古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

鶴崎剣八幡と大西村傀儡師

2017-12-21 22:29:34 | 享保年間の熊本藩古文書

正保2年(1645)細川家によって創建された。 御祭神:誉田別命 例祭日:春季大祭・4月上旬。ここの祭礼は喧嘩祭と呼ばれる春期大祭が有名。

永青文庫にある古文書から剣八幡社の祭礼の記事を翻刻文にして掲載します。

享保四年八月廿四日

一 鶴崎剣八幡宮祭礼毎歳九月十五日にて候 宮下の氏子共火伏風留之宿願結置候 願解の為大西村に居り候傀儡師雇い去年も芝居興行仕候 当年も去年の通り傀儡師を以て晴天十日 見世物御免下され候様と鶴崎町年寄り共書付 御郡奉行衆より差出し申され候に付御郡方衆御談じ 添書仕らず候に付 右書付相添え御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 例によって少し解説を試みると、秋の例祭は9月15日に火伏風留を祈願する祭りとして執行れていたようです。その願解の日に大西村から傀儡師を雇い人形浄瑠璃を上演しただけでなく、この文書にはありませんが、大阪から役者を呼んで歌舞伎なども上演していたようです。

 さて、ここでは祭り興行に至る主催者側(藩側)の事務手続きの流れについて説明します。発議は「鶴崎町年寄共」の願書です。年寄共というのは別当、庄屋などの職にある役人のこと。この願書を御郡奉行が更に上級の御郡方へ上申、御郡方役人は添書を付けてこれを家老へ伺うという手続きを経て決裁されます。 

 御郡方役人及び家老は熊本にいますが御郡奉行以下は現地鶴崎にいます。これは現代の役所の機構でいえば本庁と出先の関係になるようです。御郡奉行の職場は現地にありますが彼等はそこに居住しているわけではなく、住居は熊本城下にあり、2人の郡奉行が交替で現地へ出張して業務を処理していたのです。今日から見れば随分ゆっくりとした体制ですが、それでちゃんとやれたのですね。御郡方は4家老の決裁を伺うのですが、家老は夫々の屋敷におり、そこまで決裁を貰いに通っていたわけです。


久住町 平摩大明神

2017-12-21 00:22:58 | 享保年間の熊本藩古文書

住神社の創建は古く大化年間には既にあったと言われているが、戦国期の戦禍によって社殿は消滅した。江戸時代になって加藤清正が社殿を再建し、細川氏に引き継がれた。同社は旧直入郡一帯の氏神として尊崇され、藩政期は平摩大明神と称していた。

江戸期の町起こし平摩大明神の祭礼・・

 今の久住町は大分県竹田市に属していますが、藩政期は熊本藩領で久住手永の在町でした。在町というのは村が行政区一般である中で特に市の立つような家並みの集合した所を村と区別して町と呼んだらしい。在町が村と違うのは町別当という役職が置かれ町ならではの行政手法が用いられたところにあるようです。甲佐町、御船町、隈庄町、隈府町、高森町等みな在町でした。

 過日、平摩大明神の祭礼に関する古文書を発見しました。読んでみると、これがなかなか面白いので以下に翻刻文を掲載します。古文書のコピーを掲載出来ると良いのですが、著作権等の煩わしさを忌避して翻刻文のみとしました。

 享保四年八月廿四日

一、久住氏神平摩大明神祭礼、毎歳十一月初卯ノ日に相勤申事に候 然る処に久住町の者共 連々勝手逼迫仕り町並之取繕も成し難く困窮に及び候 祭礼の節は寒気強く見物人も少なく難儀仕り候 に付 近年は九月ニ至つて見世物願い奉り御免成られ候 其の助力を以て町並み取り繕い御年貢をも支え無く相仕廻い申す儀に候 之に依り当年も去年の通り見世物御免成し下され候はば鶴崎に居り候傀儡師を雇い見世物仕り度き由 久住町別当 庄屋並びに御惣庄屋書付を御郡奉行衆より差出し申され候に付御郡方衆添書き相添え御家老中え相廻し願いの如く仰せ付けられ候事

 少し解説を試みてみます。享保4年というのは1719年、熊本の殿様は4代宣紀、江戸の将軍は8代吉宗。この神社の祭礼は11月初めの卯の日に行われて来ましたが、旧暦11月は今の暦でいえば12月に当たり、標高の高い久住町では祭りをやっても「寒気強く見物人も少なく・・」という有様はその通りだろうと思われます。折から天候不順による不作が重なって「勝手逼迫仕り町並之取繕も成し難く困窮に及び候 」というところに陥ったのです。そこからの脱出策として人寄せ作戦を想いついたわけですが、そのためには11月の祭礼を2ヶ月前倒しすること、これは何事も前例に縛られていた当時の政治感覚からは思いも寄らぬことで、すんなり実現した訳ではないと思われます。そこに領民及び町役人の必死の嘆願があって藩を説き伏せ、遂に祭りの繰り上げ実施がなりました。そして「鶴崎に居り候傀儡師を雇い見世物仕り度・・」のアイディアが功を奏し「其の助力を以て町並み取り繕い御年貢をも支え無く相仕廻い申す儀に候 」というような成功を収めたのでした。

 鶴崎の傀儡師というのは人形浄瑠璃を演じる一座で鶴崎の大西村を拠点にしていました。熊本府内へも出張公演することもあるくらいで当時人気の一座だったのです。これを興行することで他領からも見物人が集まり、その人たちの落とすお金で町の財政が改善したのです。