主宰五句 村中のぶを
いわき白水阿弥陀堂
角ぐむ蘆水のひかりや阿弥陀堂
春の落葉一火山房寂び寂びて
春障子師のこゑのして空耳か
夏茱萸や山肌はなほ雪残し
栃の花省廰街の窓々よ
国宝いわき白水阿弥陀堂
松の実集
薔薇の名 吉永せつ子
大いなる句碑に影打つ若楓
薔薇の名はプレイボウイと手折り呉れ
門川を濁し卯の花腐しかな
小糠雨渦つややかに蛸牛
ぬばたまの水面へつつと落螢
岩煙草 菊池洋子
光雲を吹き払ふ風朴の花
誰が炷きし香よ墓辺の岩煙草
梅雨ごもり黑の片減りならし磨る
少年の凜々しさにあり肥後菖蒲
松山(しょうざん)の至芸の蒔絵窓青葉
岩煙草
青 嵐 西浦大蔵
花屑の風に一つは蝶となり
仕舞屋の空地の増えて柿若葉
城若葉陰うつところ舟下る
青嵐城趾の森を傾けて
城址の石垣の崩え青嵐
埴輪の里 西村泰三
大埴輪麦秋の里見やるかに
青葉の陽笠に受けつつ大埴輪
いと小き埴輪の乳房青葉照る
瞳を細め聞くかに埴輪囀れる
梅は実に出会ひ埴輪の里に成る
雑詠選後に 村中のぶを
逝く春に惜しむセーヌの大伽藍 宇田川一花
作者は経済学で名を成し、内外に名の通った方で、さすれば海外への訪問も多かった事でせうし、掲句はその折りの回顧の一句と思ひます。それも「惜しむセーヌの大伽藍」とは、まさしくノートルダム大聖堂延焼崩落の事でせう。
人は老いて誰しも往事を精しく思ひ出すと言はれてゐますが、それは寂しくもあり、華やかなことでもあります。 作者にとっては後者の事だつたかと思ひます。季語の「逝く春」もまた堂塔への賛美をこめて・・・。
春の月また逢ふことのありやなし 松尾照子
一句はさして特別な内容のある旬ではありません。しか しいつか愛諭的な句風に心誘はれます。それも結句の 「あ りやなし」 の措辞に引かれます。ありやなし、連語の一つ とされ、有るのか無いのか、はっきりしないといふ語意。
用例に
筍や目黒の美人ありやなし 正岡子規
からたちの花の匂ひのありやなし 高橋淡路女
など歳時記に見えますがそれぞれ非凡の作風です。
母の日や母亡き生徒の贈りもの 竹下和子
「母の日」、母への感謝の臼で、亡き母を偲ぶ者は白、母 ある者は赤のカーネーションを胸に飾ると歳時記にありま すが、昨今は物を贈る人が多いやうです。掲旬は母の亡い 生徒からそれを受けたと叙してゐます。生徒とは中学、高 校生を指してゐますが、それはきつと、何しろわが亡母に 通じるやうな、共通の物ではなかつたかと第三者は想像し ます。 心洗はれる一句。
句碑親し湖畔に淡き春の雲 村田 徹
掲旬は作者の住まひからして、熊本市江津湖畔の宗像夕 野火句碑の叙景でせう。作者にとっては師と仰ぐ人の句碑 で、
ひるがへるときの大きさ夏つばめ 夕野火
と自然石に刻まれてゐます。作者には先に芭蕉林の句があ りますが、掲句もまた句碑と共に明るく簡潔に周辺の光景を叙してゐます。
新仏像衣文流麗四月尽 金山則子
「新仏像」、新らしく望まれて安置された仏さまの事でせ うが、それは立像か座像か、「衣文流麗」とはその着衣の 避がうるはしくなだらに流れてと叙してゐます。と立像の 容姿が浮かんで来ます。また仏像とは”仏陀の像“の略で すが、一般には阿弥陀如来や菩薩を指します。 一句は新らしい容貌の仏様を迎へて同時に季節の節目を 心に留めてゐるのです。それに句の叙法に注目。
柵の牛なんじゃもんじゃの花の下 那須久子
「なんじゃもんじゃの花」、なんじゃもんじゃ(ひとつば たご)は珍木とされ、五月頃の開花と各辞書や図鑑に見え ますが、手元の四通りの歳時記には記載がありません。作者は球磨の水上村の住まひ、十五米か二十米にも及ぶ高木、 その白い花の下の牧牛、自づと村のたたずまひが想像され ます。
駅前のトラットリアに初夏の風
「トラットリア」、小さめで庶民向きのイタリア料理店と 辞書にあります。そこに「初夏の風」とは実にお酒落な光 景です。なにか此所だけ地中海の風でも吹いてゐるやうな 明るい思ひがします。
芽柳や鮒取神事の泥の飛ぶ
「鮒取神事」、母が八代の人でしたので鮒取りと言って開 いたことがあります。宗像夕野火編の 『火の国歳時記』に依ると四月七日、石川宿祢を祀る、八代郡鏡町印鎗神社祭礼の事で、第十四代仲哀天皇の御代、石川宿祢が賊徒征伐のためこの地に来たとき、神社裏の鏡ケ池から鮒を手掴 みにして捧げたといふ故事にならつて、毎年鮒取神事が行はれ祭の呼び物になったとあります。掲句と共に先の五月(若竹鍍)でも西村泰三さんが松の 実集で鮒取神事を迫真的に詠じてゐますが、斯うして皆さん方が自ら暮らす郷土の自然と人々の習俗などを、各人の 写生と季節感で詠みつづけてゆく事は俳句といふ次元を超えて、真に尊いことだと強く思ひます。
新樹光勢至菩薩の指の照り 落合紘子
「勢至菩薩」とは、凡そ阿弥陀如来の右に脇侍する菩薩 で、お独りで信仰されることの少ない仏であって、半伽政 坐に合掌のお姿です。「新樹光」「指の照り」、初夏の頃の 山内と御堂のきらやかな点描です。
万物の令和寿ぐ五月来ぬ 釘田きわ子
新元号を祝ふ一句、それも出典は万葉集といふ、すくな くとも詩歌に親しんでゐる私達にとっても五月一目、晴が ましい目でした。「万物の」「五月来ぬ」、総てを言ひ止め てゐます。
桜東風半年ぶりの窓を拭く 中山双美子
東風、ちは風、こは不明と辞書に見えますが春到来の風 で、いろいろな名があります。掲句は札幌の方、「半年ぶ りの窓を拭く」とは南の私共にとっては意外な事。なほ半年ぶりにではなく半年ぶりのと叙した差違を、作意上些細 な事ですが心得ておくべきでせう。