古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

ウォーキング  中川 久

2018-01-28 12:43:36 | 新老人の会

ウオーキング  中川 久(80)

一年を通して 朝五時起床

毎日 日課のウォーキング

夏は明るく 冬は暗い

季節の移ろい

町並みの移ろい

日々少しずつ変化している

 

自然界も

世界も 日本も

政治も 経済も

毎日が 変わり 動いている

 

我が体力も 少しずつ

変わりを 肌で感じて

今日も歩く

     傘寿の年の秋に作詞

 上記は新老人の会会報18年1月号に掲載された中川さんの作品です。平易な言葉を連ねて綴られていますが、なかなかどうして老年なればこそ感受できる心境の深みを見事に表出した作品です。特に終わりの3行がぐっと来ます。伊藤信吉の現代詩を読むようです。

 


鶴亀句会 初句会   2018-1-19

2018-01-19 14:37:10 | 鶴亀句会

会日時   2018-19  10時

句会場        パレア9F 鶴屋東館

出席人数   7人(不在投句1人) 

指導者    山澄陽子先生(ホトトギス同人)

出句要領  5句投句 5句選   兼 題  初

世話人    近田綾子 096-352-6664 出席希望の方は左 へ。

次 会   2月16日(金)10時パレア9F 兼題 梅

山澄陽子選

夜半に覚め雪積む音の気配して     安月子

少年の気合い凛々初稽古         〃

踏み出せる稚(やや)の一歩や春隣    〃

場外へ気合い聞ゆる初稽古       武 敬

初日記習字の如く書きにけり       〃

初詣天気晴朗孫連れて         綾 子

初雪も昼には止みて講座聞く       〃

水仙や海峡越ゆる鉄の船        礁 舎

沿石に落ちて砕くる霰かな        〃

古備前に活けて水仙匂ひ立つ      小夜子

大筆に墨たつぷりと初硯         〃

初雪に街頭の影ふはふはと       順 子

年越して重箱を詰め花も生け       〃

山茶花の朱色の屋敷友見舞ふ       興

初かぐら米寿の頭深くさげ        〃

先生の句

若水や押し戴きて口漱ぐ

山風に耐へて健気や冬櫻

日脚伸ぶ奥にまほろばありさうな

息白く少女の祈り長かりし

午後は雪解けて景色の惜しまるる

 


年貢を現物でなく米銀で納める 木綿について

2018-01-16 14:58:33 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年十一月十三日

一、木綿百六拾三貫四百目    高田手永

一、同三十壱貫五百目        野津手永

一、同拾三貫弐百目       種山手永

  右ハ御蔵納

一、同拾九貫弐拾四匁       種山手永

一、同弐拾弐貫六百目       野津手永

  右ハ御給知方

 右は八代郡御蔵納め御給知村々木綿注進前 右の通り百姓共種子綿に仕度き旨願い奉り候間例年の通り米銀のままにて上納仰せ付けられ下され候様にと御惣庄屋共御断りの書付 御郡奉行衆より差し出され候に付御勘定方へ申し談じ願いの通り沙汰しめ候事

 上記はなかなか興味深い古文書である。上3項目は蔵納め、下2項目は給知方納めと納める先が違っている。蔵納めというのは藩庫に納めること、給知方というのは藩から領地を給されている家臣のこと。4公6民という税率はどちらも変わらないので農民からすればどうでもよい事である。

 さて、米銀で納めるというのは現物でなく現金で納めるということである。その現金は銀や銭の貨幣ではなく藩札で納めること。例えば高田手永の場合で言えば163貫400目を藩札で納めよということであり、その額は銭163貫400目ということになる。この銭163貫400目というのは銭16万3千400文のことかというと、そうではないのでややこしい。ではこの163貫400目というのは銭で言えば何文なのか換算式を説明しよう。

 まず藩札というのは藩が発行している紙幣だから熊本城内にある御銀所へ持って行くとその時のレートで銭と交換してくれる。享保4年頃のレートは1匁24文であったから、換算式は次のようになる。

163400匁×24/70=56022.857 文となる。

この額は金目では約14両、銀目で表せば約840匁となる。

註 熊本藩藩札の公式レートは銭1匁70文であったから、このレートで計算すると馬鹿デカイ数値が導き出される。藩の文書には公式レートで記載されているので注意が必要である。


無高百姓救済 仮橋番人

2018-01-16 11:08:21 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年十月十日

一、玉名郡小田手永向津留村無高百姓仁左衛門、太左衛門と申す者、渡世成り難く候に付同村の内船渡場に毎歳軽く仮橋を懸け往来の者共より一銭宛もらい渡世仕来たり候 当年も例年の通り願い奉るについて村庄屋 頭百姓共連判の書付 御群奉行衆より差し出し申され候につき 例書相添へ御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 無高百姓というのは耕作田を持たない百姓のことで農村にいる貧民のこと。かねては日雇いなどで生計を立てているが、冬場になると農作業などの仕事が減少するので橋の番人にして収入を得さしめ救済しようというのである。前にも薄場渡しの仮橋のことをアップしたが、これも同様のことである。


下益城塚原村小木大明神 笹踊り

2018-01-12 22:44:51 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月四日

一、下益城塚原村小木大明神之祭礼 九月九日にて候 前々より宮下の氏子共神前に於いて笹踊り仕 神事勤め来たり候 当年も旧例之如く軽ク笹踊りにて神事相勤め度由 御惣庄屋廻江彦左衛門書付御郡奉行衆より相達せられ候に付例書相添へ御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 塚原村というのは塚原古墳群で知られる所で、現在は熊本市と合併して所在の名称は熊本市城南町塚原である。塚原の小字に小木という集落がありそこに小木大明神はある。現在の社名は小木阿蘇神社。上記古文書は御郡方役人の起案による紋切型の文章であるのだが一カ所だけ単調を破る修飾語がある。「当年も旧例の如く軽ク笹踊りにて・・」という箇所の「軽ク」である。公文書に似つかわしくない主観語でよくも見過ごされたものだと思うのだがこの欠点があるために後世の者には却って面白い。


六殿社 流鏑馬神事

2018-01-12 15:33:27 | 享保年間の熊本藩古文書

写真は六殿社ホームページより転載させていただきました。

享保四年九月四日

一、下益城守富庄木原村六殿大明神之祭礼九月九日にて候 前々より流鏑馬にて神事相勤め候 然る処宝永七年より当日一日 操仕神事相勤め候に付当年も旧例の如く神事相勤め申し度吉 杦嶋次左衛門 廻江彦右衛門書付御郡奉行衆より相達され候に付例書相添え御家老中へ相達願いの如く仰せ付けられ候事

 ここの流鏑馬神事は現在も行われている。毎年10月、第2日曜あたりに設定されている。住民参加型の笹踊り神事は廃れてしまっているのに、何故この神事が現代に受け継がれているのであろうか。


小一領神社 笹踊り

2018-01-11 09:35:51 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月二日

一、上益城矢部浜町小一領大明神祭礼九月九日にて候 前々より宮下の氏子共笹踊りにて神事相勤め来たり候 当年も例年の如く右の踊りにて神事相勤め申し度由 御惣庄屋矢部次兵衛書付 御郡奉行衆より差し出し申され候に付 例書相添へ御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 ここも甲佐神社と同じく笹踊りである。催事は恐らく創建当初からのもので永い社史を背負って進化している筈だから甲佐神社の踊りとは自ずから違っていたであろうが、残念ながらそれを確認する術はない。

 小一領という社名は小さな鎧一具という意味で阿蘇大宮司惟豊の長氏千寿丸(後の惟将)の初陣に当ってその武運を祈って奉納された小具足一領に因むものである。その戦とは、天文5年(1536)御船城主本郷安房守房行が島津になびき阿蘇家に叛いたので、惟豊は長子・千寿丸(当時17歳)を大将にして、甲斐宗運を補佐につけて御船城征伐の戦をしかけ快勝した合戦をいう。


甲佐神社の祭礼 笹踊り

2018-01-10 19:12:08 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月二日

一、上益城甲佐三宮大明神祭礼九月九日にて候、前々より宮下の氏子共、笹踊り仕り来たり候、当年も例年の通り笹踊りにて神事相勤め申度由、御惣庄屋書付御郡奉行衆より差し出し申され候に付き例書相添え御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 これは甲佐神社のことである。ここは例年笹踊りをもって祭礼を執行しているので、今年もそのようにしたいと言うのである。「笹踊り」がどういう踊りなのか、町の古老に聞いても、そういうものが嘗て存在したという記憶はあるものの踊れる人は1人もいない。

 これは私の想像だが、笹踊りというくらいだから笹を手に持って神楽の舞のように踊る住民参加型の踊りではないだろうか。


鉄砲玉薬の下げ渡し 南郷野尻手永

2018-01-09 17:35:16 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月四日

一、南郷野尻手永山付きの村々、猪、鹿大分出、作毛荒れ候に付き、鉄砲の薬、弐貫五百八拾目拝領なされ下され候はば、猟師共へ相渡し打たせ申度由、御御惣庄屋、野尻清右衛門書付御郡奉行衆より差し出し申され候に付き、御家老中へ相達し願いの通り拝領なられ候に付き、則其の段右御郡奉行衆へ此の方より申し遣わし候事 

 鉄砲の玉薬は藩が管理していたようである。現代でも銃は警察の許可のもと、弾薬の数量は厳重な管理下にある。野尻手永は高森峠の向こう側草壁村あたりが手永の中心地。日向、豊後と国境を接する山間地で、猪、鹿の生息地でもある。その猪、鹿も増え過ぎると駆除されるのは現在も同じだが、現代社会は山間地人口の減少と高齢化により駆除がままならないという問題を抱えている。


薄場渡に仮橋を架ける

2018-01-09 16:06:51 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月六日

一、白川筋薄場渡に例年の如く仮橋を懸け、往来の者共より壱銭宛取り申し度由飽田郡嶋新村御百姓共願い奉る通り村庄屋書付郡奉行衆より差し出され候に付き、例書相添え御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 田崎方面から川尻へ行く際、薄場橋を渡るコースが最短である。長六橋コースは東へ大きく膨らむので遠くなる。そのために仮橋が懸けられたのであろう。通行料金が1文というのは安い。普段の渡し船ではそんな安値にはできなかったであろう。