旨とし、諸事軽便を以て客を喜ばす。

八百九(やおく) 塩屋町10番地 電話163番 店主 、富森金三郎

 市内中流の旗亭にして、粋客の眷顧最も多く、京常と相若くものを八百九と為す。主人京都人にして、主人自ら調理に従ひ、只管客を喜ばんことを勉め、万事簡便を以て主義となせり。同亭は元西京において精進料理を営み知恩院、西本願寺等の御用を達せし縁故あれば、この度の清正公三百年祭には、本妙寺における客賄ひ一切を引き受けしめられたりといふ。

開陽亭  洗馬下1丁目4番地 電話68番 主人 丸尾政次郎

 洗馬橋に臨み清洒なる料亭にして、緑聲肉聲常に河をわたりて聞へ春夏の候最も宜し。同亭は元西岸寺町に初めて開業し、西洋料理を専門とせしが、其の後明十橋に移りて、傍ら日本料理の求めにも応じお手軽一方に勉強したれば客足日夜に繁く、遂に今のところに改築移転す。

梅 園  洗馬町下1丁目7番地  電話113番 主人 森谷平助

 当地第1の旅館研屋本店に隣し開陽亭の下45軒目に在り。市塵を避けて静かなる客室を有し、歓談に宜しく、暖酌に宜し。春雨蕭々たるの時妓を擁して一杯を傾けんか、雨聲絲音と相和してまた別種の興味あらん。

山海軒  船場町下48番地 電話135番 主人 楢崎傳次郎

 元都亭と称し当所有数の亭なりしが、その後幾度か主を易へ現主人の経営となれり。楼上の眺望は阿蘇の噴煙を望み快豁なり。

幸 軒  山崎町8番地 電話624番 主人 楢崎傳次郎

 山海軒の支店なり。閑雅なる庭と客室を有す。慶亭と後輩向ひに隣す。

若松屋  船場町下1丁目32番地 電話335番 女将 古江ねの子

 開陽亭と斜めに相対し、別に練兵町にも客の出入り口を設ける。

岡崎家  仲間町 主人 岡崎米八

 お手軽迅速を旨とし紳士にも学生にも適せる。愛子称する看板娘、客の間を周旋する。玉突き場の設けあり。

金 庄  紺屋町3丁目14番地 電話419番 女将 本田ねい子

 こじんまりとしたる料亭にて、先ず二次会的と言ふべきか。弦歌喧噪を厭ふ粋客に人気。

魚 茂  鷹匠町37番地 電話363番 主人 内野茂三郎

 元下通町にありて、生魚商を営み傍ら料理仕出しを業とせしが、その後今の所に移りて料理屋となし、依然仕出しにも応ずることにせしに、主人自ら材料の仕入れ料理の調進に勉め専ら軽便を旨とし、手軽と直安とによりて店運メキメキ隆盛に赴き、今は当地第1の大客室を有するに至り百2百の大集会も何なく為し得たり。

南山楼  水道町36番地 電話350番 主人 佐村利一郎

 熊本市警察署前にあれども、客の出入り口は別にその横町一本竹町に設けあり。ここも魚茂と同じく手軽料理をもって名あり。県庁、市役所その他の諸官衙に近く、またこの度開催の藤公記念共進会、教育品展覧会も手近なれば、会期中の繁栄思ひやらるるなり。

キリン亭  山崎新市街記念碑通 電話673番 主人 永田陽八

 熊本におけるビヤーホールの開祖はカブトビヤホールと称せしが今般現主人が引き継ぎ名を改名したるものなり。

吉野屋  塩屋町裏2番丁13番地 電話317番 主人 米崎中吉

 明十橋通りにありて手軽一方を以て鳴り、仕出しをも為す。地取引所に近きを以て同所に立ち寄る者はすべて同店にてにて食をとれり。其の低廉なることは他に比類なし。

鈴 屋  高麗門裏町15番地電話38番の甲女将鈴木多壽子

 新町3丁目青物市場の近傍にありて旅館なりしが、中頃席貸業に転じ、更に料理屋に改めたるものなり。

桃中軒 山崎新市街桜町 主人 森角菊平

 主人、浪曲師桃中軒雲右衛門の芸風を愛し遂に屋号となす。坪井川に添へるを以て夏時は河上に屋形船を浮かべて客室と為し納涼の便あり。

光島屋  山崎新市街桜町78番地 電話654番 主人光 嶋勝平

 桃中軒と軒を並べ同じく手軽料理にて聞ゆ。

石 倉  新町3丁目45番地 電話175番 女将 石倉としの子

 熊本の地はいかなる原因ありてか、待合の長続きせざる所なり。従来幾度か起こりて或いは倒れ或いは料亭に変じ、今日にいたるまで盛況を保てるものは独り石倉あるのみ。女将としの子は久しく馬韓大吉楼にありて貴顕紳士に接し、客の応対待遇にかけては、天晴れ場数を踏みし手練の者なれば粋客の雲集するも故あり。

舞 鶴  二本木町38番戸 主人 森 軍次

 廊中の大旗亭一日亭本店の向かいにあり。台物屋中料理美味を以て称せら、殊に鮓飯及び親子丼のごときは熊本第1といふ。

 

 


明治42年頃の熊本の遊びどころ  著名旅館

2017-12-06 20:39:12 | 熊本の遊びどころ

研屋本店  船場町下1丁目8番地 電話 長10番 店主 岡本次八郎

 熊本第1流の旅館にして、亦同業者中の老舗なり。水に臨んで2層或いは3層の高楼を構へ、仰げば花岡の翠緑近く眸裏に収め、俯せば坪井川の碧流溶々として館下を流る。大小数十の客室を有し、設備は完全に、待遇は懇切に、調理また美味にして口に適し、最も衛生を重んず。地、当地第1の繁華街唐人町通りに近く、以て高等の旅客に適すべく、以て中流の紳士を迎ふるに足る。熊本停車場より車行15分にして達すべし。

研屋支店  手取本町61番地 電話長 11番 店主 岡本次七郎

 諸般の設備、待遇、調理等本店と兄たり難く弟たり難くともに当地一等の客桟たり。地は熊本城に近ければ、坐ながらにして藤肥州当年の偉蹟を観望することを得べく、県庁、市役所その他の諸官衙公署亦附近の地に散在し、出入りに便なり。別に店内に玉突場及び物産陳列場を有し旅客の便を謀れり。店主は本店次八郎の兄にして、熊本宿屋業組合の頭取たり。

寶来屋  小沢町1番地 電話331番 店主 沢福次郎

 熊本停車場より車行7.8分ばかりにして、細工町通りを極め、将に右の方当地第1の大通り唐人町通りに折れんとする所の左正面に在り。当地屈指の旅館なり。館は坪井川にに臨める二層楼にして、川を隔てて青物市場と相対しし、楼上より望めば花岡の青嵐近く目睫の間に迫り呼べば応へんとす。

丸小旅館  上林町14番地 電話354番 店主 小山吉五郎

 当市北部の上林町一丁目より東に折れたる小路にあり。大通りより少しく入り込みたる所なれば、土地閑静にして喧噪ならず。

玉名屋  櫻井町17番地 電話469番 店主 伊形清次

 上通5丁目の角より東に入る櫻井町の右側にあり。研屋支店と相去ること遠からず。


明治42年頃の熊本の遊びどころ 劇場

2017-12-05 11:15:13 | 熊本の遊びどころ

東雲座・・紺屋阿弥陀寺町411番 電話248番 座主 中島茂七

 明治40年に東京から尾上梅幸、市川羽左衛門が来て歌舞伎を演じたとき劇場の結構に感心して、帰路大阪の新聞記者に「熊本の東雲座のやうな劇場は東京にも余計はありません。」と語ったとか。また42年3がつには川上音次郎が壮士劇を演じ貞奴なども来演している。

旭座・・川端町23番地 電話644番 座主 脇坂乙熊

 元は下河原公園内にあって末広座と称し、黒田茂八の経営であったのを今の座主譲り受け場所を川端町へ移し新築したものである。熊本の劇場ではこの旭座がもっとも古く、老舗の面目にかけて東雲座と対抗して相譲らぬところがあった。大阪から壮士劇などを呼んで上演していた。

大和座・・山崎練兵町78番 電話744番 座主 古城卯三郎

 明治41年の開業。「結構堅実にして設備巧妙を極め」と紹介されている。大阪の歌舞伎役者中村福圓などが舞台をつとめている。

 以上が明治42年頃の熊本の劇場ですが、このほかに手頃な木戸銭の敷嶋座という小屋が新鍛冶屋町にあり、また下河原公園内にも喜楽座という寄席がありました。


熊本で初めて石油を販売したお店

2017-12-02 21:59:06 | 日記

 城下町を歩く会で2月は唐人町筋を歩くことになったので今日はその下見に行ってきました。古川町、鍛冶屋町、中唐人町、西唐人町と歩きましたが、西唐人町の清永家で面白いものを見せていただきました。写真の商標がそれです。虎印石油とはエッソタイガースの和訳らしい・・この看板、今では骨董品としてヤフーオークションでは、26,000円くらいの値がついています。イヤ、そんなことを言いたいのではなく、いち早く熊本でこの看板を掲げて石油を売り出したのが清永商店だということです。それはいつ頃のことかと言えば、そこがはっきりしないのですが、石油ランプが熊本で使われるようになった時期な訳ですから、日露戦争の後くらいになるのでしょう。西唐人町は明治、大正の頃は清永商店の町といつてよいほどに、清永一族の商店が軒を並べていたといわれています。この看板はホーロー引きで手に持ってみるとどっしりとした重量感のあるものでした。


俳誌「松」 茂木連葉子追悼号

2017-12-01 22:47:47 | 

 

雑詠選後に   のぶを

点と線縺るるままに水引草    菊池 洋子
  一句はその茎を「線」、茎につく小さい花を「点」と述べ、つまり水引草の形容を幾何模様的に捉へ、そしてその群生して交錯する様を「縺るるままに」と叙してゐます。
初句の点と線が実に印象的で、その花軸が即、脳裏に浮かびます。加へて縺るるままにといふ叙述は風のさやぎさへ見えて来ます。
 総じて言へることに、対象即ち季題と出会った時、私どもは納得のいくまでその場にとどまり、一字をも疎かにせず、推敲を重ね、と教はつて来ましたが、この現今の慌しい時間の中では大変に難しい事で、而し掲句は眼前即座に成った詠句でないことは確かです。

逆縁の涙枯れしか赤のまま    古野 治子
 「逆縁」とは、詠句では年長者が年少者の供養をしてゐる事を指してゐると思ひます。その悲しみをもう泣くだけ泣いて、一句では「涙枯れしか」と詠じてゐます。その象徴に作者は路傍の「赤のまま」を選んでゐますが、小説「歌のわかれ」等で著名な中野重治に/お前は赤ままの花や/と女の子を叙した詩があり、虚子、茅舎などにも子と赤のままを詠んだ、世に膾炙した句があります。いづれも鄙びた、佗びしい花の印象です。詠句もまた逆縁といふ措辞に依って重い作品になってゐます。

ひとり身となりて身にしむことばかり    伊東  琴
 ごく近い日に連れ添ふ方が他界されての詠です。後先のことなく、その思ひを吐露した、淡いうたかたのやうな諷詠です。それもひらがなばかりの表記、そして「ひとり身」「身にしむ」 の表出、この流露した真情が印象的です。

師とわれと煙草くゆらせ詠みし秋    宇田川一花
 「師」とは何方のことでせうか。もしかして今は亡き主宰の事でせうか。それでは所謂楽屋落ちになります。而し作者は経済学の方で内外に知己をもつ人です。その「煙草くゆらせ詠みし秋」とは、今眼前の秋容に目を遣りながら過ぎし日の秋の風光に浸ってゐる大人の茫洋とした雰囲気が伝はつて来ます。まさに秋情の一句です。
 
秋彼岸大きく開く寺の門    金子 知世
 中七の 「大きく開く」が面白いと思ひます。この叙述に依って秋のお彼岸詣りの、人々の賑はひが暗示されてゐます。蛇足ながらお寺さんはさして大きくない様に思へます。

秋空の青を落としてにはたづみ    福島 公夫
 「秋空の青を落として」、私は林の中の一本道の、その細い秋空の青さを思ひ浮かべました。そして道の前方に青く光るのは雨上りの水溜りであることを想像しました。
 詠句は客観的な何の説明もなく一景を呈示してゐますが、如何とも「にはたづみ」の叙景は、街中の景では想像も付かないことです。それに青を落としての描写は絶妙です。

運動会村ならではの丸太切り    那須 久子
 運動会で「丸太切り」、とは開いた事がありません。ただ私は違い日に鉱山救護隊の訓練で、隊服に酸素ボンベを背負ひ丸太切りをさせられた事がありますが、意外に息切れをしたものです。
 掲句の作者は秀峰市房山を朝夕望む地の方で、市房ダムなどで知られ、土地の中学はダム補償で出来たとあり、東は宮崎県の椎葉村に隣接するとも併記してあります。この山に近い村であれば運動会の丸太切りも領けますが、とは申しましても当然の風景を一句に昇華させることは簡単な事ではありません。それは作者が常に創作のアンテナを張ってゐるその腸であらうと思ひます。また「村ならでは」の措辞には里への思ひ入れがあります。
 
奥球磨に隠れ念仏野菊咲く    岩本まゆみ
 原句は球磨谷とありましたが、これは球磨川の谷か、若しくは球磨地方の谷か、地方の事を指すのですから「奥球磨」と訂正しました。また作者は福岡の方ですので、いはゆる地方探訪の旅で球磨の地を踏まれたのだと思ひました。句の「隠れ念仏」とは辞書にもありますが、島津藩内に端を発した哀しい史実です。私も精しい資料を集めてゐましたが先の震災で書籍と一緒に散逸してしまひました。つまり島津の地から一向宗(浄土真宗) の人達が迫害を逃れて球磨の奥深く辿って来たのです。資料にはその人達の生活や地名があったのですが、今なんの記憶もありません。詠句の「野菊咲く」は、実地に立ってその哀しい史話を開きながら作者は道の辺の野菊に目を落としてゐたのです。
 句は簡潔で余情ある諷詠です。
 
水の音虫の声して棚田かな    竹下ミスエ
 棚田のある一面を詠じてゐます。何か夕べの様に恩ひますが、作者の漫ろ歩きの風情が伝はつて来ます。

初雪や指先痛き程の朝    中山双美子
 北国の逸早い冬の到来を詠じてゐます。南に住む私共には(冬近き)恩ひよりも一句には何か新鮮な感じがします。