写生自在17 朝鮮時代3
大根を洗ひ今度は甕洗ひ 迦 南
両手添へし頭上の甕や花杏 〃
甕に汲み頭にかつぎ春の水 〃
芽柳や岸もせに甕舟に甕 〃
頭に物を載せて運ぶ運搬法を頭上運搬と呼ぶらしい。内地では京都
の大原女などに遺っていますが、一般には廃れてしまってこの時代
には殆ど見られなくなっていましたが、朝鮮には広く遺っていたので
す。作者はその習俗に興を覚えたのです。
一句目は頭上運搬を詠んでいる訳ではないのですが、甕というのは
縁語なので採り上げてみました。ここは「今度は」という措辞が新しいと
いうか、変わっているところです。普通には「次には甕洗ひ」でつうじる
ところを、口語体にして意外性を出して成功しているのです。
技術的なことをすこし言っておきましょう。泥のついた大根の入れてあ
る甕を抱えてきて、水辺にしゃがみ込んで、女がそれを洗い始めた。見
ているうちに、実にてきぱきとした身のこなしで小気味よく大根を洗って
しまい、今度は甕を洗いはじめた、これも軽快な動きで洗ってしまった
と言うのです。作業の一部始終を見ていて、若い女の手馴れたその仕
事ぶりに作者は感動しているのです。この感動をいかにして俳句に表
現するか、流石に迦南は手錬です。
~ひ~ひ という畳句の手法を用い語尾を連用止めとしました。連用
止めは句が軽くなって締まりが悪いので終止形で止めるのが普通で
す。この句で言えば「甕洗ふ」となります。ところが、それでは重いので
すね。ここを連用止めとし畳句の手法と組み合わせたために上記のよ
うな句解となるのです。
このように俳句は叙法の力を借りて意を運ぶということがあります。
二句目、「李下に冠をたださず」の諺をすぐに思い起こしますが、杏が
実になる前の花の咲いている時節、頭上に甕をかついで手を添えてい
る朝鮮女性の図です。
三句目、これは水汲み女です。甕に汲んだ水が「春の水」であるとこ
ろに外の季節とは違う瑞々しさが感じられます。これも朝鮮女性を美し
く描いています。
四句目、この句は「せにも甕」という表記がすこし判然としませんが、
わたしは「背にも甕」と解しました。甕を背負って岸を歩いている人がい
る、甕を積んだ舟が進ん行く、そして柳が芽吹いている。そういう春先
の風景を詠んだものでしょうか。甕という生活用具が朝鮮においては必
須のものだったように思われますが、これには何を入れていたものか、
今となっては考証物ですね。詳しい方がいたら教えてください。現代は
こういう用具もポリ容器などに取って代わられて甕などは骨董店に並ん
でいるだけかもしれませんね。