ぼちぼち スウェーデン

スウェーデンで見たこと、聞いたこと、考えたことを、同時代に生きるみなさまとシェアーを!

真面目なスウェーデン論を!

2010-09-25 | 人々のくらし

東京のある放送局から電話によるインタビューを受けた。 

そのきっかけは、スウェーデンに住む一日本人女性による朝日新聞への投書である。

その投書は、「高齢者はホームで虐待されている、学校で配布される教科書はぼろぼろ、生徒の学力は落ちている、年金制度も破たんしていて、自分の将来は不安である」というような内容であったらしい。その投書を契機として、日本ではスウェーデンははたして福祉国家なのかどうかという議論がおこっており、その一環でラジオ番組を組まれたという。  

わたしへの電話は、スウェーデンでの生活者としての実感を聞くためであった。ジャーナリストの方と色々話して受話器を置いたあと、私たちの会話の内容をゆっくりと考え直した。後味がなんだかすっきりしなかった からである。それから得体のしれない怒りのようなものが、じわじわとわいてきて、1日たった今では、それがもっと強くなっている。それで、これを書くことにした。    

  もういい加減にしてほしい!  

率直に言おう。いい加減で無責任なスウェーデン批判は、もうやめてほしい。もう、馬鹿ばかしくてうんざりだ。 断っておくが、わたし自身は、べつにスウェーデンの崇拝者でもないし、スウェーデンは完璧な理想社会であるとも思っていない。青写真で理想象が描けても、生身の人間がそれを実現させるのは至難のわざであることは過去の歴史が証明している。

しかし、体験として日本とスウェーデン社会をしっている。 その意味ではこの二つの社会をくらべてみることはできる。 わたし自身、その投書を読んでいないので、誤解があるかも知れないが、以下、問題の投書に対するわたしの考えを記してみる。  

《高齢者への虐待》 残念なことに、時々そのようなことがおこり、そのたびに大騒ぎになる。

しかし、介護疲れで老夫婦が(無理)心中したり、子どもが親を手にかける尊属殺人はおこっていないし、今の社会ではそのようなことが起きる状況自体が考えられない。福祉社会では、個人の福祉は国家の責任範囲であり、家族をそこまで追い詰めないからだ。

その他の社会施設も含めて、高齢者施設での虐待などは、たまに起こる事故のようなものだと思う。それを「福祉の崩壊」に結びつけるのは、かなり短絡的であるとわたしは思う。事故は過去におこっているし、これからも起こるであろう。それだけのことである。   

《ぼろぼろの教科書》 確かにこの頃の教科書はひどいところがあるようだ。とはいえ、これも地方自治体の懐具合による。80~90年代に地方分権化がすすめられ、地方自治体による裁量範囲が大きくなり、税率の設定はじめ徴税、市民福祉サービスも自治体で行うようなシステムになっている。そのため、児童・高齢者など市民福祉に関しては、地域差がかなり大きくなったようだ。格差による弊害の是正は、現在は政府が中央で調節している。 

景気がよく国庫も豊潤で、福祉がより寛大であった頃には、新しい教科書だけではなく、ノートから鉛筆まで生徒一人ひとり全員に支給されていた。地方によってまだそれが続いているところがあるようだ。 

いずれにしても、新品でも、ぼろぼろでも、教科書に公費が使われ、生徒には無料で配布される国は地球上、いくつくらいあるのだろうか。   

《学力の低下》 教育分野にかんしては、わたし自身勉強不足であるが、考えられる大きな理由は、福祉財政の緊縮だ。予算が少なくなると、教員の数が減り、生徒の心身の健康を守る医療関連スタッフの節減、あるいはゼロ配置が行われ、また、1クラスの定員が大きくなる。さらに、教員の給料は低くなるとステイタスも低くなる。それに、労働強化のみが高まる職場には優秀な人材は集まらないという、悪循環になるというのが実情だと思う。 

もちろん、経済の動きに左右される面は大きいが、減税という声におされて、税収入がすくなくなると、もろに市民生活に影響し、直接、教育や福祉などの市民生活の質の低下につながる。   

《年金制度が破たんしている》 これにはもうあほらしくて言う言葉がないくらいだ。その40歳代の日本女性は、何年位スウェーデンに住んでいるのかしらないが、ここの社会制度についての知識はあまりないようだ。なきに等しい知識でいい加減な発言をして、世の中を騒がすのはどうかと思う。

聞いたところでは、「自分の年金は、月額1万とか2万で将来は不安」だそうだ。そんな月額ではだれも生きていけない。不安になるのは当然だ。  

福祉国家が住民をそのような扱いをすると思われているのだろうが、スウェーデンの福祉制度は、そんないい加減なものではない。この国の福祉の原点は、 「市民の一人ひとりが社会的・精神的に自律し、経済的に自立できる」ことである。つまり、最低の生活保障を国がおこなっており、べつに他人(ひと)に頼らなくても生きていける仕組みになっている。そのために、毎年物価指数に連動して、生活に必要な最低金額がはじきだされ、その金額は年金だけではなく、病気になった場合、失業の際にも支給される保障額の基準となっている。年金制度のなどの破たんなどが予見されると、いち早く法の改革を行い、未然に手をうつ。スウェーデンの国家組織は有能だ。  

《続く》


真面目なスウェーデン論を!(2)

2010-09-25 | 人々のくらし

 しっかり働いて豊かな老後を

その日本人女性の話に戻ると、年金が月額1~2万円しかないというらしいが、じつはそれは年金積立の対象になる、彼女自身の一年間の収入額のことではなかろうか。もしそうなら、彼女の年収はかなり少ないようだ。老後が不安である原因はここにあるのではないか。スウェーデンでは常識ではあるが、福祉制度は最低生活を保障はするが、それ以上の豊かな生活は自分で編み出す仕組みになっている。  

例えば、疾病手当、育児休暇、年金などの支給額は、本人の普段の収入額にスライドして支払われる。老後が心配なら65歳になるまでしっかり働いて、しっかり税金を納めておくことだ。”ひだりうちわ” の豊かな老後を実現するのは自分である。年収が少なければ当然、年金も少なくなるが、それは自分次第だ。     

年金制度のことがよく理解できなければ、関連組織に連絡して説明して貰えばよい。スウェーデン社会の福祉制度は、全員による全員のための保障制度だ。そのような社会ではだれもが人間らしく生きていく権利を保障されるが、そのかわり義務も課せられる。だれにもが福祉社会の維持に労働という形での積極的な社会参加が期待されている。  

よく聞くことは、福祉社会になればだれも働かず、怠けものになるということだ。

なるほど、最低の生活はできるが、他の人が休暇を楽しむセカンドハウスやヨット、海外旅行などは、自分に稼ぎがない限り、まず無理だ。働くことは即高い生活の質につながるというインセンティブはちゃんとある。働くと報われるのだ。働かなくても豊かな生活ができるなんて、むしのいい話はこの社会にはない。福祉社会はそんなに甘くない。    

  信頼できる政党を選ぶ

福祉社会とは、住民全員が資金を一括して国に預け、それを使って市民全体の福祉を図ることだ。大変な税額を支払うので、大きな賭けとなり信頼できる政府でないとそのようなことはしにくい。そのため、スウェーデン人は、自分が希望する税金の使い方をする政党を選ぶ。  

投票率もかなり高く(本年度は84.6%強)、その後も政治をずっと監視していく。政治に関する関心が高いのは、自分たちで政治を動かしていると思っているからだ。その政党に満足できないと次は別のを選ぶ。  

スウェーデン人の考える福祉の中枢は「医療・教育・福祉」(スウェーデン語では、 Vård, skolan och omsorg)の三語に象徴されている。この三つの分野が福祉の絶対的な対象であり、全員で運営していくということには、国を挙げての合意がある。どの政党が政権を担っても、この三分野が政策の主対象となる。  

しかし、「どの分野がより重要で、どのように行うか、そのためにはどの位の資金が必要で、それをどこから、どのように調達するか」についての考え方が、それぞれの政党のカラーとなる。   

いまは、新自由主義的な志向が強く、低い納税額を望み、医療や教育関連などは普遍的な福祉制度より、自分の財布の厚みを利用できる制度を希望する声が強い。今回の選挙も、これらの声を代弁する保守系が、辛勝だが続けて政権を担当することになった。連帯の精神で平等社会を目指し、長い時間をかけて福祉社会を構築してきた社会民主党の人気は、大幅に後退した。   

今後、社民が政権の座に、何時返り咲くかは定かでない。しかし、「医療・教育・福祉」中心の社会福祉はこれからも確固として存在していくであろう。 社会の基盤としてしっかりと腰をおろしているからだ。    

 木と森を見て庶民の生活を考える

 今回のような投書騒ぎは、定期的に起こっている。典型的なのは病葉(わくらば)だけを集めて束にして、スウェーデン社会を批判することだ。病んだ葉っぱだけを見たら、とんでもない社会と映るだろう。それより健康な葉もいっぱいついている木を見、それが植わっている森全体を見るべきではないか。 するとその社会をマクロ視点から理解することができる。  

率直にいうとスウエーデン型の福祉社会は、ふつうの庶民にはありがたい。だれもが一律に、大病で難しい手術を繰り返す、子どもが外国で 勉強する、5週間の休暇が楽しめる、65歳から生活できる年金にアクセスできるという社会は悪くない。  

それでも懲りずに、安易な「病葉批判」がくりかえし起こり、スウェーデンを目の敵にするのは理由があるからだろう。このような社会つくりを市民が要求したら、面倒で都合が悪くなる大きな勢力があるからに違いない。だから、厄病神のように仕立てあげ、人々を怖がらせるのか。 

また、言論は当然、自由であることは大切だか、今回の投書のようなものをそのまま鵜呑みにし、騒ぎだけを大きくするメディアがあるのも考えものだ。情報を正しく伝えのはメディアの重要な役目のひとつであるはずで、ニュースソースの検証は当然だろう。  

その点、今回、連絡をいただいたTBSラジオはまっとうに「誤解だらけのスウェーデン生活の実態は?」というテーマであちこち取材しておられる。このようなメディア(マスコミ)は貴重だ。


(後記:残念ながら、電話で取材を受けた時の印象と、実際にラジオで報道された内容とは、大きくかけ離れていたとのことです。「ブルータス、お前もか」で落ち着いたようです)

わたしは、どの社会に住んでいても、人はだれもが有意義な人生を送る権利が あると考えており、そのために一つの実験国としてのスウェーデン社会をよりよく知ることは悪くないと思っている。 住民のために、よりよい社会にしていくには、参考に出来ることは全部検討してよいと思う。  

日本が近代化を経て、大きな経済力を得たのも、それだけではないが外国の経験を参考にしたからではなかったか。それが一般マジョリティーの市民層の生活向上となると抵抗がおこるのはなぜだろう。これだけは、国中が一体となり全員でとりかかれないのだろうか。

政権党も変わったことだし、いまみんなで真剣にその問題を考えてみる時期にきているのではないだろうかと考える。