古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

迦南俳句を読む9  横井迦南句集より

2017-04-30 17:36:17 | 横井迦南

写生自在7

七面鳥闊歩し棕櫚の花こぼれ  迦 南

地面に花が散り敷いているので仰ぎ見ると棕櫚の花穂が伸びていて絶えず小花をこぼしつつある光景に出合うことがあります。5月頃のさして暑くない時候の頃で、なかなか風情のある光景です。

この句はその花が七面鳥の上に降っているというのです。こういう取り合わせは見たことがありません。

それから「闊歩し」というのは作者の主観です。いわば擬人法を採用しているわけで、やり損なうと嫌みな句になるのですが、ここではその一語のためにかえつて句に生命力を吹き込んでいます。

 

朱欒たるる庭に驕れり薩摩鶏   迦 南

 

朱欒(ざぼん)などという季題が出て来るのはいかにも南国鹿児島ならではの事ですね。鹿児島では庭木に朱欒を植栽するのは普通のことです。

ここでも前句同様地鶏と朱欒の取り合わせが面白いのです。そしてまた「驕れり」という主観語が際立って働いています。

前句の「闊歩」、後句の「驕れり」これを超える言葉があれば示して頂きたいものです。こういう言葉の斡旋は迦南の独壇場です。

因みに、薩摩鶏は、名古屋コーチン、比内鶏とともに日本三大地鶏と言われています。


迦南俳句を詠む8   横井迦南句集より

2017-04-29 10:37:42 | 横井迦南

写生自在6  桜 島 四句

桜島夜々月をあげ猫の恋     迦 南

繕ひし垣に裾揚げ桜島        〃

春潮や裾ひろやかに桜島      〃

月上げて何時しか低し桜島     〃

迦南の鹿児島仮寓は昭和15年から19年までの4年間でした。その地にどんな知る辺があったのか、句集には何も記されていません。また、その後の多良木町移転も、さらに三角町転居についても同様です。

迦南は元々名古屋の人であり、名古屋には横井姓が多くかの横井也有も尾張藩の俳人でした。迦南もそういう血筋の人ではないかと想像するのですが、これは確認のしようもありません。

さて、桜島を詠んだ句で句集に収められているのはこの4句のみです。日々桜島を望みながら4年間で4句とは少ないですね。句稿の散逸が考えられます。

迦南は生前に句集を出していません。そのつもりがなかったのだと思われます。そのため転居の度毎に散逸したのでしょうが惜しまれます。

1句目は恋猫の句、早春の皓々たる月明かりの中に狂おしい恋猫の啼き声が毎夜のように耳に付く。一方桜島は黒々とした山容を見せてこれも夜ごとに月を上げている。大きなものと小さなものとの対比を描出して、恋猫の哀れに心を寄せているのです。

2句目、繕ひし垣というのは生け垣でも柴垣でも、どちらでもよいのですが、それがきれいに繕われた。破れほうだいであったときとは見違えるほどに桜島に精気が甦った。まるで裾上げをしたようだというのです。裾上の一語で句が溌剌としました。

3句目、今度は裾が広いという把握です。錦江湾に漲り寄せる春潮、もうそれだけで桜島の山姿が彷彿とします。

4句目、いつしか低しという、これは発見ですね。そして言われて見れば誰にも思い当たることなのです。写生の目が捉えた一句です。

 


迦南句を詠む7  横井迦南句集より

2017-04-28 18:19:35 | 横井迦南

写生自在5  颱 風4句

颱風の昼餉の膳に蠅黒く      迦 南

颱風の中に折々時計を見       〃

颱風の厨にゐたる余所の猫     〃

颱風が味噌甕を持ち去らうとは   〃

 

鹿児島時代の句ですから昭和19年秋に詠まれたものと思われます。颱風の接近から過ぎ去るまでを時系列的に詠んでいます。

まず食物にたかる蠅を描出することで台風接近の不気味な不安感を表現しています。蠅が利いている。

次に颱風が吹き荒れている最中の心理描写、これもお見事というほかありません。「折々時計を見」という行為は誰しも経験があるのではないでしょうか。自然の猛威の中における人の無力感を余すところなく表現しています。

三句目は、そこに猫を点出することで、奇妙なる可笑しみと同時に少しばかり安心感も漂い、さらに運命共同体的な連帯感までも具象化されています。

四句目は颱風が過ぎ去った後の安堵感を水甕で表現して、これまた過不足がありません。住宅にも相応の被害があったことでしょうが、それを細かく云わないで味噌甕に代表させて的確です。

横井迦南の魅力は写生眼の鋭さと表現伎倆の確かさにあり、事象の本質に触れているので句が古びません。

 


迦南俳句を読む6  横井迦南句集より

2017-04-27 21:36:22 | 横井迦南

  写生自在4

小田原の傘焼き祭り

投げし傘宙に開きて燃え上り  迦 南

海風に傘火の焔ちぎれ飛び    〃

𠑊として舎の高張や傘を焼く    〃

火となりてしばし美し傘の骨    〃

 

上記四句を読んだとき、傘を燃やしている場面を詠んだ句であることは理解

たものの、何のために傘を焼くのだろう、という疑問が解けぬままずっと

置していたのですが、ある偶然から小田原市に傘焼き祭りというのが行わ

れていることを知り、これだと思い当たった次第です。

小田原市では毎年5月20日ごろに、曽我兄弟が父の仇討ちに行く際に

を燃やして松明代わりとした故事にちなんだお祭りをやっています。それが

傘焼き祭りなのです。

迦南がこの祭りを見物したのは昭和17年のことです。よほど印象深かった

のでしょうね、力の籠もった写生句を残しています。

この四句よくよく味わってみると表現に弛みというものがなく、無駄な言葉が

一字もなく殆ど完璧ですね。なかなかこうは詠めないものです。


膝栗毛31  男性2人入会 13人の会へ

2017-04-27 20:29:04 | 膝栗毛三編

読み合わせ会風景

膝栗毛は今日から三編下へ入りました。今は遠州掛川宿あたりです。

伊勢参宮まではまたまだ遠い道のりです。

弥次・喜多は行く先々で失敗ばかり繰り返すのですが、作者の一九に

はよくもアイディアが続くものだと感心します。類型をを現代作家に求め

れば井上ひさしくらいしか思い当たらないですね。


迦南句を読む 5    横井迦南句集より

2017-04-21 21:20:55 | 横井迦南

写生自在3

雛つくり客に吃りつ手を休め  迦 南

 

句会でこういう句を見たら多分見逃してしまうでしょうね。短時間で選句しな

ればならない句会では地味な句は損をする場合いが多いのです。

しかし、炯眼の士は必ずいるもので、この句はそういう人に拾われると思い

ます。では、その炯眼の士の弁を聞いてみましょう。

まず、「雛つくり」というのは雛を作る作業の事ではなく、雛作り職人のことで

す。その職人は店を持っていて雛祭りの比であるから店内には大小色々の

雛人形が目立つところに飾り付けてあります。それらは皆店主である職人

の作ったものです。折しも一人の客が入って来て雛を見ながら店主に向

かって何か言ったのですね。店主は作業を続けながら受け答えするのです

が、どうもこの職人には吃音症があるらしく会話がスムーズに行きません

が、客はこの雛を買いたいとでも言ったのでしょう。店主は手を休めてその

雛の説明を始めた。というのが一つの解です。

しかしこの解は「客に吃りつ」という措辞の意味するところを低く見ている、

もっと言えば見逃しているのではないか。

こは客と職人との間に何か𡸴悪な事態が発生して店内の空気が一変した

た場面と見るのが正しい解釈ではないか。客から自尊心を傷つけられるよ

な事を言われたために、例えば人形に瑕があるというような、職人は烈し

興奮してひどく吃りながら抗議したという場面です。

客の方はなにをそんなに職人が興奮するのか、ちょっと面食らっているとい

う状況ですね。それがどのように決着したかまでは判りません。

こう解釈をすればこの句は職人の内面描写をしているわけで、さらに職人

の子供の頃にまで想いが遡り吃音症があるために親も子の将来に思い悩

み普通の職業は諦めて人形師の道に入ったというような経歴にまで想像が

及ぶのです。

ちょっと見にはなんでもない句のようでありながら、よくよく吟味すると上記

のような複雑な感情を蔵している小説的構造を持った人事俳句ということが

できます。

 


鶴亀句会 4月例会  2017

2017-04-21 15:07:26 | 鶴亀句会

会日時   2017-4-21  10時

句会場        パレア9F 鶴屋東館

出席人数   8人 

指導者    山澄陽子先生(ホトトギス同人)

出句要領  6句投句 6句選   兼 題  陽炎

世話人    近田綾子 096-352-6664 出席希望の方は左記へ。

次 会    5月19日(金)10時パレア9F 兼 題 麦秋

今日は案月子さんが欠席、世話人の綾子さんが携帯で連絡を取られてい

ましたが、どうも日にちを忘れておられたようです。老人の会ならではのこと

ですね。

それから今日はお二人の入会がありました。興さんと小夜子さん、いれも

性で、純子さんのお誘いによるものです。人数が増えるのは良いことで会

気がれてきました。

 

山澄陽子選

海峡を行き交ふ船の陽炎ひて     小夜子

快速の止まらぬ駅の夕桜         〃

陽炎や異人館屋根踊らせて        〃

かげろふや大学の道赤煉瓦       興

早春の山ふところのレストラン      〃

二人して指さしてゐる桜餅       武 敬

軽き衣を肩に引つ掛け春の暮      〃

陽炎へトロッコ列車走り行く       〃

震災の傷癒えぬ城楠若葉       礁 舎

鴨引いて残りし湖の広さかな      〃

木瓜一輪朱の色とどめ庭に咲く   綾 子

雨あがり桜遅れて満開に        〃

桜散りフロントガラス花模様     純 子

滑走路かげろふ踏みて翼発つ     〃

ぴょこぴょこと若草跳ねるひよこかな 茂 子

ベコニアの八重の白きがわが自慢   〃

 

先生の句

沈丁花ほろほろ零れ雨催

枝垂れてはしだれては花風を呼ぶ

陽炎てこの道どこか懐かしく

移り行く刻の早さに花の散る

その先は曖昧模糊と花の雲

魂のわが身離るる花の下

 

 


迦南俳句を読む 4   横井迦南句集より

2017-04-20 12:12:31 | 横井迦南

写生自在 2

① 夜濯や昔は虎が来たといふ     迦 南

② マンゴーは芳ばし海はまこと紺     〃

③ 楼門は腐ちゆくまま昼の虫       〃

④ こゝよりは朝鮮町や秋つばめ      〃

⑤ 婢の里はこのあたりとか山桜      〃

⑥ 初七日はうちわばかりの豆御飯    〃

⑦ うしろには球磨の大橋梅の宿      〃

⑧ 稲妻は衰へ月は雲を出で         〃

⑨ 郭公や寺のうしろは岩襖         〃

                           解説の便のために句頭に番号を振りました。

係り助詞「は」を取り込んだ句は句集中にこの9句しかありません。俳句は

「て、に、は」の使い方1つで佳句にもなれば凡句にもなるので、作句の時

はそこに最も苦心するのです。①は「は」によって意味の上でも、これ以

にはないですね。②⑧は「~は~は」という畳句の叙法で句に躍動感を与え

ています。④⑤⑦も「は」 は動かないですね。

ところが③⑥⑨の場合は「の」と置いても意味は通じます。私などはついつ

い「の」と置いてしまいそうです。

修行時代はずいぶん「の」と添削されたものですから、俳句は格助詞「の」を

多用するものという観念がこびりついています。

そういう意味で迦南句集は私の「てには」を正してくれる有難い参考書なの

です。


迦南俳句を読む 3   横井迦南句集より

2017-04-18 21:34:02 | 横井迦南

写生自在 1

建て増して軒端の梅となりにけり     迦 南

道々に戦果のラジオ初詣           〃

春雷や主人の座なる熊の皮         〃

▽ 建て増しての句、こういう何でもないような句材は、ついつい見落とし

てしまい勝ちですが、詠まれてみるとなかなか面白いですね。こちらの

闊さを思い知らされたような、そんな心持ちがします。朝鮮での自宅

増築時の詠句とすれば昭和12年の作。

▽ 道々にの句、これは昭和17年正月の句。前年12月8日に米英に対し

宣戦布告をして日本軍が破竹の勢いを示していた時期。萬歳、

の声が聞こえてくるようですね。この時迦南は朝鮮を引き払って鹿児

島市に住居を移していたしていたので、このラジオ放送は鹿児島で

もの。戦意高揚の句と言えぬこともないのですが、今となってみれば資

料的価値で評価できます。

▽ 春雷やの句、こういうのは春雷と熊の皮との取り合わせが巧くかみ合っ   

ているかどうかで評価がきまります。春雷というのは吃驚りするような

を出すこともありますが、大抵は1,2回で終わり、もっと鳴って欲し

いと耳をすましたりもするもので、夏の本格的な雷に比べると優美と

言っよいらいのものです。ですからここへ虎の皮などを持って来る

と、雷の優美の間に乖離を生じて失敗作となり、熊の皮くらいで

ぴったりと調和するのです。また、狐や狸では春雷に対して位負けであ

るのと同時にの貫禄落としてしまいます。

 


迦南俳句を読む 2    横井迦南句集より

2017-04-18 14:59:21 | 横井迦南

    迦南の死

横井迦南は昭和二十八年二月九日、宇土郡三角町の下宿先において

十三歳の生涯を閉じますが、それは普通の死ではなく睡眠薬による

服毒自殺でした。

枕許には遺書と遺詠が並べて置いてあり、遺書には

「係累のない自分のような人間は生きていても仕方がない。年老い

て他人様に迷惑をかけるようになる前に身の始末を付けておきたい。

けして自分は世の中に絶望して死ぬのではい。これは病妻に死別した

きから、画していたことである。」

という意味合いのことが記されていました。鰥寡孤独という言葉があり

すが、迦南夫妻には子がなく夫人の死とともに、迦南はまさに鰥寡孤

独の境涯に落ち入っていたのです。

 

遺 詠

わが命ここに極まり冴返る      迦 南

春炬燵安楽往生うたがわず      〃

嘘いうて心で詫びて春こたつ      〃

明日はまた夜伽も嘸や寒からん    〃

死魔と詩魔かたみに徂来春灯下   〃

春灯の今はのきはに明るくて      〃

あら可笑し炭火に酔へる心地して   〃

やがてなき身とも思はず炭をつぎ   〃

 

その年の秋宗像夕野火氏等によって『迦南句集』が編まれ虚子が序文 

を寄せ、「阿蘇」主宰の阿部小壺氏が後記を書きました。虚子序文の一

部と小壺氏の後記を抄録しておきます。

 

   序

横井迦南君が死を選んだ。その詳報がもたらされたので、状況も明ら

かになった。私はその死んだ心持ちに同情するところもあつたが、不可

解なところもあった。(中略)

私は何故迦南君が死を選んだか、それには細君に死別されたといふ

事もあらう。又実子の無かつたといふ事もあらう。自分の俳句が自分の

ふやうにならなかつといふ事もあらう。又自ら言ふ如く、生きて世

益なき自分であるから此の上生きて人に迷惑をかけるにしのびぬか

ら、といふ意味も勿論あつたのであらう。が、何故に死を選んだかとい

ふ事は、私にはまだ合点のゆかぬ節がある。唯君は自ら己を殺した事

によつて、自己満足を得たといふ事だけは認めねばならぬ。

  昭和二十八年五月二十六日

                      鎌倉草庵

                          高浜虚子

 春来ること疑はず逝かれけん  虚 子

  

  後 記

迦南先生の死について如何に発表すべきか如何に処置すべきか、私

の非常に苦慮したことであつた。

先生の死は崇高であり厳粛であり、私共は私共の主観を挿むことな

く、ありのまゝに取扱ふことが妥当であると考へた。

先生の霊をいさゝか慰めるための句集の発行、先生を偲ぶところの句

碑の建設とを考へたが、これも果して個人の意思に副ふやいなやはわ

らないが、残された者としての止み難きものであつた。

本書の発行については、ホトトキスに載録されたもの全句を宗像夕野

火氏の編集に基き、年譜については同氏及び佐藤寥々子氏の調査に

よつたものであることを付記して謝意を表する。

序文を頂いた虚子先生、装幀を煩はした獨立美展の海老原画伯に対

して心から感謝の意を表し、特別の協力をされた石田印刷石田巌氏に

たいしても感謝したい。

  昭和二十八年晩秋

                        阿部小壺

 

 


迦南俳句を読む 1  横井迦南句集より

2017-04-17 17:16:44 | 横井迦南

 俳人横井迦南は戦後の一時期を球磨郡多良木町に仮寓していまし

た。ホトトギス同人と言えば県内に数えるほどしかいなかった時代に

南はその数少ない同人の一人でした。俳誌「阿蘇」の選者を務める

傍ら多良木町に句会を作って後進の育成に当たっていました。宗像夕

火氏などはそこから巣立った俳人です。

 私は平成2年から3年間ばかり仕事の都合で湯前町に単身赴任して

いました。その時に夕野火先生の句会へ通うようになり、写生の何たる

を教えていただきました。毎年迦南の忌日の二月九日には迦南忌句

会が行われていました。

  迦南忌や春寒の川遡り  礁 舎

 掲句はその頃詠んだ私の句で先生に褒められて嬉しかったことを覚

えています。ここに云う川は勿論球磨川で、沿岸道路(国道219)を自

家用車を転して遡ったのです。

 

 さて、これから何回かに分けて迦南句を紹介しながら鑑賞文を書き

綴って行きますが、その際句の製作年次などにはとらわれず、こちらの

心の有り様第で、謂わば気まぐれ的に採り上げて行くつもりです。

 

 福寿草や主人満蒙の旅にあり  迦 南

 これは朝鮮時代の句です。迦南は朝鮮龍山鉄道に奉職していたの

で、知人の家を年始回りなどで訪ねたときの属目と思われます。

 「満蒙の旅」とは豪放な言葉ですね。いかにも大陸的で植民地時代の

雰囲気を纏っていて、この旅は四、五日程度の小旅行ではなく何か重

大な使命をおびた長期間におよぶ旅行のように思われます。「満蒙」と

いう措辞がそういう連想を引き出すのです。

 一方、留守宅は夫人がしっかりと守っていて、年末の煩わしい年用意

なども一人で切り盛りして片づけてしまって、主のいない外地での正月

を一人で迎えたわけです。そこに一抹の寂しさがあり、作者の同情もあ

るのです。床の間に活けてある福寿草がその感じを強めています。

 私をしてこんなふうに解釈せしめるのも季題「福寿草」の働きですね。

また調子の上で「福寿草や」と六音にしたことが、この句に厚みと奥行

きを与えています。

 こんな事もけして偶然ではなく作者の計算から来ています。タダモノで

はないですね。

 

 私はこの句を上記のように解釈したのですが、それは間違っているか

もしれません。俳句は短い言葉で事象を描写し表現します。ほとんど説

明はできないので、時としていくつもの解がなりたちます。

 その場合、私は最も作者の意に添う解は・・という立場で解釈するよう

にしています。そんなふうに評価してくれてありがとう・・と作者に感謝さ

れるような解釈ですね。  つづく


大槻 上書2    黒船来航

2017-04-15 21:03:47 | 大槻磐渓

12頁 原画

一 寛政四五年之比魯西亞人ラッリスマン蝦夷地

ニ来内願申立候節此所ハ外国取扱之地ニあらず

願申旨あらば長崎江至へしとて長崎江至ため之

信牌を賜しかハ彼等既願筋叶たる事と存

込其後数年を経而文化元年九月使節

レサノフ国書を奉じ長崎江入津通信通商

を請ふ此時我国之厳禁を以及御断貢

献物も一切御受取無之ニ付使節ハ同二年

三月中無夷義帰帆致候然る所辱君命候を

 

残念ニ存且ハ欧羅巴諸国江面目も無之迚

未到国都途中ニ而自尽致候由其後

又数年を経て文化八年之比同国甲比丹

ゴロウイン蝦夷海測量之為渡来之所彼国

賊オホシトフ乱暴後之事ニ而彼等を怨居候

折柄彼地詰之役人計策を以ゴロウイン等七

八人を召捕松前迄引連参り四年之間牢舎

為致置候所彼此之縁故ニ而漸事実明白ニ成

本国江御差返ニ相成候此両度之御仕向方如何

 

13頁 原画

にも無御餘義訳ニハ候へとも彼国ニ而ハ定而不平

ニ存居可申夫を甘心致何事も手出し不

仕ハ大量とも可申歟然る所萬一米利幹江

交易御許之事も候而ハ彼国より表向使節を

立如何様之難題申来候も不可測其節ハ

如何御返答可有之哉ト誠以痛心仕候

ケ様認置候内果して長崎江渡来之内

彼国之敏速誠ニ可驚事ニ御座候ただし魯西

亞御取扱之義ハ兼而愚考仕置候義も有之

 

右国書御請取ニ相成候上ハ必一策を奉献度

私願ニ御座候

一 強盛ニ相成候英吉利ハ慶長五年

泉州堺江来交易願申上願之如く免許被仰付

御朱印被下置年々肥前平戸ニ而交易致候所

利潤少シとて元和中彼より辞して不来其後

三拾餘年を経て漢文十三年再び渡来

交易願候へとも御許容無之永く渡海御停止ニ

相成候然る所慶長之御朱印今以彼国ニ所持

 

14頁 原画

致居候より兎角交易願之志無已時動す

れハ彼役人共評議ニ申出候由三四年前

阿蘭陀風説書ニも相見へ候是も他之国江交

易之道開候を承り候ハヾ必黙して止申間敷候

一 阿蘭陀ハ慶長十四年交易願叶候より弐百

餘年連綿と通商致第一風説書御用

相勤其外海外夷変之義何ニよらず御注進

申上既十年前ウイルレム第二世阿蘭陀王より

熊々使節船を立御忠告申上候處其節御

 

返翰ハ不被遣閣老より之書翰ニ此度ハ国

書御請取ニ相成候へ共此末ハ堅く御断之趣

被仰遣候由承り候義も御座候然る所此度米

利幹書翰浦賀ニ而御請取ニ相成候義承り候ハゞ

必快くハ存申間敷右三国之引合彼此考

合候へハ米利幹江交易御許之義ハ実ニ容易

ならざる御義と深く恐怖仕候斗ニ御座候

一 此度之成行先之先までも考詰候へば通商

御断も一応二応てハ済申間敷愈双方より募

 

15頁 原画

互に承知不相成果ハ戦争ニも至可申尤其節

ハ此方義気も十分ニ満候而必一戦を遂可

申候へとも彼ニハ神機利鋭之飛道具有之兵卒も

能調練致居候由夫江敵対致候而十分勝利

を得へし共不被存因より近世清国郡県之

大敗之如にハ至申間敷候へとも何を申も二百年来

太平遊惰之士俄に軍事に臨候義最初者

鋭気ニ有之候とも三戦四戦之後ハ人ニ精力も

尽候而遂ニハ和議之一條ニ至候も難斗其節

 

彼よりとし歳幣を被要候事も候ハゞ国勢人心も

如何変化仕候者ニ候哉殆ント愚意之所及ニあらず候

一 抑時に機会と申が御座候此機会ニ乗じ黙然と

事を為時ハ如何なる大事も成就と申事ハ無

御座候愚生竊ニ当今之時勢を察するに我

神武之国遠夷之米利幹ニ被取付候社好越会

なれ此機会を不失萬代不易国家永久之道

を開かずんばあるべからず其永久之道希ハ三

百年来之旧製を一変して新に実地実

 

16頁 原画

用之兵備を整候候事ニ而其目三ツ御座候城郭

之製と船艦之作と銃砲之造と此三ツ之者ニ御座候

伏而願くハ政府諸明公此所ニ於而千古之活眼

を開き其法則を所対然と彼製ニ

改革し給わん事を

我国軍艦之製ハ姑く置城郭之作銃砲

之造ハ皆其昔正しく南蛮に倣ひ而作りたる

所なり然るに年久敷見慣れたる故往古より之

邦製と心得候而兎角外国ニ倣ひ候を恥辱之

 

様ニ存し違候者も間々有之哉ニ候へとも畢竟城塁

等ニ限らず惣而外国之長取て我国之不足

を補ふ事ハ従来之御国体ニ而聊可恠事ニハ

無御座候因而先蘭書之図説ニ依り来船之

蘭人ニ問ひ又蒭蕘ニ詢と申事も候へば彼漂流

人万次郎等実物親見之者ニも御問合追々ハ彼

より築城学者船匠砲工等迄御呼寄ニ相成益

其精術を尽し遂ニハ旧来之面目を一新

して城ハ八稜形船ハ三本檣銃砲ハ軽便自在之

 

17頁 原画

活動軍と相成候ハゞ十数年を不待して

兵備堅固之強盛国ニ成候事質之鬼神不

可疑候若果して愚生之言を信せずんば

西史中都児格魯西亞之條を見て其明拠

的證ある事を知り給ふへし

一 尚又当今之急務を申上候へば内和人心之一事ニ

御座候此度之義ハ乍恐

朝廷を奉初弐百六十諸候より士庶民ニ至迄

和平親睦惣而如一家ニ無之而ハ大艦巨砲

 

之外寇ハ被防不申候依之先達被仰出候西丸

御普請御手伝之義大小諸候一同御免ニ被仰

付候様仕度奉存候尤此夷国船渡来ニ付新

規御固メ被仰附け向ハ既ニ御免ニ相成候由夫江ハ少シ

階級を御付被成早速御免之御沙汰被仰出候ハゞ

天下一統御仁慈之

御大恩を奉戴愈武備を励み兵具等之

用意も夫々行届

御国家之■屛益堅固厳密ニ相成候御義と奉存候

 

18頁 原画

何分為

神国御鎮護之非常之御仁政被相行候義此

接別而専要之御事と乍憚奉存候 以上 

嘉永六年癸丑八月十一日

         仙台微臣 大槻平次 白

 

明治二十七年一月十一日東京濱町ナル山内香渓ヲ訪フ

主人此冊ヲ出シテ日頃者先人ノ古簏中ヨリ得タリ

蓋シ故磐渓先生ガ先人ニ示サレシモマカ是レ君ガ

家ニ存スベキモノ永ク蔵セラレヨト云乃チ驚喜受ケ

テ装綴ス

            不肖文彦記

 

※ 大槻 磐渓(おおつき ばんけい)、享和元年5月15日(1801年6月25日) - 明治11年(1878年6月13日)、名は清崇、江戸時代後期から幕末かけて活躍した漢学者。文章家としても名高い。

仙台藩の藩校、養賢堂学頭であった磐渓は、幕末期の仙台藩論客として奥羽列藩同盟の結成に走り、戊辰戦争後は戦犯として謹慎幽閉された。

父は蘭学者の大槻玄沢。子に大槻如電と大槻文彦(国語学者で『言海』編者)がいる。親戚に養賢堂の学頭、大槻平泉がいる。

 

 


大槻上書 1   黒船来航

2017-04-15 20:02:38 | 大槻磐渓

1頁 原画

嘉永六年八月十一日林式部少輔殿を以

参政遠藤但馬守殿江差出候愚衷草案

※ 黒船は1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に浦賀沖に午後5時に現れ停泊した。日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「黒船」と呼んだ。(ウイキ情報)

 ※ ぺりー来港は6月3日であり大槻上書は8月11日付けである。2ヶ月余の間にこれだけの識見を表明できる知識人が存在していた事に驚く。

※ これは磐渓自筆文書であるところ貴重です。

 

頁 原画

愚衷

米利幹人渡来ニ付書綴置候愚衷奉入御内覧候

此内壱ケ条も御取用ニ相成候ハゞ書生之大幸不過之奉存候

一  此度米利幹人持参之書翰浦賀表ニ而御請取ニ

相成候ハ全一時権道之由左可有御座御義ニ候へとも其節

大艦四艘共猥りに内海江乗入候を其侭差置候ハ

如何なる御深慮ありて之事ニ候哉、愚存ニハ書翰既

ニ御請取ニ相成上ハ直ニも出帆可仕筈之処俄ニ内海江

乗込冨岡沖江碇を下シ候ハ全我国を軽蔑致候

 

3頁 原画

而之義可憎之至ニ御座候就而ハ即刻御用船御差出

浦賀奉行衆自身出張被致通詞同船ニ而彼船を

追掛使節江面会惣而浦賀以内江不乗入我国之

定法ニ候所其段不案内之事ニ候ハゞ早速乗戻可申

若又国法を心得候而乗入候事ニも候ハゞ萬里之外ニ

使節をも承りなから其国之定法不可犯之弁へも

なき程之人物何事も相談出来不申請取候国書

其侭差戻し候間早々持帰可申旨厳重ニ御断被成候

ハゞ如何なる剛腹之者ニ候とも辱使命候罪過を思

 

合必承服可仕其節ハ戦艦為乗戻候而已なら

ず一札之謝状をも為出可申哉ト奉存候乍去既往之

事今更申上候迄ニも無御座候へとも来寅年二、三月比

返翰承りニ再渡致候節ハ戦艦も増可申何分夫

迄之内篤と御深慮被為有候而再ひ内海江不乗入

手段肝要之御事と奉存候因而先其愚策を申

上候当年之内海岸御備へ方を初御返答振其外

諸事御決定相成候ハヾ来春ハ早々浦賀御奉行並

守衛四家江被仰渡此度ハ渡来之義も前以知居候

※ 守衛四家 弘化4年(1847)、幕府は「御固四家」体制を敷き、江戸湾防衛を川越藩・彦根藩・会津藩・忍藩の有力4藩に負わせた。

 

4頁 原画

義其期に至り必見落申間敷沖合一点之白帆

見へ候ハヾ早速相図之狼煙を揚浦賀御奉行より即

刻御用船差出御組之者乗組神速ニ彼船江乗

付使節江面会前条申上候我国之定法を厳ニ御断

被成尤此度ハ口上而已ニ而ハ行届申間敷兼而御船手

江被仰渡御座船御供船並チヨロ之類迄数十

艘御差出右江葵章之御幕を張廻シ御纏吹流

之類夫々御飾付ニ相成候上相当之御役人為乗組右を

観音崎より冨津之方江向凡三四町置位厳重ニ

 

陣列為致置扨夷人共江彼所江啚船差置候ハ

内外之分界ニ有之必乗入申間敷旨通詞を以為

御断被成候ハヾ彼等も葵章之御幕ハ兼而心得居候義

夫を犯し候而乗越候義必仕間敷ト奉存候此儀

御軍艦ニ御座候へば命宜敷候へとも惣而事ニ文武

之差別御座候来春彼国より御返翰承りニ参り此方

より御渡しニ相成候義皆文事ニ而武事ニハ無御座候然ハ

御番船も軍艦ニ無御座方却而一時之体を得候

歟と奉存候

 

5頁 原画

一 次に御返答御掛合振之義を申上候彼国書翰御

請取ニ相成候ハ一時之権道ニも可有之候へとも来春使節

船御返翰承りニ再び渡来之上ハ事体も不軽義

此方ニ而如何にも厳重ニ御構へ壁立千仞之勢を

為御見相成候而ハ不叶御義依之彼使節ペルリを江戸

迄御呼寄ニ相成閣老御役宅歟又ハ

御城ニ而閣老方御応対之上御返翰御渡しニ相成

義御国体ニ於而相当之事とハ奉存候へとも夫れニ而ハ

余り御手重過候而御取扱も御六ケ敷御座候ハゞ一等

 

を下シ矢張当年之振合ヲ以浦賀久里浜江此度

ハ相応之仮御殿御出来ニ相成閣老御在職之外新

規御壱人被仰蒙諸有司一同同所江御出張ニ相成

彼使節ペルリを船より被召寄新閣老御出座諸有

司列座ニ而貴国使節官位も有之才識兼備之由

被申越此方よりも貴重之大臣差出候条諸事応接

議定可致

上意之趣申達先我国体人情より説起シ議論公平

義理明白ニ御弁シ虚飾欺罔之事ハ一切御用ひ無之

 

6頁 原画

扨通信通商も沙汰ニ不及上ハ別段返翰差出候

筋ハ有之間敷旨迄被仰諭其時使節より一封之

報書も無之而ハ復命も難成段申出候ハヾ兼而閣老

より彼国外国事務宰相江之一書以問易明白之文

ニ認置右を御渡し可成如此厳重ニ御取扱被成候

ハゞ自然彼等之心を畏服せしめ軽蔑之意も

折ケ候道理ニ御座候右も無御座候而唯々浦賀御奉行

を以御返翰而已御渡しニ相成一言之御論解も無

御座候而ハ所詮彼等之心中打解不申如何様之

 

難題申掛候も難斗候此所実ニ

御国家安危之所係ニ御座候へば能く御深慮被

為在候様仕度奉存候

一 此度彼国より差越候使節ペルリ義ハ識見端正ニ

して有才能之由別紙ヲ以申越義も候へ共左様とハ

不被存短智狭量の小人と愚鑿仕候其仔細ハ

彼国より之申付ニも無之一己之存付ヲ以数十艘之軍

艦を以御返翰催促ニ参り可申なと虚喝之言を以

我国を威し掛候ハ誠ニ浅智之至腹底之知たる

 

7頁 原画

男子ニ御座候其上書翰容易ニ御請取ニ成候を

幸と存し国法を犯し猥に内海江入勝手我侭

之振舞致候も皆小量之心より起り候も深沈大度

之處ハ更ニ無御座彼先年魯西亜使節レサノフ

人物とハ格段之相違ニ御座候是ぞ正に我国之大

幸とも可申候此所を能々御呑込御座候而何分臆し候

念を御絶被成従容寛大ニ御諭解被成候ハ必

思召通り事済可申哉ト奉存候

一 閣老より彼国外国事務宰相江被遣御返翰ハ

 

此度御評議中之第一義ニ而乍恐

公儀を奉初親矦諸公閣老参政諸有司

より外矦大小諸矦ニ至迄惣評定一決之上

御認ニ相成候義中々以拙者如き書生輩之喙を

容る所ニハ無御座候乍去兼而外国之事情をも

察し尚又此度彼書翰中意味合も篤と熟

覧仕候義も候間ケ様之者ニも可有之哉ト愚案十条を学

びがてらに書綴り申候余り僭越之至恐入候御義ニハ

御座候へとも萬々一御見合之一助にも相成可申哉と左ニ

 

8頁 原画

認奉入御内見候

   愚案十條

側北閍貴国其初欧羅巴より人種を移せし

頃ハ人民稀少ニして風俗も貪陋なりしが追々

土地広大ニ民口蕃殖し今ハ三十余州合衆国

強盛之国ニ成事に天運ニも叶い年々千百

五拾弐万千七百両之黄金を産するニ至其他

貴重物品之多きハ推て知へし誠に他之小国

区々贏利を営み求る比類ニハあらず我日本

 

ニ在るも竊に欣羨ニ堪さる所なり

貴国我日本と宜く和好すへき之旨極て

其懇切之情を知れり抑各萬里之夷

域に在て国体風土其宜きを夷にし殊ニ

此国より報謝すへき船艦之設けもなく徒に有

来而無往ハ豈礼之宜き得る者ならんや

貴国世々ワシントン氏之定律を守れるハ

獨我祖宗之旧制を守るが如し各其国法

を守りて定律を失ハざる事獨立国之本意

 

9頁 原画

ニあらずや

先年魯西亞国より使節を立我国ニ通信

通商を乞ふ時我固く祖宗之旧法を守

て其乞ひニ応じ難きを諭せしかバ使節ハ

承諾して速に帰帆し尓後再び我国ニ来る事

なし此事僅に四十餘年前ニあり今若新に

貴国之乞ひを評諾せハ信義を魯西亞国ニ

失ふニ至ん豈貴方正実友愛之国之望み

欲する所ならんや

 

支那和蘭之我国ニ来るハ通商ニして通

信ニあらず且其通商を訴せしも既に弐百五十年

之前ニあり当今祖法一定之渡を以例して

これを諭し難し

交易之事ニ至てハ其国有餘之品ヲ以我国之利益

と為そんとするハ懇切之至なれとも我国毎年支那和蘭

貿易定額之外永久別国得輸送すへき物品

に乏しく假ひ交易を結ハんとするも其国之

不足を補ふニ足らず況や祖宗之旧律畢竟

 

10頁 原画

不可改者ヲや

貴国之船支那に航し又ハ鯨猟之為日本近海

ニ至り若破船ニ逢ふ事あらむ其難民を接䘏

し財物を保護せんと之旨其意を領せり我国

之吏民堅く耶蘇教之禁を守るか故に時とし

て痛く外邦之民を拒く事あり不得已に出と雖

畢竟仁慈之道ニあらず今より以後貴国之民

何之浦ニ而も現在難船ニ逢ひたる者と知

らば必救ひ取て接䘏を加へこれを長崎江

 

護送すへし必帰国之便宜を得る事あらん

貴国蒸気船近海通行之節若石炭欠乏ニ

至る時ハ我国所産之石炭を得て其船を接済せん

と之旨是所其意を領せり此品我西海之貧民晨

夕自炊之常用ニして他之外国江供給すへき有餘

あるニ非すと雖尚此義ハ追而議する事もあるへし

薪水及ひ食料之如きハ宜しく長崎ニ至りて其

事を弁すへし必他之港口に入こむなかれ

我国従来長崎を以外国応接之地ニ定メ置

 

11頁 原画

しハ貴国之兼而 聞知れる所なり今若南

境ニ於而新に一處を定めん事畢竟我国之

政治を妨ぐる事ニ而貴邦別国之民を労勤

せしめざる規律ニも叶ハざるべし

合衆國製造之珍品数種園路嘉恵せし事

之旨厚意誠に所謝既ニ和親交易

も貴意ニ不為任上ハ徒に投納せんも本意ニ

あらず幸に郤くるを以て不恭と為ことなかれ

書し畢て佒而祈る

 

貴国之君主益天神之眷顧を蒙り永

々無殭之福寿繁栄を保たれん事を

嘉永七年甲寅三月某日即米利幹建国

七十九年四月某日

右之内魯西亞之一条ハ既に御振合も変り可申候

へとも最初存付候まゝを認置申候

一 朝議ニ交易御許之御沙汰ハ千萬有之間敷

道理とハ奉存候へとも此義ニ付愚生別段心配仕

是迄取調置候義を左ニ申上候

 


膝栗毛30

2017-04-14 10:17:45 | 膝栗毛三編

 膝栗毛3編上を終わりました。

 膝栗毛の読み合わせは2016年1月からはじめたので、1年3ケ月を

過したことになります。当時の会員数は5人、現状は11人ですから会

員数では倍化を達成したことになります。会場代、コピー代、講師謝礼等

苦しい財務状況で解散含みの期間がずっと続いていただけに、その危機

を抜出せたことは講師としてもうれしい限りです。これは世話人の今村

さんじめ会員の皆さまの古文書解読の熱意によるものと思います。

 次の飛躍を目指してさらにがんばりたいです。

 


江戸往来1  翻刻版

2017-04-07 00:37:54 | 江戸往来

 会員の平井さんがヤフーおークションで購入された版本の「江戸往来」です。著作権を気にせず掲載できます。

 「芝泉堂」というのは芝浜松町二丁目にあった筆道塾で、ここには諸藩の右筆や手習い師匠を育成する上級の書道家を目指す人材が集まって門弟数三千人を擁したと言われる当時において日本一の書道塾でした。

「江戸往来」は1669年(寛文9)/往来ものでは先駆的な作ですが、著者不明。江戸の武家の儀礼や、行事、江戸の地名、神社仏閣、諸国の物産などを紹介して、江戸についての参考書のような使われ方をしたようです。

寺子屋などではもじ習得のテキストとして使われました。別名「自遣往来」 

 

 

芝泉堂先生書

江戸往来並八景和歌

東都書林 泉栄堂梓 

 

自遣往来

陽春之慶賀珍重珍重

富貴万福、幸甚・幸甚、日々

新而自他繁栄重畳、於

于今者雖事旧候、猶更

 

                        不可有休期候、先以年始之

御規式、元日二日御一門之

御方々、国主、城主之歴々

三献之御祝、其外諸候

昵近之面々、詰衆、番頭、物頭

 

諸役人、諸番之健士、御流

頂戴之、且又大中納言、参議

中将、少将、侍従、四品五位之

諸大夫迄者、美服二領宛下

賜之、依家禄之軽重与官

※休期・・・(きゅうご)辞書にない言葉ですが,現代の言葉に訳すれば休暇

 

                         位之浅深、或台、或以廣蓋

拝領之、三日者諸大名之息子

無位無冠並諸家中之証人

及京都、大坂、奈良、堺、伏見

淀、過書、銀座、米座之輩迄

 

群候于落縁、品々進物奉

捧之御礼申上候也、同日入夜

為御謡初酉刻大広間

出御祇候之大小名令着長

装四座之猿楽、群居

※証人・・・江戸時代、幕府が人質の意味をもって、江戸屋敷に居住させた

       大名の妻子。

 過書・・・ 関所通行の許可証。律令制では、官人に政府の発行する通行証

      を携行させた。中世には通行税免除証となり、江戸時代には関所

      手形となった。かそ。ここではその場所を言っているようだ。

  ・・・読みは装をつくろふるですが、つくろうが漢字一覧にありません。

 

                     板縁、御囃子三番、所謂老

松、東北、高砂是也、折々小

謡唄之、従諸候所献御盃

台、銘々披露有之間、御酒

宴也、御作法之結構、言語

 

道断、難顕筆端候、門々警固

挑灯者輝櫓多門、焼戦篝

火者映堀水、不異白昼候

五日者寛永寺之僧侶数

十許之輩、六日者近里遠

 

                        境之諸寺、諸山、出家、社人

山伏等数百人充満于営中

奉拝 台顔、七日者七種之

御粥献之、十一日者御具足

御祝並連歌之御興行是

 

依御嘉例也、十五日者恒例之

諸御礼、十七日者東叡山

御参 宮、廿日同所御参堂

廿四日増上寺御仏詣也、凡

此三箇日者別而被改御装束

※台顔・・・将軍の顔、拝謁すること。

                        被回長柄之御輿、供奉之

勇士列二行其出立、或時者

衣冠衛府之太刀帯之、又或

時者大紋風折烏帽子也

布衣以下平侍、頗難斗

 

其員、辻々、門々、屋々警固

着烏帽子、素袍袴、平伏

大路而敢無奉拝御轅(ながえ)

殿及入御者予所候之

        伶綸奏楽、繁絃、急管金

※布位・・・(ほい)6位相当の官職

 

                        玉之聲玲瓏而澄心耳

衆僧者解御経之紐、奉読

誦之音声斗会而響

青雲九天之上、天人影降

菩薩来臨経歟与疑、無

 

精草木垂枝敷葉翔空

翅下地、走地獣者屈膝抛

脛、况於人倫哉無不傾渇仰

首御先祖之御崇敬、仏神

      御信仰l理世安民之御政言袷(かれ)

 

            言恰(これ)前代未聞之名君挙

世所知之也、猶追日、時々節々之

御祝儀、其外臨時之御祝等

連綿而無断絶候、誠目出

度御粧嘉展令月歓無

 

極千秋萬歳不易之御代

誰不奉仰之哉、因茲国々之

土産所々之珍奇、日々之進物

菓肴衣服器財以下雖令

混乱任、思出馳禿筆

※禿筆・・・(とくひつ)穂先の擦り切れた筆。ちびた筆。また、自分の文章や筆力

       を謙遜していう語。

 

是併大海之一滴九牛之

一毛也、先御菓子者吉野榧

非異朝、大和柿、小渋柿、西

條柿、八代蜜柑、白輪柑子、上

條瓜、真桑瓜、舳瓜、川越瓜

 

当所之新田、鳴子瓜、浅草

鯉、芝肴、品川海苔、馬刀蛤

岩堀菱、醒井餅、仙台糒(ほしい)、

氷餅、甲州之楊梅、林檎、丹波

大栗、朝倉山椒、鎮西之薏

 

 

 

                                              

          以仁、博多練酒、白芋茎、

 

         菊池海苔相良和布、雅海藻、

十六嶋海苔、日光山岩茸

富士苔、松本漬蕨、川茸、海

(うみきのこ)、入野鮒、岩槻鯽、竹嶋

 

海部熨斗、紀伊国忍冬

酒、興津鯛、丹後鰤、能登鯖

岩城浮亀、海丹塩辛、松前

昆布、膃朒𦜝(おっとせい)、小豆島之串海

鼠、、五嶋鯣(するめ)、宇和鰯、黒漬、疋