古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

幕末の儒者 木下 韡村

2020-05-19 18:29:22 | 熊本の偉人

  中央区京町2丁目8-4京町台公園に隣接して「木下 韡村塾跡の碑」が建っています。 「韡村書屋」と称する私塾ですが、この塾から竹添進一郎、井上毅、古荘嘉門、木村弦雄、宮崎八郎など明治維新後に大活躍をする人材を輩出しました。熊本の幕末を語るとき横井小楠(1809~1869)、林桜園(1798~1870)とともに木下 韡村(1805~1867)を外すことはできません。 
 木下 韡村日記(天保11年~慶応3年)があり、嘉永5年まで は「早稲田社会科学総合研究(代表島善高教授)」によって翻刻されていますが、嘉永6年以降が未翻刻です。原本のコピーを取り寄せて翻刻を試みているのですが、これがなかなかの難物で、日記という文書の生質上、他人に見せる意識がないので、崩し方が丁寧でなく殴り書き体のところがあるのに加えて虫食いカ所が多いのです。まあ、気長に構えて挑戦しようと思っています。

木下韡村(いそん)の略歴
1才  文化2年1805   8月5日生まれ
10才  文化11年1814  桑満伯順に入門
19才     文政6年1823 大城霞萍(時習館訓導) に入門。4年間在籍。
22才  文政9年1826郡代直触となり、苗字帯刀を許される。
23才  文政10年1827時習館居寮生。天保5年まで8年間。
31才  天保6年1835中小姓、近習組脇。軽輩から士席へ。10石5人扶持。江戸へ。
32才  天保7年1836高橋弥四郎長女伊津(喜多)23才を娶る。
33才  天保8年1837江戸で佐藤一齊の教えを受けるようになる。
36才  天保11年1840世子慶前(よしちか)御次勤。
37才  天保12年10月16日林家塾頭川田八之助の紹介で林家に入門。
44才  嘉永1年1848慶前 死去で国元へ。吉村多茂と再婚。
45才  嘉永2年1849時習館訓導助勤。
47才  嘉永4年1851訓導本役。
49才     嘉永6年1853両助教家塾の世話を仰せつけられ、隣チョーカー賜る。
55才     安政6年1859擬作100石。知行取格。
59才  文久3年1863公儀召を辞退。
62才  慶応2年1866座席御物頭列。
63才  慶応3年没。龍田山に葬る。

 諱は業廣、字は子勤。通称宇太郎。号は犀溧、いそん。藩主斉護護次勤6年。世子慶前御次勤9年、訓導当分3年、訓導本役16年。

 上記は嘉永6年1月11日~18日の分です。ここは虫食いも少なくよく読めたところです。画像はパソコンに落とすと拡大できるので興味のある人はどうぞ。

十一日 同様 ○北野隆右衛門、御中小姓ニ進席被 仰付候

十二日 渡部子八郎、大塚伊之助、福島亀之允、福間一左衛門一同大城家年酒

十三日 出勤、館中儀式例之通

十四日 在家、丑三郎出府

十五日 丑三郎引取

十六日 夕番 ○屋敷方根取中より手元屋敷内ニ家塾取建置候 何間梁ニ何間と申儀
    見合ニ相成儀有之候間、知セ候様申越ニ付弐間梁ニ四間弐坪半之下屋付各ニ取
    付九尺之九尺ニ弐坪半之下屋付、其外居宅之内弐坪取囲置候段返答
    ニ及候事

十七日 詩文会宅受持

十八日 出勤

十九日 〃  加藤傳吾、筑紫より罷越今晩石光宅江逗留

  

 


加藤清正の手紙

2019-10-25 11:34:09 | 熊本の偉人

これを読んでみます。(読み下し文)

一夢の事書き付けこれを進じ候三十番神へ祈念あるべき事

一太閤さま御座候所より御機嫌よく見申し候事

一陣たちの体にて見申候

一人の鷹川へ風に吹き落とされ候を我等取り上げ据へ候てまいり候を太閤さま御座所より

 御覧候てひまあり顔にて鷹据へきたり候やうに御意之様見申し候間、我々とりあへず

 申し上げ候は人の鷹川に入り申し候て難儀いたし候をあまりいたわしさに取り上げ看病

 いたし候はんと存候て据へ申し候よし申し上げ候かとおぼえ申し候るそのほか果て申したるほう輩も

 一両人見申し候やうにおぼへ候らへ共何も出陣のていにて見申し候

 以上

 八月廿五日

 

 

 


矢嶋四賢婦人記念館オープン 2019-4-2

2019-04-17 01:22:26 | 熊本の偉人

 2019年4月2日、矢嶋四賢婦人記念館がオープンしました。同館は津森小学校近くにあったのですが、熊本地震の時に被災して使えなくなつたため、今度は杉堂集落の潮井水源近くに建て替えられました。建物の壁は土色ですが、似せてあるだけで土ではなく新建材のようです。

 


 
藩政期は茅葺きの住居でしたが、明治になつて矢嶋源助の時に葺き替えられたようです。家構えの大きさが目立ちますが、庄屋の家はどこでもこんなものでした。
 村庄屋は御惣庄屋からの指示を周知するために百姓たち全員を屋敷に呼び寄せて指示文書を読み聞かせていました。そのために庄屋の家は広さが必要だったのです。

 


展示物機織機 鶴子の物?

 安政2年(1855)矢嶋忠左衛門が堅志田村の御惣庄屋役宅で病没すると一家はこの家に帰ってきます。

 この機織機はそのころ楫子が使っていたと説明がありました。楫子の前は母の鶴子が使っていたのでは、と質問したら記録に遺っていないので、それは分からない、との返事。

 矢嶋鶴子は文政2年(1819)この家に嫁に来て以来、家族の着る物などは、すべて一人で織っていたといわれますから、愛用の織機を持っていました。それがこの織機である可能性は否定出来ないのですが、少し部材が新しいようにも思えます。

 黒光りして使い込まれた跡が見えれば鶴子の線も可成り有力なのですが、証拠がないと言われれば引き下がるよりないですね。


矢嶋忠左衛門の妻鶴子の死

2019-03-21 18:43:13 | 熊本の偉人

 矢嶋鶴子は嘉永7年(1854)5月21日中山手永惣庄屋役宅において56年の生涯を閉じました。墓は杉堂村城ガ峰に夫忠左衛門の墓に並んで建っています。

 


杉堂の城ガ峰にある矢嶋家墓地には一族の墓20数基がありますが、近隣に血縁の方がないのかお詣りの跡がなく、墓域は益城町の管理になっているようです。

矢嶋忠左衛門之配三村氏碑陰の記 文 横井小楠

 此棺ハ益城郡中山ノ御惣庄屋矢嶋忠左衛門ノ配三村氏ヲオサメシモノナリ。三村氏名ハ鶴、和兵衛某ノ女、寛政十年(1798)三月朔日ニ生マレ、文政二年(1819)矢嶋氏ニ帰シ、嘉永六年(1853)五月廿一日春秋五十六歳ニテ終リヌ。
 此人貞正ノ生マレニシテ、義理ニ明ニ、禍福・利害ニ移サレズ、又能ク憐深ク、人ヲアハレムヲ以テ心トセリ。家ニアリテ、能ク祖父母ニ仕へ、兄妹と同ジク賞セラレテ、銀若干ヲ給ハリヌ。
 既ニ嫁シテ家貧シク、農事ヲ勤メ、蚕ヲ養ヒ、人ノ堪ヘヌ業ヲ尽シ、舅姑ニ仕ヘヌ。ヤゝユタカナルニ至リテ、衣服・飲食ミズカラノ事ハ極メテ倹素ナレドモ、理ニ因テ財ヲ出スハ、聊カモ吝カナル事ナシ。二男七女を生ミ、子ヲ教ルニ、必ズ真心ヲ磨キ、行実ヲ尽ヲ以テココロトセリ。
 病テ牀ニ在コト、殆百五十日ニ及ビ、疲労日々ニ進メドモ、精神平生ニカハラズ、折リニフレ、事ニ就キ、子ヲ教へイマシムルコト至レリト云フベケレバ、其子ノ母ヲシタヒ、忘レヌ餘リニ、世替リ時移リ、山崩レ地折ケ、シルシノ石モ無クナリテ、此棺ヲ発カム。人ノアハレミテ、ウヅミ給ハンコトを希テ、余ニ乞フテソノアラスジヲ記セシム。
 余トイフモノハ、熊本ノ横井時存ニシテ、其子ノ矢嶋源助ガ師トシ、友トスル人ゾカシ。

 この「碑陰の記」は鶴子墓のそばに建てられたが、今は失われて行方不明となっている。

発 病
 母が死んだのは、父より1年半前でした。母の病気は随分前からだったでしょうが、私共の眼にも、身体がお悪いと見えはじめたのは、亡くなる前の年(嘉永6年)の11月の事でした。裏の畑に大根がよくできたのを、客のいないうちにと、男衆を連れて大根引きに行って帰って、沢庵漬けにするもの、切干しものと、それぞれ命じて、手数をすませた後「ご飯にしましょう」と言うたときの母の口もとが変でした。これからが始まりでした。此日はよほど寒かったので、背戸にでて長い時間働いた中に、芯から冷えきったようでした。手ぬぐいを襟に巻いて帰った時の言葉は充分ではなかったようでした。しかし暖まればすぐに、それは治まりました。『矢嶋楫子伝』

診 断
 熊本一の名医と言われていた蘭方医の寺倉秋堤が招かれて診察しました。「鵙も48鷹の中というのですから、この病気も中気の中だと申してもよいでしょう。」と言いました。面白い診断の弁ですね。この寺倉秋堤は熊本における種痘の開祖といわれる医者で小楠と交遊がありました。後に熊本医学校の教頭を務めた人です。

戒 名
 
人々の懸命の看病も甲斐なく遂に矢嶋鶴子は死去します。
 旧暦5月21日といえば梅雨真っ盛りのころです。葬式には城下から僧侶を招きました。僧侶は道々馬上で戒名を考えて来たものらしく「梅霖院妙晴釈尼」と紙の上に書いて示しました。これを見た長女にほ子の夫三村章太郎が「坊さまは雨の中を来たので、降ったり晴れたりしている、梅林院妙香釈尼としていただけないか」と希望を言うと僧侶も、それに同意しました。これで決まったかと思いきや、墓石に刻まれている戒名はまた異なっています。そこには「梅林院清香信女」とあります。

三変した戒名


矢嶋忠左衛門の妻三村鶴子の郷里 益城町櫛嶋

2019-02-12 23:14:40 | 熊本の偉人


 

 県道226号線を浮島神社の方へ左折して矢形橋を渡り1Kmばかり東へ行くと周囲を田に囲まれた小集落、櫛嶋があります。肥後国誌には、「櫛島村、井寺村ノ内、高弐百拾六石余、往古此辺海湖ノ時山上ヨリ望見レバ此所櫛ノ形ニ似タル島ナル故名付ケシト云伝フ古キ地名ナルヘシ」とあります。近くには彌生遺跡の井寺古墳などもあり、この辺は国誌が云うとおり古くから拓けた土地なのでしょう。

 

 右側の小高い山は飯田山、左方へ連なっているのは船の山、左側に幽かに俵山も見えています。三村鶴子はこの櫛嶋村に寛政10年(1798)庄屋三村和兵衛の長女として生まれました。和兵衛は後に廻江手永御惣庄屋に昇進します。鶴子は村庄屋の長女として女一通りの教育を受けて育ちますが、『矢嶋楫子伝』によれば「父母に孝で褒美をうけた心懸けの良い娘、才色兼備、手蹟は見事。父母に掌中の玉と愛でられる。」とあります。また、『津森村郷土誌』によれば「鶴子刀自は三村氏の出にして、矢島忠左衛門直明の室なり。夙に賢婦人の聞へ高く、良人の各地に歴任されるに従ひ、内助の功を全ふせられたるのみならず、日常の繁忙を極めつつある中、能く八人の子女を教養して倦まず、悉く偉人豪傑節婦として推奨すべき人たらしめたるが如き、寔に婦人の亀鑑とするに足れり」とあります。


熊野坐神社(クマノイマスジンジャ)

 益城町が出している案内板に御祭神は「イザナギ・イザナミ」の2神とあって勧請の時期や由来は不明とした後に大永年間頃集落の守護神として迎え、共同体意識を固めていった、とあります。大永年間といえば16世紀初め頃の戦乱に明け暮れていた時代ですが、その頃に櫛嶋は中世村落として発展の基を築いたわけです。三村氏の入植がいつ頃のことかか分かりませんが、鶴子の生まれた頃には、すでに村落共同体のシンボルとして神社が存在し、初詣、風祭り、紐解き、馬祭りなどが行われる祭日は賑わったことでしょう。鶴子は神信心の篤い女性でした。子供の病気や性癖で気になることがあると願掛けをして祈っていたそうです。そういう信心の原点がこの神社だったわけです。


矢嶋忠左衛門と湯浦手永

2019-02-08 20:41:55 | 熊本の偉人


現在手永会所跡は芦北町立「きずなの里」になっています。その前は湯浦小学校がありました。

 矢島忠左衛門は天保9年(1838)2月湯浦手永御惣庄屋兼御代官に抜擢されます。木山での働きが認められたのです。俸禄は20石(後に30石)でかなり裕福になりました。身分は一領一疋の軽輩であることに変わりありませんが、在勤中は諸役人段という郡代に次ぐ身分です。職務は一郷内の租税、法刑、土木、教育等一切を管理統括する任でした。これを現代社会に引き直してみると、首長であり、警察署長であり、税務署長であり、教育長であり、なかなか勢力がありました。
 ここでの忠左衛門の業績は後世に語り継がれるような目立たしいものはなかったようですが、御惣庄屋としての業務の中心は何と言っても農政であり就中干拓などの基盤整備であったはずで、そういう仕事に汗を流しながら行政官としての力を蓄える時期だったようです。それは中山手永への転任後に花開します。
 忠左衛門はこの地へ来て津奈木手永の御惣庄屋徳富太善次と親しくなり、やがてそれは家族ぐるみの交際に発展します。湯浦から津奈木へ陸路を往く場合、津奈木太郎という坂道があって1里ほどの道のりながら歩くのは難儀なことでした。そこで浦伝いの海路を使いました。これだと陸上よりはうんと楽に往来できます。
 あるとき徳富太善次が改まった顔をして忠左衛門に、4女久子を嗣子一敬の嫁に貰えないかという相談をもちかけます。その時久子は11、2才の少女でしたから、忠左衛門は驚いたことでしょうが、その要望は嘉永元年(1848)年に実現しました。
  
順子、久子、つせ子に「三姉妹の誓い」というのがあります。「わたし共姉妹三人は決してだらしない者になりますまい。身を清く、行い正しく女の道を踏みましょう。」という誓約の言葉を書いてそれぞれが署名しました。この時期の母鶴子の教育は論語、孟子、左伝などの漢文の素読に加え「姫鏡」などを読ませて女の生き方を教えていたようです。貝原益軒の「女大学」や大塚退野の「よめのしるべ」なども読ませていたと思われます。近代の女性解放の思想などは思いもおよばぬ時代でした。また、日奈久から三味線の師匠を招いて遊芸などもしっかり仕込みました。順子やつせ子は笛をよくしたと言われますから、そういう事も習わせたのです。実に鶴子という女性は賢母でありました。賢母であるだけでなく夫の忠左衛門をよく支える良妻でもありました、

 


手永会所跡。正面の建物は葦北町もやい直しセンター、同保健センターが入る「きずなの里」です。ここに小学校が建っていたのですから敷地は広大です。

 前にも書きましたが手永会所は御惣庄屋が家族と生活をする居宅でもありました。手永会所の間取図などもどこかにあるのでしょうが今のところ未発見です。会所敷地には付属設備としての各種倉庫があり、また会所見習いなどが寝泊まりする宿泊設備など、さらに犯罪者を留め置く留置場などもありました。
 こういう政治、行政の中心にいて生活する忠左衛門の娘たちは普通の家庭の子女とは、やはり異なる人格を育んだことでしょう。矢嶋4賢婦人の事績を考えるときこの点を考慮に入れないわけにはいきません。
 ここに天保9年(1838)における
一家の諸元を記しておきます。忠左衛門(44才)、妻鶴子(40才)
長男源助(17才)、3女順子(14才)、4女久子(10才)、5女つせ子(8才)、6女かつ子(5才)、7女さだ子(1才)の8人家族。長女のにほ子および次女もと子は木山時代に縁づいてここにいません。
 この家族8人がどのような交通手段を用いて湯浦まで移動したか、頗る興味をそそられます。木山から湯浦までおよそ80Kmの道のりですが、家財道具を抱えて陸上輸送は三太郎の難所があるのできわめて困難。これは間違いなく舟運によったと思われます。

木山、川尻間は加勢川を平田船で下る。この船は沼山津手永の提供。
川尻、計石間は河尻に常駐している藩の御船手方の回船によった。
計石港からは平田船で湯浦川を遡った。この平田船は湯浦手永の提供。この川はずっと上流まで海水が押しており、満潮の時刻を利用すれば会所のすぐ近くまで遡ることができる。
 
上記は手永の記録等に拠ったわけではありませんが、的を射た考察で大きな狂いはないと思います。 

 


佐敷港を含む一帯の海浜は「野坂の浦」と呼ばれています。

 葦北の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 浪立つなゆめ  長田王(万葉集)

 この歌が万葉集に収載されて以来このあたり一帯の海浜は歌枕となります。葦北の海はリアス式地形のために海岸線が複雑に入り組んで三陸海岸によく似た風光明媚のところです。

 またいつか来てや愛でなんあしきたの野坂の浦の秋の哀れを   矢嶋直明

 直明というのは忠左衛門の諱(いみな)です。諱は諡(おくりな)であり死んだときに贈る名前ですから、その人を諱で呼ぶのは失礼なこととされました。ですから通称があったのです。通称は忠左衛門、諱が直明だったのです。さて、この歌ですが一読送別歌に対する返歌のように感じます。返歌とすれば送り主の送別歌があるはずですが、それは失われています。送り主は徳富太善次にちがいありません。この歌を読むと忠左衛門はなかなかの歌詠みですが太善次も歌人でした。
 次のような逸話が徳富家に伝わっています。太善次が19才のころ薩摩行の途次頼山陽が津奈木に立ち寄ったことがあり、その折、太善次が月見の案内役を命じられます。蘇東坡の赤壁の遊は何年くらい前のことになりましょうか、と太善次の問に、さよう800年ほどにもなろうか、と山陽が答えたので、太善次すかさず

 八百年の昔尋ねて月見んと舟をっなぎの浦伝ひして

 と詠み山陽に膝を打たしめたとあります。忠左衛門と太善次は風雅の莫逆でもあったわけです。忠左衛門の歌が送別歌の返歌だとすれば作歌の時期は自ずと分かります。忠左衛門は天保12年(1841)10月24日付けの転任辞令をもらうので、その時期と特定できます。またいつかここを訪ねたいというのが歌意ですが、御惣庄屋の激務をこなしている忠左衛門にその暇はなかったと思われます。

「註」上に忠左衛門は再び葦北を訪れることはなかったろう と書きましたが実は死ぬる前の年に水俣の徳富太善次を訪ねています。そしてゆるゆると滞在し今は久子の舅となっている太善次と旧交をあたためました。そのとき詠んだ歌一首。

 煙にも先づおもふかなやく盬のからくも民の世をわたるかと 矢嶋直明

 忠左衛門はこの前年に妻鶴子を亡くしており、生きる張り合いを失ってしまったのか、翌安政2年(1855) に鶴子の後を追うように亡くなりました。


NHK大河「いだてん」の撮影場所になった女島小学校

2019-02-07 21:50:41 | 熊本の偉人

湯浦手永会所跡を尋ねて葦北町へ行きましたが、その途次おもしろい事に遭遇しました。


写真は芦北町立女島小学校(2005年に廃校)

 上記小学校はNHK大河「いだてん」の小学校シーンの撮影に使われた校舎です。まさか明治時代に建った校舎ではないでしようが、よくそのおもかげを遺していますね。偶然ここを通りかかったので、「いだてん」の撮影があったなどはまったく知らないことでしたが、近くのお家の庭に老婦人が出ておられたので「美しい校舎ですね。いつ頃廃校になったのですか・・」と声をかけたら、ご懇切な説明をして頂いたので知った次第です。

 だんだんお話を覗っているうちに家の中からご主人さまも出てこられて金栗四三の話になり「四三翁と写っとる写真をもっとる。」と言われるので、お願いしてそれを写真に撮らせて頂きました。

 
 昭和50年代の写真で40年ばかり経っています。前列が金栗ご夫妻。後列右から二人目の男性が写真の持ち主。葦北町役場にお勤めのかたわらあちこちのマラソン大会へ参加したと話されました。1936年のお
生まれとか。


矢嶋忠左衛門と木山役宅

2019-02-06 15:02:38 | 熊本の偉人

  矢嶋忠左衛門は文政9年(1826)唐物抜荷改方横目に昇進します。この職は平の横目より席次が上で役料が増えるだけでなく役宅が宛がわれます。則ち杉堂村の自宅から宮園村の役宅へ転居した訳です。この役宅は木山川(秋津川)のほとりに200坪ほどの敷地に茅葺き二階建ての住居と泉水のある庭園付で中流階級の住居でした。
 忠左衛門一家は天保9年(1838)までの12年間をこの役宅に暮らしますが、その間に久子、つせ子、かつ子、さだ子の4人の子女を設けます。どうも矢嶋家は女系の血筋のようで、9人の子のうち男子は源助と五次郎(5歳で夭折)の2人だけで、五次郎は夭折したので実質男子は源助1人だけ
でした。ですから、男子が欲しいという強い願望がありました。
 ところがうまれるのは順子、久子、つせ子と女子ばかり
 楫子の時には今度こそはと祈るような気持ちのところにまたしても女子でしたから、落胆のあまり忠左衛門はお七夜を過ぎても名前を着けません。10歳になる順子がこれを可哀相に思って「かつ」 という名を申し出て10日目に許されたということです。楫子がきかん気のいつも心の中に反抗心を燃やしているような複雑な女に育つのは無理からぬことでした。楫子は兄源助から「渋柿」と渾名をつけられ、姉たちからも渋柿、渋柿と呼ばれてそだちます。しかしこの渋柿は超大物に成長して渋が抜けます。

 


役宅跡の写真です。震災前には家が建っていたらしいですが、今は空き地になっています。 

  写真中央に亭々と聳えているのは樅ノ木です。この樹ノ木は久子が産まれたときの胞衣(えな)を埋めた穴に忠左衛門が植樹したものです。(徳冨蘆花「竹崎順子」による)
 えなの処置など現代人は気にもかけませんが、前近代の人々は昔からの習俗に従っていたのでしょうね。これには前近代の宗教的背景がありそうです。植える樹木がなぜ樅ノ木なのか、椿や桜ではいけないのか、考えればきりがあありませんが、それは民俗学の領域ですね。
 
矢嶋家では代々そうして来たのだと思われます。そうするとつせ子以下の胞衣もその木の周りに埋められたことになります。
  久子が生まれたのは文政12年(1829)ですからこの樅ノ木は樹齢190年になります。写真右奥にクレーンが見えますが、秋津川の復旧工事をしています。役宅からは100mもないくらいです。矢嶋家のご寮人たちは熊本の暑い夏をこの川の水遊びで凌いだことでしょう。
 余談になりますが、序でに申しておきますと、今秋津川と呼ばれている川は往昔木山から流れ出ているという意味で木山川でした。水源はこの辺りに湧出する阿蘇伏流水です。従って冷たく清冽な流水でした。そして今木山川と呼ばれている川は往昔赤井川でした。これに矢形川を合わせて益城三川と呼びます。


木山神宮。社殿は震災で倒壊したままです。鳥居のない神社は締まりがないですね。

 藩政期のころこの神社は「若宮大明神」と呼ばれていました。その若宮さんのお祭りに矢嶋家のご寮人たちは母鶴子が作ってくれる鹿の子絞りの髪飾りを着けて参詣します。その髪飾りの美しさは人々が目を瞠る程のできで、遊び友達からうらやましがられたと後に順子が述懐しています。このお社は役宅のすぐ東側にあったのでここの境内が娘たちの遊び場で、四季折々鬼ごっこ、陣取り遊び、蝉取りなどの遊びに興じていたことでしょう。

 

  このお地蔵ささまも役宅の近くにあります。建物が傾いていますが、震災の爪痕です。転倒した灯篭が脇の方に積み上げたままになっています。
 
田掻地蔵とは珍しいお地蔵さまですね。田掻きとは恐らく代掻きのことで、お百姓はお供え物をして持ち馬の無事と代掻きの安全を祈のったのでしょう。また死んだ馬を供養するお地蔵さまでもあったのでしょう。なぜ馬かと云えばお堂の中に馬の写真が飾ってあるからです。
 このお地蔵さまを矢嶋家の娘たちも朝に夕に見ていたはずですから、なにやらそこに歴史の不思議を思うわけです。
 娘たちのなかで最もきかん気がつよくお転婆で闊達だったのは久子でした。久子6歳の時、姉順子が役宅の菜園に育てていた大切なほおずきがそろそろ熟れはじめたころ姉に向かって、

「お姉さまわたしに一つください。」とせがみました。
「もっと熟れるまで少しお待ちなさい。」と順子の返事。

 久子は不服そうな顔をしてその時はひきさがりましたが、翌日順子が手習いから帰って、ふと見ると久子の縫い上げからほおずのはみ出しているのが見えます。はっと思って菜園に行ってみると、あろうことか大切のほうずきは見るも無惨に1つ残らずひんむしられています。
順子はその場に泣き崩れてしまいました。

 久子が遊び友達を大勢引き連れてきてやったことでした。この時久子は友だちと地蔵堂に上がり込んでほおずきをおもちゃにして心ゆくまで遊んだのでした。 

 


中山手永御惣庄屋 矢嶋忠左衛門の家族

2019-01-26 18:13:08 | 熊本の偉人

 

 葦北湯浦手永より下益城中山手永へ転任になったときの忠左衛門の家族について記しておきます。
惣庄屋は「御」を冠して御惣庄屋とよばれていました。これは単なる尊称ではなく職名であったようです。藩の公文書である町在等にも「御惣庄屋」と記載されています。

天保12年(1841)現在
矢嶋忠左衛門直明 中山手永御惣庄屋 47才
  鶴子     妻        43才
  にほ子    長女       21才  天保8(1837)結婚、別居
  もと子    次女(双生児)   21才  〃        〃
  源助直方   長男       19才   熊本遊学中
  順子     3女        16才  この年竹崎律次郎と結婚伊倉へ
    久子      4女                    12才  後、徳富一敬と結婚、蘇峰、蘆花を生む
  つせ子     5女       10才  後、横井小楠、後妻
  楫子      6女        7才
  さだ子     7女        3才

    

 上記子女のうち順子、久子、つせ子、楫子の4人が後の肥後4賢婦人。堅志田村の会所暮らしの間に彼女たちの人格形成がなった訳で、その跡を偲んでみたい。


 
 手永会所は手永統治のための役所でありますが、同時に御惣庄屋の役宅でもありましたから忠左衛門は家族とともにここに住んでいました。この点が近代の制度と大いに異なるところです。
 勿論住宅の私的領域と会所としての公的領域は区別されていました。区別されていても同じ建物内ですから、忠左衛門の仕事ぶりは残らず娘たちの見聞するところだったでしよう。そのことが母親鶴子の躾けと相まって娘たちの人格形成に影響したと思われます。
 母親鶴子のことは別にアップするすもりですが、賢母、賢婦人でありました。娘たちの読み書きの手習いをはじめ論語、孟子、左伝の素読なども彼女が教えた。また、これは葦北湯浦手永時代のことですが、遊芸を理解させるために日奈久から三味線の師匠を呼び寄せて習わせたというのですね。それから機織り、裁縫、薬草の知識、病気や怪我の手当など女一通り以上のことを教えたというのです。
 のちに竹崎順子は横島の干拓地で農業経営に従事することになりますが、小作人の怪我の治療や薬の調合など、この時に憶えた知識が大いに役立ちました。


若宮神社。
 平安時代の創建といわれますが、御祭神は「健磐龍命(たけいわたつのみこと)」で、阿蘇氏の建立になるものです。近世初期切支丹大名の小西行長が宇土の領主になると釈迦院などとともにこの社も破却されます。再建されるのは加藤清正の代になってからで、以後細川氏もこれを保護したので、江戸時代には郷社として栄えました。
 上の地図を見ればこの社は会所の直ぐ近くにあります。忠左衛門の娘たちはここの境内が遊び場だつたと想像されます。

 


 先の地震で鳥居が落ちたので木製の物に架け替えられました。その際地震による被害を後世に伝えるために石柱部を遺しその上に木柱を継ぎ足す構造にしたと説明板に書いてあります。

 


 
 広い境内には天然記念物の銀杏などが枝を広げていますが、何もない空間があります。嘗てここには芝居のための常設の舞台がありました。毎年秋になると願解祭りが挙行され昭和30年代までは大変にぎわったそうです。
 江戸時代の願解祭は御惣庄屋の宰領するところでした。惣庄屋が祭りの立案企画を行いこれを郡代に提出して熊本にいる家老の決裁をもらって実施する仕組みです。
 祭りの呼び物はなんと言っても浄瑠璃、歌舞伎などの芝居です。熊本には託麻郡竹宮村や合志郡竹迫村に、また靏崎大西村にそれを演じる一座がいました。とくに大西村の一座は大坂歌舞伎とのつながりがあって人気役者を抱えていたと言われます。
 惣庄屋は毎年それらの一座と契約を結んで興行させるのです。興行の期間を何日にするか、演目を何にするか、また木戸銭をいくらにするか、これは興行の成否に関わる重大問題ですが、そういう記録は遺っていません。わが忠左衛門は卒なくこれをこなしていたことでしょう。
 忠左衛門の娘たちもこの芝居を観るのが楽しみだったにちがいありません。竹崎順子や矢島楫子の伝記を読むと彼女等の人間通にしばしば驚きますが、その元になっている豊かな感情は芝居の中から染み込んだもののように思います。
 後年矢嶋楫子は女学校校長のときに月謝が払えなくなった女学生に同情して自費立て替えをしてその女学生を助けたことがあります。そういう義侠心を育てた原点は子供の頃に観た芝居にあったのではと思います。
 

 


 


矢嶋忠左衛門と岩野用水

2019-01-19 23:42:33 | 熊本の偉人

 岩野用水の取り入れ口は鶴場郵便局の真下にありました。この地点から岩野地区まで村落を通り山林を抜け、延々4Kmの水路が貫通しています。途中岩場を掘削して通したところがあり、難工事であったことがわかります。




今は非灌漑期なのでゲートの開度は維持用水を流すだけに調整されていました。


水路は釈迦院川左岸の法面に添っています。


ここが岩野地点、写真右側斜面の棚田に灌漑しています。


 水路の終点付近に碑が建っています。この碑は大正4年御大典を記念して建立したと裏面に彫りつけてあります。台座にびっしりと文字がきざまれ、ところどろに判読できないカ所がありますが、つぎの様に書き付けたところがありました。
 「起工ハ天保十二年ニシテ弘化二年ニ工ヲ竣ヘシカ其工事ノ困難ナリシコトハ今尚ホ形跡ニ徴シテ歴々視ルコトヲ得ルナリ、嗚呼氏カ刻苦督励ノ効ハ田地十六町歩産米三百二十石余且ツ水路の塘ハ年祢村中央道路トナリ・・・」
 「氏ハ去リテ此ニアラズト雖モ、村民ハ毎年六月十五日ヲ矢嶋祭ト称シ酒饌ヲ供シ祭祀今ニ怠ルコトナシ・・・」

 矢嶋忠左衛門が病死したのは安政2年(1855)でしたから大正4年(1915)までちょうど60年経っています。この間欠かさず矢嶋祭は執行されて来ただけでなく、平成の今日までそれが継続しているのに驚きます。こういう例は全国にも珍しいのではないか。

 


惣庄屋矢嶋忠左衛門の岩野用水開削と新田開墾  

2019-01-12 21:41:18 | 熊本の偉人

  惣庄屋矢嶋忠左衛門が葦北湯浦手永から下益城中山手永へ転任になったのは天保12年(1841)のことでした。彼は転任と同時に岩野用水の開削に着手し、5年後の弘化2年(1845)には用水のみならず岩野村に16町歩の新田開墾も合わせ完成させます。
 忠左衛門は没年の安政2年(1855)までこの地の惣庄屋でしたから、三女の順子四女の久子は五女つせ子はここから嫁に行きました。

              岩野地区の田圃は16町歩あります。この地は過去何百年という間水の便がなく畑作地帯でしたが、用水路の開削で田になったので村人の生活が安定し豊になりました。毎年6月15日には忠左衛門の治績に感謝する矢嶋祭が行われています。岩野地区の古老の方に聴いたのですが、このお祭りは現在もやっているということでした。

岩野用水の諸元について記載しておきます。(町誌中央 昭和52年刊より)

全  長      約4Km
井手幅     約2m
灌漑面積    約16町歩
産 米     325石

 

岩野地区に写真のような碑があったのでアップしておきます。

和田圃場整備沿革

弘化二年(西暦千八百四十四年)八
嶋(岩野)用水が和田岩野地域迄完成
し、同時に十六町歩の開田がなされ
数百年続いた畑作中心の生業から、稲
作農業に移行した。爾来その恩恵を受
け順調に発展し幸福に生活して来た。
而し水田は狭く不整形、用排水道路の
便も悪く、農業状勢の急速な変化に伴
い生産基盤の近代化に迫られ、町行政
指導と住民の意欲と相俟って中央町
農村基盤総合整備事業として、昭和五
十九年三月三百六十haが集団化整備され
た、町当局並びに関係機関に感謝し、更に
貴重な資産を整備活用し後世に残す。
昭和六十一年五月  吉日 起草

「爾来その恩恵を受け順調に発展し幸福に生活して来た。」この記述は村人の本心を反映したもので、今にいたるまで矢嶋祭が存続しているのはここに原点があるように思います。

 

 


竹崎順子の墓 熊本市立竹崎公園

2019-01-03 17:59:58 | 熊本の偉人

 熊本市西区上代の市立竹崎公園に竹崎順子夫妻の墓があります。
 この所は往昔飽託郡城山村字上代小字高野辺田と称する独鈷山麓の勝地です。ここに竹崎茶堂、順子夫妻が引退したのは明治9年、茶堂65歳、妻順子52歳の時でした。翌明治10年に茶堂は病没し順子は53歳にして寡婦になりますが、彼女の凄いところは、その後28年の生きざまにあります。儒教的教養の権化のような武士の女がキリスト教に改宗するという、思想の変転成長にjまず驚きます。次いで60歳を過ぎて女学校の舎監になり、さらに70歳を過ぎて校長に推され幾多の困難に打ち克って学校経営を守り発展させた手腕など、どれも感動ものです。

順子墓の文字が写真では読み取れませんが、次のように刻まれています。

順子竹崎先生の墓
孫 菊子の墓

後面には
順先生は茶堂先生の室
明治三十八年三月七日逝く
享年八十一。
菊子は吉勝の二女明治二十八年九月二日没す、享年十七.
先生の意志を体して合せ葬り
明治四十年三月七日しるしの石を建つ。

竹崎吉勝
並に
教子一同

 順子には死装束がありました。それは茶堂との結婚に際して父母か調えてくれた花嫁衣裳です。その衣裳も茶堂が酒造業に失敗して破産したときに借金のかたとしてほかの嫁入り道具の品々と共に手放したものでしたが、順子は後年その衣裳を上通りの古着屋に発見して何十年振りに買い戻します。順子はその衣裳を著て棺に納まりました。


 旧上益城郡津森村杉堂に順子は生まれました。写真中央に白壁の二階家が見えますが、そこに矢嶋家がありました。今は血縁でない方が住んでおられますが、順子が生まれた文政8年(1825)ころは茅葺の住居でした。前を流れているのは蛍で知られる布田川です。熊本地震を引き起こした布田川断層はこの真下を走っており、この集落も大きな被害を蒙りました。


矢嶋家墓地
 集落の入り口近くの城が峰という小高い丘の上に矢嶋家の墓地があります。そこに順子の父母忠左衛門と妻鶴子、祖父彌平次とその妻及び一族の墓が二十数基あります。櫻の大樹があり花の頃は美しいことでしょうね。
前にアップした荒瀨の眼鏡橋はすぐ眼の下見えます。


荒瀨の眼鏡橋  明治33年(1900)の洪水で流失  

2018-12-30 16:32:43 | 熊本の偉人

 徳富蘆花は大正12年(1923)に伯母竹崎順子の伝記を書いています。書名はその物ずばり「竹崎順子」なのですが、竹崎順子は矢嶋四賢婦人の一人として熊本では有名な女性です。
 その竹崎順子が生まれた上益城郡津森村杉堂の木山川にこの橋はありました。架橋地点は荒瀨と字名が付いているとおりの急流で木橋を架けても直ぐに流されてしまうので洪水に強い橋がほしいというのが村人たちの永年の念願でした。庄屋の矢嶋彌平次が私費を投じてここに眼鏡橋を築造したのは文政2年(1819)で、順子が生まれる6年前のことでした。

 
県道28号線は熊本市~高森町を結ぶ幹線道路。


この地点に文政2年~明治33年の81年間眼鏡橋が架かっていました。


下流を見る。すぐ下に布田川との合流点がある。この橋が橋体を丹で塗りたてられた眼鏡橋だったのです。


下流から上流を見る。急勾配であることが写真でも分かりますが、この奥はさらにきつい勾配で急流というよりは緩やかな瀧と言った方がぴったりします。

矢島氏建橋于急流郷人皆悦之余来此地観之栽詩贈焉
(矢嶋氏急流に橋ヲ建テル郷人皆之ヲ悦ぶ。余此地ニ来タリテ之ヲ観ル詩ヲ栽シテ贈ル)

林巒対鬱葱  渓路転西東  (林巒対して鬱葱 渓路西東に転ず)
直訝瞿塘口  兼疑巫峡中  (直ちに訝る瞿塘口兼た疑う巫峡中)
橋成裊碧水  岸断掛丹紅    (橋為って碧水裊たり岸断(たえ)て丹紅を掛く)
屡掲扶漁客 泳游助牧童  (屡掲ぐる漁客を扶け泳游牧童を助く)
鄭郷余豈用 元凱力還同  (鄭郷余あにもちいんや 元凱力また同じ)
本為斯民建  興仁在徳風  (もとこの民の為ニ建つ仁を興す徳風在り)

上は当時上陣に住んでいた儒者、朝来先生こと嵯峨直方が眼鏡橋を観て感動のあまり作った詩ですが、この詩の中に眼鏡橋が彷彿とします。

 瞿塘口(くとうこう)、巫峡中(ふきょうちゅう)・・・西陵峡(せいりょうきょう)を合わせて中国長江三峡という。李白に白帝城という詩がありますが、この景勝の三峡を軽舟で下った時に作った詩です。こういう詩を当時の知識人は読んでいたのですね。
 丹紅を掛く・・・眼鏡橋は丹で塗られていました。この橋は建設中から近隣の評判を呼び見学者が絶えなかったと言われています。それは藩侯の耳にも入り、彌平次は架橋の功績で一領一匹に取り立てられ正式に熊本藩の武士となります。

 この彌平次の嗣子が忠左衛門直明でその子供たちに順子などの四賢婦人がいます。


竹崎順子

2018-12-18 13:56:24 | 熊本の偉人

 玉名市横島町にある竹崎順子の住居跡をネットで検索したけれど、それを取り上げているサイトが見当たらない。訪ねたいと思っている人もある筈だからその案内も兼ねて、ここにささやかな記事を掲載します。


九番開干拓地。この辺りに竹崎家の住居があった。


標識の拡大写真


九番開周辺地図。上方にある天水町竹崎は律次郎の養家。

「横島郷土志」昭和54年復刻版(初版昭和24年)より抜粋

竹崎氏の九番開移住
 安政六年、九番開の築造が完成するや、其翌年、則ち萬延元年(1860)冬、竹崎律次郎、同順子の一家が此の九番新地に移住し来たり農業を営むことに為った。此事は徳富健次郎著「竹崎順子」伝に詳細の記述を見る。竹崎一家が文久元年より明治三年まで十年間、横島九番開に於ける農耕生活を物語り、明治維新前後に於ける横島の半面を伝える好資料である。其詳細の事は同書に譲り、之を要約して竹崎一家当年の生活を略述するであろう。

 抑も此の竹崎家は世々伊倉・茱萸坂下の豪家として知られ、彼の元寇の役に勇戦した竹崎季長の後裔であった。また寛政年間小田郷惣庄屋であった竹崎太郎兵衛政春もその系統であり、下りて竹崎次郎八英貞の時代、其嗣子幼弱に依り、同じ伊倉の名家木下家の次男当時十八歳の律次郎を養子に迎えた。之れ天保元年であた。此の律次郎は天保十一年、矢島順子を娶った。則ち竹崎順子である。律次郎は其後客気に任せ豪家に通例と為っている酒造業を始め、また米相場に手を出して失敗するに至り、竹崎家は破産同様となった。律次郎等は阿蘇南郷谷の奥に隠遁生活を続くること十七年、萬延元年に至り、律次郎の実兄、木下真太郎が新たに築造された九番開に投資した関係から、弟の律次郎に土地の監督を依頼した結果、律次郎夫婦は一女節子を伴ふて山を下り九番開に移住した。時は文久元年であり、律次郎は四十九歳、順子は三十九歳であった。「竹崎順子」の一節に

 「最初兄の田地を世話する傍ら少々の田地を求めて自作もしていました。年々いくらかづつ買ひまして居ました。ある年横島の堤防が切れました。大潮の荒し去った後の新地は台なしです。律次郎は捨て値でそれを買ひ取りました。一方全速力をもつて堤の修復にかかりました。ただのやうにして買ひ取った新地はもう其の秋から幾分かの収穫を上げました。矢島も其處に田地を買ひます。木下の分、外の別墾の人々の分、合わせて律次郎、順子の手に世話する横島九番開の新地は約四十町に亘りました。竹崎家には大勢の男女を使ひます。小作の家族が相次いで横島に移住して来ます。律次郎、順子を中心として横島の新植民地王国が産まれました。」

 とあり、此のように文久元年、竹崎一家は阿蘇の山奥から築造間もない九番開に移住したのであった。しかも竹崎氏は二十人あまりの奉公人を使って、米、甘藷などを耕作し、小作人として移住するものができて四五年の後には二十余戸の小村となった。此の九番開は文久三年に大風のため堤防が決潰した。律次郎が「土地を捨て値で買ひ取った」というのはこの時のことである。竹崎家は移住民対して田地は勿論のこと、農具、肥料代まで貸与し農事に出精するよう便宜を謀った。一方移住民の子弟に対し教育機関の設備を欠くために之を遺憾とし、自家の一隅に手習い所を開いて八歳から十二、三歳の子供を集めて読み書きを教え、また娘達に縫い物を教えて指導し、或いは医薬を施して病者の治療に勉めるなど村民の福利増進に力を致し、其業は大いに賑ふた。

 斯くて幕末の風雲急を告げ、多事多端となるや、律次郎も始終外出勝となり、横島に安居する日が少なくなった。斯くて明治維新の新政が展開するに於いて、竹崎一家も亦横島生活十年の幕を閉ぢねばならなくなつた。則ち明治三年、竹崎一家は横島から熊本へ転居するに至った。「竹崎順子」の一節に、肥後の維新は明治三年に来ました。横井小楠が、かねて渇望し遠ながら誘掖して置いた細川護久が家督を相続し、熊本藩知事となり、横井死後満一年で横井の時代が肥後に来ました。則ち友人門人が続々と登用されます。竹崎律次郎も横島から召し出され、一人見参の出来ると言う「独礼」格で藩庁録事と云う役になりました。後民政局の少属より大属となり、一人扶持の加増を受けました。そこで横島は熊太、節子の若夫婦に任せて律次郎は順子と取りあえず熊本に引き出ました。

 此のように竹崎律次郎一家が九番開の居住は役十年間を以て終わった。其後は養子の吉勝(熊太の改名)節子夫婦によって経営され、明治六年頃まで稲作及び砂糖を製造していた。やがて養子夫婦も又九番開から熊本に転居し、竹崎家と横島とは完全に縁が切れた。竹崎氏の家は外平の旧家服部運太が買い受け移転し農業を営むことになった。このような関係で九番開の総反別五十六町余の中、其四分の一は近年まで伊倉木下家一族の手に所有されていた事実あり、之れ竹崎一家移住の名残りである。竹崎一家が九番開築造の翌年に移住し来たり、草創時代の十年間を暮らした此九番開も明治十一年には已に戸数四十戸、人口二百二十二人に達していた。

 

 


 


高木第四郎 熊本搾乳業の父

2018-05-01 23:29:17 | 熊本の偉人

横井小楠記念館蔵

高木第四郎年譜 (山口白陽著「高木第四郎伝」より)

文久  2年   1歳    8月20日熊本市高田原歩町の宮崎家に生る。

慶応   元年   4歳    市内春日町久末に移転。

明治   元年   7歳    6月21日母知幾逝く39歳

      2年    8歳    長兄真高函館の戦に参加途上、上総沖で乗船の難破 

                                         に 遭い死亡。19歳。

      3年    9歳    3月島田氏の寺子屋に入る。義母藤枝入嫁。

5年    11歳     日新堂青年塾に寄宿、竹崎茶堂の教えを受く。

8年    14歳     春日小学校へ転学。

9年   15歳    ※10月24日神風連の乱起こる。

   10年   16歳   ※2月22日薩軍熊本に来襲西南役始まる。宮崎家を出

            て高木家を創立す。

   11年   17歳    広取英学校に入学嘉悦氏房らについて英・漢・数を学

            ぶ。

     13年   19歳    広取英学校を退き下総三里塚種畜場に入り牧夫とな

            る。

14年   20歳    農商務省農務局農学校獣医分科に入り速成獣医生とな

           る。

15年   21歳    三里塚種畜場を退帰熊。

16年   22歳    市内鷹匠町に搾乳業広乳舎を創む。

21年   27歳    創業5年にして住宅を新築す。松原米子を娶る。

22年   28歳    8月25日長男亮生る。※2月11日憲法発布。

                    ※4月熊本市制施行。

          5月熊本市会議員に当選(最年少。)

          7月28日熊本地方大地震。

            託麻選挙(騒動)について財務整理に当る。

23年   29歳   第1回国会議員選挙

24年   30歳   ※7月1日九州鉄道門司より熊本まで全通。

25年   31歳    3月23日二男統生る。※国会議員選挙大干渉、徳富蘇

           峯応援に来熊。

26年   32歳    託麻郡本荘村に土地を購入牛舎を新築移転。右により

           熊本市議会議員を辞任。

           鷹匠町の屋敷を熊本電気株式会社に売却。

27年   33歳    ※日清戦争始まる。5月本荘村々会議員に当選。

           戦傷病兵の後送により衛戍病院への牛乳納入激増す。

28年   34歳    鷹匠町の家を本荘に移す。

           6月29日三男徳生る。

29年   35歳    三里塚種畜場に至り初めてホルスタイン種牛ローヤル

           号を買入る。10月九州商業銀行熊本支店支配人とな 

           る。

30年   36歳    6月27日父真雄逝く73歳。

           9月27日義母藤枝逝く。

32年   38歳    九州商業銀行本店を熊本に移し紺屋町に新社屋建築、

           支配人となり次いで取締役に任ず。横浜の米人よりホ

           ルスタイン種牡牛を買入る。

33年    39歳    7月15日白川大水害に漁舟を借りて牛乳を配達す。

           ※9月立憲政友会創立され党員となる。

           飽託郡々会議員となる。

34年   40歳    全国的パニックにより九州商業銀行も支払停止となり

           引責辞職したが間もなく取締役に再選、整理に当る。

35年   41歳    11月大演習のため天皇御西下牛乳御用命を受く。

36年   42歳    失火のため牛舎の半ばを焼き牛6頭焼死。

           牛の結核検査実施病牛を出す。

           銀行整理を終え正式に辞任。

           飽託郡々会議員に再選。

37年   43歳    日露戦役起り陸軍予備病院に設置により牛乳の需要激

           増。牛舎増築乳牛50余頭にたっす。

39年   45歳    8月蒸気機関、消毒器設備牛乳の瓶装消毒を実施。

           立憲政友会隈本支部幹事となる。

40年   46歳    10月県会議員に当選。

43年   49歳    1月同志と共に九州実業新聞を引受けて監督となり6月

           1日より九州新聞解題発刊。

45年   51歳    県会議員に再選。

           ※7月30日明治天皇崩御。

大正   2年    52歳    5月岩手県小岩井農場よりホルスタイン種牛買入れ。

              10月鹿児嶋で開会の第1回九州各県連合畜産共進会で   

              表彰を受く。

     3年   53歳    ※7月欧州大戦勃発。8月対独宣戦により膠州湾

              撃。12月九州新聞社長となる。

    4年   54歳     県会議員満期。

    5年   55歳     10月飽託郡黒髪村字留毛に新牧場を設く。11月政友

               会県支部総務となる。

    6年   56歳    4月の衆院議員選挙違反事件に連座。

    7年   57歳    4月右違反事件により収監されたが29日間で特赦。

              ※11月欧州大戦終る。

              12月政友会支部幹事長となる。

    9年  59歳  3月肥後農工銀行取締役となる。

             3月公民権復活し5月衆院議員に当選。

   10年  60歳  5月九州新聞社株式会社に改組され取締役社長となる。 

             6月北海道農場からホルスタイン種牛買入れ。

    12年   62歳   5月下総御料牧場よりジャージー種牡牛、群馬県神津牧

             場より同種牡牛買入。

             5月九州新聞社社屋完成、輪転機2台増設、7月盛大な披

             露を行う。9月1日関東大震災、新聞広告に打撃を受けた

             が義援金募集に努力、11月現地を視察す。

    13年  63歳  ※1月清浦内閣成立、政友会分裂して床次竹二郎らの政友

              本党に入る。5月衆院議員に再選。

    14年   64歳    5月宇留毛牧場牛舎改築。

             八景水谷に1万坪を買入れ新牧場を設く。

     15年   65歳   八景水谷新牧場の最新式諸設備完成、約80頭の乳牛を養

             う。

昭和   3年   6 7歳      1月台湾視察旅行。

                                     12月農工銀行勧業銀行と合併、取締役を辞任。

                ※1月衆議院解散2月初めて普通選挙行わる。

     4年  68歳    本荘町の牛乳処理設備に大改善を加う。

     5年  69歳    5月熊本電気株式会社監査役となる。

     6年  70歳    ※9月満州事変勃発。

             11月の特別大演習に御料牛乳を納む。

     8年  72歳   7月日本新聞協会大会につき満州各地を旅行。

               10月ポルトガル領マカオに乳牛8頭を輸出。

     9年  73歳    3月13日九州新聞1万号に達し大祝賀会を催す。

     10年  74歳    4月日本新聞協会大会熊本に開かれ東邇宮より表彰さ

             る。

               10月帝国牛乳教会会長となる。

    13年   77歳    11月3日喜寿金婚双賀会熊本市公会堂於て最も盛大に行

             わる。

      15年   79歳    4月九州新聞社長を辞す。11月紀元2600年祭典にお召

             を受く。

    16年  80歳  5月広乳舎外4社と合併して新たに熊本合同牛乳創立され

             その社長となる。

             10月熊本電気株式会社監査役辞任。

             11月帝国牛乳協会長辞し顧問となる。

               ※12月8日大東亜戦争勃発。

    17年  81歳   5月1日九州新聞九州日日新聞と合併し新たに熊本日日新

            聞創刊さる。

   20年  84歳   ※7月1日熊本市大空襲を受け大半焼土となる。

            ※8月15日終戦の勅下る。

   21年  85歳   2月12日妻米子逝く。75歳。

   24年  88歳   8月20日自ら主催して子、孫を集め米寿祝賀会を開く。

   25年  89歳   熊本牛乳株式会社社長辞す。10月最後の上京を果たして知

            友を訪問或いは弔問す。

     27年   91歳   12月12日逝く。91歳。

            同14日葬儀、万日山の墓地に葬る。

広乳舎発祥の地 

16年  22歳  市内鷹匠町に搾乳業広乳舎を創む。と年譜にありますがその住所は「熊本

区鷹匠町65  番地」と上の絵にあります。下は昭和4年の熊本市街地図ですが〇印の所   

に65の数字が見え弘乳舎はこの場所に創立されたことがわかります。

下は現在の地図です。矢印の所が広乳舎跡です。 

創立時の広乳舎の敷地は160坪とあるので丸印の範囲ではと思われます。